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零落/浅野いにお

叙情とは何か


おやすみプンプン』の記事を書いた時、浅野作品を叙情的だと述べたところ、叙情を「(誉め言葉として)便利な言葉」と記していたツイ主がいたが、単に叙情の具体的意味が分からないだけだろう。


戦場のメリークリスマス』公開時に、大島渚が映画の説明で「伝わることの嬉しさ、伝わらないことの悲しみ」とギャグかネタみたいなことを言ったが、叙情とは実はこれである。


何気ない日常や場面だけで情感を描写し尽くすこと、説明抜きに見るものの感情を強く揺さぶること、否応なく感情移入させられること。
端的に言えばこれらが「叙情的表現」である。


浅野作品について言えば、「忘れたくないのに忘れてしまえること」「伝えたくないのに伝わってしまうこと」が『うみべの女の子』なり『おやすみプンプン』を構成していた。そのため、叙情という言葉で表したが、今作の『零落』も実に叙情的完成度の高い作品のため、先に前置きさせてもらった。

現代版『漫画家残酷物語

浅野いにおにしろ花沢健吾にしろ、売れない中年漫画家の悲哀を描くことに実に長けていると思う。
花沢健吾は言わずもがな『アイアムアヒーロー』の1巻であり、これまでの浅野いにおなら『世界の終わりと夜明け前』収録の『東京』だった。


そして本作は、永島慎二の『漫画家残酷物語』の分厚い三冊を束にしても、あるいはつげ義春の『ある無名作家』に匹敵するかもしれない傑作だ。
永島慎二つげ義春は貸し本漫画時代の漫画家たちの貧困と理解されないことの苦しみを描いていたが、『零落』はその現代版ともいえる。

売れない作品は不良債権なのか

かつて大塚英志が、「不良債権としての文学」と称して、「売れない純文学など滅んでしまえ」とばかりに文壇を糾弾し、笙野頼子と論争したことがあった。


確かに「下らなく、さらに売れない作品」は世に出てもムダでしかない。
しかし、大塚はここで決定的なミスを犯した。「売れないこと」の一点にだけ的を絞ったために、作品の「質」については問わなかった。
結果、「質は悪いが売れればよい作品」が増え、今のラノベや「なろう系」に繋がっていく素地を作った。大塚の功罪は計り知れない。


『零落』は、まるで大塚の主張を丸ごと飲み込み、そうした漫画家の苦渋を描ききった現代版の『漫画家残酷物語』である。


数だけが正義であるとするならば、そんな文化は不幸しかない。
『零落』も暗にそのことを示している。

「漫画」の縦軸と「女たち」の横軸

本作は縦軸に「漫画家残酷物語」としての、長期連載を終えたものの、新作を描けなくなってしまった主人公である漫画家・深澤がおり、横軸にはメタファーとしての「猫」と深澤を取り巻く様々な立場の女たちがいる。


配分としては、デリヘル嬢の「ちふゆ」との出会いから、彼女と過ごすエピソードが多いが、主眼となるのはやはり主人公にとって最大の理解者であり、なんの落ち度もなかった「妻」との別れだ。

「子供」のメタファーとしての猫

飼い猫の存在は、子供のいない主人公夫婦にとって子供と同等だ。
猫はほんの数コマしか登場しないが、作中の、始終張りつめた緊張感と息の詰まりそうな空気の中で唯一の安らぎを与えてくれている。


鳴くことすらしない愛猫は、おとなしく無垢で、夫婦のことなど何も分からない子供のようだ。


しかし、主人公夫婦が口論すれば、最初にアップされるのは驚いた猫の表情であり、二人の会話の合間も、階段からそっと覗き、出て行く深澤を黙って見送る。まるで父親が出ていくのを止めることすらしらない子供のように。


主人公夫婦は離婚を前提とした別居という道を辿るが、猫は妻に引き取られる。深澤が一番悲しむのは、猫と会えなくなったことだった。

「猫」のメタファーと子供

深澤は連載終了後から、歓楽街へ足を運ぶようになる。現実と理想の挟み撃ちのせいか、最初からデリヘル嬢に甘え、子供のように抱きつく。(もっとも、この嬢に関しては、頭の悪そうなバカな女性なのに、彼女の腕にある無数のリストカットの痕に気づいた直後の出来事だったが)


そんな中で、過去に付き合った猫顔の女性と同じ猫顔の嬢「ちふゆ」と出会う。ここでも深澤は甘える子供のように彼女に抱きつく。

猫の死と離婚

別居からかなり経たあと、愛猫が病死したことで、夫婦の絆が消えたように、深澤は妻と正式に離婚する。


猫は二人にとって大切な「子供」であり家族だった。

漫画を愛しすぎた漫画家

深澤は誰よりも漫画を愛し、愛しすぎた故に、自身まで追い込み、大切な人=妻を傷つけていく。
自分のことしか考えていない発言や行動が目立つが、主人公を取り巻く女性たちもまた、自分自身のことしか考えていない。


特に顕著なのはアシスタントであった女性が、何度も深澤のもとに訪れては、理不尽なことを言っては、深澤を苛立たせる場面だ。
彼女は主人公の身勝手さをなじるが、これ以上にないほど身勝手な主張をする。


蛇足だが、現実にもこういう人物は普通にいるので、自分は読んでいて頭が痛くなった。


両者の間に横たわる圧倒的な断絶感と距離感。通じ合えることは永遠にない。


浅野作品の登場人物は、現在のコンテンツ産業に蔓延する「何の努力もせずに幸福を手に入れている(あるいは手に入れてしまう)」主人公らとは違い、いくら努力しあがいても(あるいは努力していなくても)絶対に幸福になれない。

内省と感傷

作中には深澤の内省が貫かれてはいるものの、感傷については、時折見せる叙情的なカットの挿入---終盤、自宅の前で雨が降り出し、若く幸せだった頃の主人公と妻が、それはまるで『ソラニン』の主役の二人---の姿がフラッシュバックで登場する。

「君は…何にもわかってない…」

主人公はラスト、遂にある結論に達するが、それは自身の理想とかけ離れた、相容れない現実を受け入れることだった。


描きたいものより売れるものを描くこと。
冒頭で「描き手が読者を馬鹿にしたらおしまいだ」と言い放った深澤は、最後はそちらを選択する。つまり「読者をバカにする描き手」になるのだ。
若かった頃の野心に燃える自身の理想を望みえることなど二度とできないと悟りながら。


主人公はいささかも幸福になってはいないが、新連載の単行本発売記念のサイン会で、一人の女性読者の言葉によって激しく心を動かされる。

先生は私の神様です……!
これからもずっとずっと素敵な作品を描き続けてくださいね!!

それと同時に、過去、猫顔の恋人から言われた言葉を思い出す。

漫画に対していつも真剣で、ひたむきで、それが正しいことだと思ってる。


…だからあなたはいつだってそう。周りの人間を当然のようにないがしろにしてしまう。


あなたが漫画を描き続ける限り、あなたが漫画家の夢を諦めない限り、あなたは誰かを傷つける。


だって先輩はこの世の中で、漫画家が一番偉いと思ってるから

「漫画家が一番偉いと思っている」と言われ、主人公は恋人に殺意のような感情すら抱く。


深澤がこの世で一番偉いと思っているのは漫画家ではなく漫画である。「たかが漫画」にそこまで熱くなる深澤を「化け物=変わり者=まともじゃない」と言いきったからだ。


深澤の言動は自己愛というより、漫画を愛しすぎた故に拘りが強くなりすぎ、自分にも他人にも厳しくなった結果の産物だ。
しかし、往々にしてそうした作家は、肥大した自己顕示の塊だと誤解されてしまう。

作り手はもっと受け手を信じろ

数年前に他界した『旅芸人の記録』の映画監督・アンゲロプロスは、自身の作品の難解さについて「作り手はもっと観衆を信じるべきだ」とし、自分は観衆を信頼しているし、届く人がいると信じているから作風を変えないと生前に述べていた。


これは言うほど容易なことではない。こだわりが強く、表現そのものの可能性を信じ、個性の強い作家ほど、数字の前で敗北を味わうことが多く、受け手との溝に落胆する。けれども、元から受け手を信じていない作家など一人もいないのだ。


作家は受け手を信じたくても信じ切れない現実に直面し、自身の表現に苦悩する。
本作の主人公もそうした葛藤から作品を描けなくなるわけだが、最後はそうした拘りを完全に捨て去ってしまう。

浅野いにおの芸術性

深澤の設定が、『おやすみプンプン』の長期連載を終えた直後の浅野いにおのそれに被るのは言うまでもない。
前ほど売れなくなってきていることへの落胆と苛立ち、燃えつきてしまったような瞳の主人公。
しかし、実際の浅野は現在連載を抱えているし、それは『おやすみプンプン』からそれほどブランクを経ていなかったはずだ。


直近のインタビューを読む限り、本作は実話でありつつ実話でないような、半々の印象を受ける。
仮に自伝的要素があるとしたら、よくここまで自身を被写体化し、私情を交えずに描ききったと思うし、逆に全てが作り話だとしたら、鬼気迫る作家の切羽詰まった生き様のリアリティの描き方に驚くしかない。
どちらにしても、独りよがりにならず、自律した作品として完成度の高いものになっている。

有能な編集者と幸福な漫画家

それにしても浅野にこのような作品を描くことを許し、魅力を最大限に引き出し、浅野の持つ個性的な表現を許した担当編集者は優秀だと言わざるをえない。
その意味で浅野いにおは、作中主人公・深澤よりずっと幸福なのだ。


願わくば、こうした有能かつ優秀な編集者に守られながら、浅野が作品を描き続けてくれることを願うのみだ。