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ワンパターン作家の罠

大概、信者もいるけどアンチも同数ほどいるんじゃないだろうかという作家には、水戸黄門の印籠のようなお約束パターンが必ずと言っていいほどある。

例えば虚淵を見てみよう。

『Fate/Zero』 Blu-ray Disc Box ?

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Fate/zero』のキャスター登場の時、龍之介に囚われた子供を助けるふりをしてつかの間の希望を与え、しかし直後に抹殺する。
一度もちあげて奈落に落すといった手法だ。

これは『まどマギ』にもあった。有名な巴マミの死亡シーンだ。
直前にまどかが契約すると言い、マミは嬉し泣きする。そして「もう何も怖くない」。
しかし直後、魔女との戦闘であっけなく死んでしまう。まどかたちは悲嘆にくれる。

もう一つ『Fate/zero』からあげると、ランサーが死亡する時もそうだった。直前までパニくってるマスターそっちのけで、セイバーと騎士道()ごっこに興じ、「お前と出会えてよかった」などと最高の微笑を見せ、直後に切嗣によって自害させられる。そして、呪詛を吐きながら死んでいく。

虚淵いわく「これが真の絶望」。

実際、世の中には他人を奈落の底に突き落とすことが生きがいのような輩がいるが、これはそいつがクズなだけであって、そいつのもたらす不幸は当人にとっての絶望などではなく、単に「運がなかった」だけではないか。

絶望とは、内なる動機から発するものだ。他者によって強引にもたらさせるものではない。
というのも、自分はうつ病を患った時、人生の底を見るような思いを味わったわけだが、それは外部の力ではなく、全て自分自身から発する衝動だった。
しかも、自分自身を呪っているから、助かるすべがない。唯一の望みがあるとすれば自ら命を絶つことだ。しかも命を絶つだけではなく、この世に存在したこと、自分の存在証明そのもの、自分の記憶を持っている他人の記憶もすっかり消しさって、そもそも自分が存在していたことなどなかったことにして消えてしまいたい、と願った。
こんな気持ちはうつ病を患った人間じゃなければ決して分からないと思う。

だから、虚淵の手法を見ていると、子供だましなのだ。こういったお約束シーンが出てくるたびに、「ああ『印籠』=運が悪かった」程度にしか思わない。「絶望」()など感じようもない。

でも、虚淵信者はこのパターンにしびれている()らしい。罠にはめられればそれが絶望()なんて小学生のいたずらと同レベルじゃないか。

パターンといえば、これはどうでもいい話だが、おいらはアニメを制作会社で見ると言う変な癖があって、例えば押井つながりの「スタジオディーン」は、なんでか見てしまう。

世界一初恋2 限定版 第1巻 [DVD]

世界一初恋2 限定版 第1巻 [DVD]

最近は女性向けアニメを作っていて、その中で『世界一初恋』というBLアニメはネタとして面白かった。
最初に言っておくが、これを好きな女性ファンをdisるつもりはない。ただ、この作品が漫画が原作で、原作に忠実であるとするならば、この作家も一つのパターン化した展開を確実に持っている作家である。

いくつかのカップルの話を平行して放送していた気がするが、主人公(男)が恋の相手(男)ともめるのは、まったく同じパターンしかなかった。

例えば、主人公の相手が昔つきあっていた女性と偶然街で出くわし、親しげに話しているところを主人公が物陰から見てしまい、ショックを受け、やっぱり自分のことなんて好きじゃない、と思い込む。しかし、相手が何を言っているのだ、と誤解を解き仲直りする。
こういうのもあった。やはり主人公の相手が昔(ry男性と今も親しくしていて、主人公が俺のことなんか(ryとなり、相手が何を(ry、俺が好きなのはお前(ryと仲直り。
さらにこういうのもあった。主人公の相手が幼馴染ともめているのを主人公は物陰から見て、「あいつら付き合っているのか?」と思い、相手にふっかけると「何を(ry」(同じことを繰り返し書くのがいい加減しんどくなってきました)、俺が好き(ryと両思い。

面白すぎる。
少女漫画の類型だと言われればそれまでだが、担当編集者は気づいているのかいないのか、気づいていてわざとそう描かせているのかわからないが、仮面ライダーに必ず付いてくるショッカー並のお約束っぷりである。

得てして、オタクは「ストーリーはいくつかのパターンしかない」と分かっている割りに、物語の類型化、構造を分析して読み解くのが苦手な人が多い気がする。
その辺は文芸評論や現代思想書でも読んで、勉強してください、と言いたいところだが、その手の分析でもっとも功績を残したのは今は見る影もない蓮實重彦だ。

小説から遠く離れて

小説から遠く離れて

『小説から遠く離れて』は一見まったく違うストーリーに見える長編を構造的に分析し、同じストーリーの類型だと証明してみせた著作である。
この本のせいもあるし、以前から確執(と言うか一方的に)があった大江健三郎は尽力して書きつくした大長編が、他の作家の同時期の作品と示し合わせたかのように一緒ですよ、と断言され激怒し爆発した。

枯木灘 (河出文庫 102A)

枯木灘 (河出文庫 102A)

この著作の中で唯一蓮實が評価してたのは、中上健次の『枯木灘』だけだったように思う。「ギリシア悲劇の形をとっていながら、終わるはずのラスト以降も書きつづけ物語のパターンから抜け出している」とか、幾分10年以上前に読んだので忘れてしまっているのだがそんな評価だったと思う。

こうした構造分析的に見ると、虚淵の作品はどれも一本筋の通ったストーリーすら存在しない。ただ、だらだらとエピソードが羅列されていくだけだ。
まだ、ああしてこうしてこうなった的なストーリーの枠があるほうが見ごたえがあるというものだ。