「敗者の美学」に酔ってるただの負け組
最近よく思うのだが、マンガを長く描けば描くほど、自分の理想とかけ離れてることに気づくことが多くなった。
「売れたら描きたいものを好きなだけ描かせてやる」的なことを編集者は新人漫画家に言うことが多いけれど、実際、描きたいものが「理想」である場合、そんなものは一生かかっても描けないんじゃないだろうかと思うのだ。
作風とは所詮、洋服と同じで、いくら上等なブランドものを着ても、他人から見た時、着てる人によって服の価値が変わってしまうように、作家も自分の身の丈にあったものしか描けないし、また描いてはならない。
ならないというより、どうせ描けないので、無理しても失敗するだけだという意味なわけだが。
漫画家の中には売れるようになったことで、デビュー時より自由な作風になっていく人もいるが、必ずしもそれは本人が望んでいた「理想」を描いているわけじゃなく、むしろ描けるものを描くようになっただけの話じゃないかと思ったりもする。
本当のところは作家本人にしか分からないわけだが。
ただ自分に限って言えば、若かった頃は目標とするもの、理想とする作品を、いくらでも描けるような気がしたし、自分はいくらでも自由で無限だ、といった誇大妄想と根拠なき自信に支えられていた気がする。しかし年を取ったせいか、今では「理想」には決して近づけないことばかりを実感するようになった。
むしろ今、描いているものは「理想」と逆な気がするし、そもそも目標としてる作風や作品が思いつかない。憧れの漫画家がいて、真似たくても、才能の限界や脳みその構造の違いを思い知らされるばかりで一歩も近づけないでいる。
とどのつまり、人は自分に見合った、できる範囲内のことしかできず、作家は己の限界を知ることにより、逆に作風を確立していくものなのかもしれない、と思ったりするのだ。
昔話になるが、自分は20代前半まで、とある漫画家の完璧なエピゴーネンだった。その漫画家の影武者になりたいと願い、作風や絵柄を徹底的に勉強し必死で真似て、コピー作家に成り果てた。その時はその状態に非常に満足していたし、自分は「自分」という作家にまるで興味がなく、とある漫画家を通して見てもらえることに存在意義を感じていた。
コピーやクローンが、オリジナルがあってこその存在価値しかなく、コピー自身がその状況にご満悦という状態だ。
そんな自分をみた友人が「とある漫画家を真似したいと思うような奇特な漫画家志望者なんて普通はいない。真似るならもっと別の人気のある漫画家を真似る」と言われたが、恐らく、とある漫画家が売れっ子ではなく、知る人ぞ知る的なカルト作家だったから、そんなことをぼやいたんじゃないかと思う。
実際、自分以外に影響を受けてると思しき漫画家にはついぞお目にかかった試しがない。
影武者作家となり、本人公認済みとはいえ、やがて模倣をやめ作風を変えていったわけだが、これにはいろいろと事情があったけれど、コピー作家だったことによるトラブルに巻き込まれたことも理由に関係している。こんな面倒くさいことに巻き込まれるくらいなら、いっそやめようみたいに思ったのと、長く真似てるうちに段々と飽きてきたというか、勉強しつくしてしまい十分だなって思い始めたのが岐路だった。
とある漫画家の模倣を始めたのは、もちろん作風に対する憧れが一番強かったわけだが、本当は単に「こういう漫画家になりたい」という立ち位置やスタンスに憧れていただけだったのじゃないかと、今にして思う。
そういう憧れが、今は完全に消え失せたかと言われれば、実はまだあって「所詮、自分には万人受けする作品なんて描けない。だったら一部の人に熱狂的に受け入れられるような描き手になりたい」。こうした夢は今も尚、捨てきれずにいる。
しかし実はこれ、裏を返せば人気者になれなかった奴の僻みのようなもので、どうあがいても多数派の人気者になれないのだから、せめて手に入りそうな範囲で夢を見させてくれという甘い考えでしかない。そう思うことでしか、自分の拠り所を見つけられなかったとも言える。
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「理論武装したカルチャーオタクは、普通では人気者になれなかった故に知識や情報を蓄積し、メジャーなものをバカにし、『敗者の美学』に酔い、そうすることで結論としては少数派の人気者になりたい、つまりは『モテ』たいだけだ」みたいなことを言っていた。
全部じゃないけど一理あるな、と思った。さっき書いた通り、自分は人気者にはなれなかった、世間的には負け組であり、だったらマイナー集団の中でだったら自分の場所を見つけられる、認めてもらえるかもしれないと思い、理論武装した経緯を、決して否定はしない。
しかし、いろいろな作品を見たり知っていくうちに、「モテ」とは全然別の場所に辿りついた。つまり、この世には相対的評価などまるで必要としない、絶対的価値のあるものが確かに存在している。自分は有象無象の中からそれらを選別し、的確に見抜いて評価していきたいと思うようになった。
故に、信者をたくさん抱える作品や作家から漂う、胡散臭さやペテンが鼻について仕方なくなった。真理や真実を追究した末、これらを徹底的に叩くことで、普遍的価値を守りたいと思ったわけだ。要するに、それらと相容れない作品を批判することによって、自分の愛する作品を守ろうとした。
そのせいで、信者殿が大挙して押し寄せ、荒らされた末が、今のこのブログだ。
しかし自分はメジャーなものの中に混じってる、下らない作品をこきおろしたことはあっても「メジャー」であることを理由に、それらをバカにしたことは一度もない。
マイナーカルチャーにも同じことが言えて、素晴らしい作品もあればクソみたいな作品もある。そこではメジャーだとかマイナーだとかは一切関係ない。下らなければ批判するだけのことだ。
そうなってくると最早、二村の言っていた「モテ」などといった理由は、どっかいってしまって、人気者どころか、むしろ嫌われ者になった。
冷やかしでこのブログにきて、誹謗中傷していく奴は、せいぜい鼻でもほじりながら「ブログ主は結局のところ『敗者の美学』に支えられているだけの負け組」とでも思って、笑って眺めてればいい。
どう思われようが今さら人の目なんて気にするような人間ではない。
ベルベット・キス/ハルミチヒロ
ベルベット・キス(1) (バンブー・コミックス VITAMAN SELECT)
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『ベルベット・キス』は、ただの営業サラリーマンである主人公・新田信が、うっかり数千万円の借金を背負うことになり、その代償として、金持ちで抜群の美しさをもつ少女・花乃子(かのこ)の「友達」になるよう命令され、花乃子の性的玩具にされるという、まあ筋だけ書くと、よくもそんな意味不明な御都合主義設定ができるものだなと感心するほどのレベルの作品である。
筋からみると、支配され所有されているのは完全に男主人公の側であるが、それは単に男がそのシチュエーションに追い込まれているという「言い訳」にすぎない。新田は花乃子のセックスの命令を受けているとき、なぜか辛そうなというか、ハードな顔をしているのだが、どう考えてもおかしいだろ。鼻の下をのばしてウハウハでやるべきところだ。
おいらもこのマンガを読んでみたが、禿同というかまったく同じ意見を持った。しかし、紙屋さんは総体的に評価しているみたいだが。
言ってしまえばすごくおいしい状況なのに、わざとシリアスな顔をして苦悩する主人公にすごく苛立ったし、肝心なエロシーンは女体に何らかの汁がとんでいるだけという手抜きで、絡みと呼べる描写は一切なかった。
紙屋さんは受身のヒロインがいいと言うが、それ以前の問題で作者にはこれしか描けないのじゃないか。
これを支持するやからと言うのは大体予想できる。恐らく村上春樹とかが大好きな雰囲気だけでしか物事を判断できないアホだ。
春樹の主人公たちは誰もが傍から見れば単なるリア充で、なのに誰よりも苦悩しているように振舞う。片っ端からナンパしセックスしといて、「僕は混乱し、孤独だった」。アホか。
おいらはそういう春樹の主人公たちが反吐が出るほど嫌いだ。
結局は相手の気持ちなんて微塵も考えられない、自分大好きな独我論者でしかない。
『ベルベット・キス』の主人公もまさにこれと同じで、単なるラッキースケベ。
ということを以前に某所で書いたら「パシリにされているんだぞ。その苦しみがわからないのか」と言い返された。
はいはい。お前は年端もいかない美少女とただでセックスできるという状況でも、そうやって苦悩するわけかwww。頭沸いちゃった自分大好きな奴がいっぱいいるなあ、と思ったわけです。
最後は大団円と言うか丸く収まった感じだが、いくつかもやっとした点があって、主人公の敵であったはずのヒロインの会社には、ヒロインが未来の重役として落ち着いて、主人公満足です、みたいなトンデモ設定なのも気になった。
そんなの気にするのおいらくらいなものかもしれないが。
劇場版「空の境界」
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『空の境界』の原作は未読なので、あくまで映画版について書きたいと思うのだが、これを見て『Fate/zero』と同じufotable制作であることを考えると、ufotableがアニメ会社としてレベルが低いわけでは決してなく、『Fate/zero』がひどかったのは一重に虚淵くんが関わってしまったせいだと結論付けた。
どこかでエロゲシナリオライターのランク付けをしていたのを見かけたが、そこで奈須きのこはSランク、だーまえはAランク、虚淵だけ欄外で「ステマ」になっていた。ステマというのは特別賞みたいなものかな(笑)?
< 劇場版 空の境界 >
詳しい各章の内容はwikiが詳しい。
< 空の境界 - Wikipedia >
さて『空の境界』を見て思ったのだが、奈須氏の作風の根底にあるのは、正統な「ボーイ・ミーツ・ガール」だ。
その意味でも『空の境界』は傑作に値する。しかし、この劇場版は原作ファンからすると賛否両論あるようで、必ずしも評価されているばかりではないことも確認した。
言ってしまえば、原作つきの作品は得てして先に見たほうを人は評価する。例えばマンガ原作のアニメの場合、原作のマンガを既読の場合はマンガのほうを、アニメから見たらアニメも評価する、といった風に。例外はあるかもしれないが、大概そうだ。
で、あるから『空の境界』の劇場版に批判的なのは、やはり原作既読者で、アニメから入った人には好意的な評価を得ている印象を受けた。
それに原作未読派の自分でも、『空の境界』劇場版は十分に楽しめたし面白かった。
第1章から順を追って感想を書きたい。
第1章「俯瞰風景」は監督が『Fate/zero』のあおきえいだったが、可もなく不可もなく無難な出来だった。ただし、1章の割には設定の説明不足があり、キャラの背景が描かれていない分、初めて見る人にはやや不親切にも感じた。これは後から説明されると思ったので、その点は差し引いても、出だしとしては良作ではないかと思われた。
第2章の「殺人考察(前)」は野中卓也監督。式と黒桐の高校時代の出会いを描いた作品。式のぼっちぶりが素晴らしい(笑)。彼女の言う殺人衝動がどうなっていくのか、未決のまま次の章にいってしまうわけだが、これも後に説明されるとして特にマイナスではなかった。つくりも無難で安心して見れた。しかし、黒桐はいい奴だなあ。
第3章の「痛覚残留」は小船井充監督。
これは面白かった。第2章を経て、キャラの説明がされてきたので、式というキャラがどういう少女であるかも分かってきたところでの、こうした分かりやすい事件。そして、終盤の緊迫した戦闘シーンは実によかった。
第4章の「伽藍の洞」は滝口禎一監督で、式が「直視の魔眼」を手に入れたいきさつが描かれている。1章で説明不足だった部分はこの章で補填された感じ。
第5章の「矛盾螺旋」は平尾隆之という監督で、自分はこの章が一番面白かった。
原作ファンからすると実験的で邪魔なシーンが多く、心理描写がカットされているので不評なようだが、そもそも心理描写をアニメでだらだらやることほどの無駄はないわけで、これくらいばっさりとしていた方がいいし、原作を知らない初見者の自分でも十分に楽しめた。
反復するイメージや時間経過の実験的映像がミステリアスな本編とうまく融合していると感じた。説明不足な点は確かにあるかもしれないが、本筋は分かるのでその辺は目を瞑れるだろう。
第6章の「忘却録音」は三浦貴博監督。これは普通かな。ストーリーが他の章に比べてほのぼのしている感じもあったせいか、一番アニメらしいアニメと言うか、劇場版というよりテレビアニメの内容に近い感じだった。
第7章の「殺人考察(後)」は瀧沢進介監督で、第5章の「矛盾螺旋」と並んで素晴らしくよかった。
一連の連続殺人の犯人が式であることを信じなかった黒桐が、式とほぼ同時に犯人を突き止め、そこで式に「犯人を殺すな」と約束させる。
(以下ネタバレ)
しかし、戦闘のさなか、式のストーカー=犯人=白純が黒桐を殺したと告白したため、逆上した式は白純を手にかけてしまう。
そこで式が黒桐との約束を反芻するわけだが、殺人を犯したことで自分は向こう側の人間になってしまった、黒桐と約束したのに、自分は黒桐の側のこちら側の人間でいたかったのに、でももう無理だ、と回想するシーンが実に泣ける。
最後は式と黒桐の昼メロ的展開なわけだが、2人の心がクロスし、思いやるモノローグは本当によかった。
最終章にあたる「終章/空の境界」は見ていないので、感想は書けません。
劇場版だけの感想だが、劇場版が原作に則しているのであれば、奈須きのこ氏が命の重さや殺人という禁忌の重さ、それだけで物語を紡ぎだせる力量のある作家であることが十分に分かる。
しかし、その逆にいて殺人を肯定し無意味にぼりぼりキャラを殺すような虚淵に何故「zero」を書かせたのか、理解に苦しむところだが、要は「友達は選ぼう」ということです。
全編とおして、世界観にどっぷりとはまれて、これを見ている間は他のアニメを見る気がおきなかったくらい良作だった。
脇役キャラである橙子さんもよいし、「痛覚残留」の藤乃もいいキャラだったと思う。
何より式がかっこいい。常にストイックでクールな彼女が、たまに照れたりするところがまたかわいい。あと黒桐は「特徴のないところが特徴」のようなキャラだが、確固たる倫理観と人を思いやる強い気持ちを持ち合わせていて、ヒーロー的立ち位置にふさわしいキャラだった。
以前、今作の評判が悪いらしいとufotableの悪口を書いてしまったが、やはり自分の目で確かめてからでなくては、感想は書いてはいけないな、と改めて思いなおしたりした。
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どの曲もよくて、アルバムを買ってしまった。こちらもあわせてお勧めしたい。
ワンパターン作家の罠
大概、信者もいるけどアンチも同数ほどいるんじゃないだろうかという作家には、水戸黄門の印籠のようなお約束パターンが必ずと言っていいほどある。
例えば虚淵を見てみよう。
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一度もちあげて奈落に落すといった手法だ。これは『まどマギ』にもあった。有名な巴マミの死亡シーンだ。
直前にまどかが契約すると言い、マミは嬉し泣きする。そして「もう何も怖くない」。
しかし直後、魔女との戦闘であっけなく死んでしまう。まどかたちは悲嘆にくれる。
もう一つ『Fate/zero』からあげると、ランサーが死亡する時もそうだった。直前までパニくってるマスターそっちのけで、セイバーと騎士道()ごっこに興じ、「お前と出会えてよかった」などと最高の微笑を見せ、直後に切嗣によって自害させられる。そして、呪詛を吐きながら死んでいく。
虚淵いわく「これが真の絶望」。
実際、世の中には他人を奈落の底に突き落とすことが生きがいのような輩がいるが、これはそいつがクズなだけであって、そいつのもたらす不幸は当人にとっての絶望などではなく、単に「運がなかった」だけではないか。
絶望とは、内なる動機から発するものだ。他者によって強引にもたらさせるものではない。
というのも、自分はうつ病を患った時、人生の底を見るような思いを味わったわけだが、それは外部の力ではなく、全て自分自身から発する衝動だった。
しかも、自分自身を呪っているから、助かるすべがない。唯一の望みがあるとすれば自ら命を絶つことだ。しかも命を絶つだけではなく、この世に存在したこと、自分の存在証明そのもの、自分の記憶を持っている他人の記憶もすっかり消しさって、そもそも自分が存在していたことなどなかったことにして消えてしまいたい、と願った。
こんな気持ちはうつ病を患った人間じゃなければ決して分からないと思う。
だから、虚淵の手法を見ていると、子供だましなのだ。こういったお約束シーンが出てくるたびに、「ああ『印籠』=運が悪かった」程度にしか思わない。「絶望」()など感じようもない。
でも、虚淵信者はこのパターンにしびれている()らしい。罠にはめられればそれが絶望()なんて小学生のいたずらと同レベルじゃないか。
パターンといえば、これはどうでもいい話だが、おいらはアニメを制作会社で見ると言う変な癖があって、例えば押井つながりの「スタジオディーン」は、なんでか見てしまう。
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最初に言っておくが、これを好きな女性ファンをdisるつもりはない。ただ、この作品が漫画が原作で、原作に忠実であるとするならば、この作家も一つのパターン化した展開を確実に持っている作家である。
いくつかのカップルの話を平行して放送していた気がするが、主人公(男)が恋の相手(男)ともめるのは、まったく同じパターンしかなかった。
例えば、主人公の相手が昔つきあっていた女性と偶然街で出くわし、親しげに話しているところを主人公が物陰から見てしまい、ショックを受け、やっぱり自分のことなんて好きじゃない、と思い込む。しかし、相手が何を言っているのだ、と誤解を解き仲直りする。
こういうのもあった。やはり主人公の相手が昔(ry男性と今も親しくしていて、主人公が俺のことなんか(ryとなり、相手が何を(ry、俺が好きなのはお前(ryと仲直り。
さらにこういうのもあった。主人公の相手が幼馴染ともめているのを主人公は物陰から見て、「あいつら付き合っているのか?」と思い、相手にふっかけると「何を(ry」(同じことを繰り返し書くのがいい加減しんどくなってきました)、俺が好き(ryと両思い。
面白すぎる。
少女漫画の類型だと言われればそれまでだが、担当編集者は気づいているのかいないのか、気づいていてわざとそう描かせているのかわからないが、仮面ライダーに必ず付いてくるショッカー並のお約束っぷりである。
得てして、オタクは「ストーリーはいくつかのパターンしかない」と分かっている割りに、物語の類型化、構造を分析して読み解くのが苦手な人が多い気がする。
その辺は文芸評論や現代思想書でも読んで、勉強してください、と言いたいところだが、その手の分析でもっとも功績を残したのは今は見る影もない蓮實重彦だ。
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この本のせいもあるし、以前から確執(と言うか一方的に)があった大江健三郎は尽力して書きつくした大長編が、他の作家の同時期の作品と示し合わせたかのように一緒ですよ、と断言され激怒し爆発した。
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こうした構造分析的に見ると、虚淵の作品はどれも一本筋の通ったストーリーすら存在しない。ただ、だらだらとエピソードが羅列されていくだけだ。
まだ、ああしてこうしてこうなった的なストーリーの枠があるほうが見ごたえがあるというものだ。
鬼頭と虚淵の狂信者たち
今でも所謂「アンチ」という生き様の虚しさ悲しさについては、キミらそんな人生で本当に満足なのかと嘆かわしくなるばかりである。巨人軍アンチを親に持つ息子が、読売新聞に足を向けて寝られなくなるような──そんな運命の悪戯だって、あるんだぜ?
と、発言していたらしいが、そもそもアンチの存在を許せない人間がもの創りに携わるべきではない。
発言の通り、こいつはただ自分を持ち上げマンセーしてくれる人間が欲しいだけで、創作に賭ける情熱など一つまみも持ち合わせていない。
だから、キャラクターの吐くセリフは、奴の自己陶酔した思想であり、そうでないキャラクターは不自然な形で不幸に陥れる。故に、キャラクターが人形でしかなく、退屈なのだ。
しかも虚淵はほとんど小説を読んだことがないらしいが、『Fate/zero』の文体を見る限りでは、なるほど確かにその通りだろう。素人にありがちな陳腐で大げさな言い回し、本人どや顔こっちは大爆笑。
そもそも本谷有希子然り、小説を読んでいない人間が小説を書くなと思う。小説は読まないと上手くならないジャンルだ。読んでないで書いてる奴の文章は一発で見抜ける。
話を戻すと、人は他人が何を考えているかは分からなくても、どうされたら嫌か、どうすれば喜んでくれるか、そうした相手の気持ちを推し量ることのできる----思いやり---を本来兼ね備えている生き物だ。
しかし、世の中にはそうした「思いやり」の精神が最初から欠落している人間がいる。虚淵玄や鬼頭莫宏、そしてその信者たちがいい例だ。
虚淵や鬼頭の批判記事を書けば、必ずと言っていいほど信者が特攻してくる。こんな弱小ブログ相手に顔を真っ赤にしている。
恐らく、作者自身がアンチの存在を想像できない故に、反論する奴は駆逐しろ! とばかりに信者どもはそれに準ずる。これはファシズムであり、言論統制だ。
無能でボンクラな虚淵・鬼頭信者が都条例反対だので、あーだこーだ石原がー石原がーと言っても、お前らこそ石原も真っ青な戦時下の言論統制主義者だ、としか思わない。
自分は好きなものを否定されたりdisられても、正直痛くも痒くもない。「そういう人もいる」くらいにしか思わない。要するに「人それぞれ」で終了する。意見には賛同できなくとも反対の意見を持っている人がいることは事実として受け入れる。
それは、個人の趣味嗜好が「人それぞれ」であるように、自分が好きなものが100%他人と共有できはしないと思っているからだ。
しかし同時に、好きな作品に対する絶対的な信頼と自信を持っているからこそ、アンチを見てもスルーできる。
人は誰しも、己の信念に自信がなくなると疑心暗鬼になり、受け入れない相手を攻撃する性質がある。
つまり、虚淵や鬼頭の信者がアンチを攻撃するのは、自分の信念に自信がないからだ。そして、アンチを攻撃することでしか自己肯定ができない。
これは臆病な犬と同じだ。自信がない故に、常に迷いながら不安定に揺らいでいる。だから、自分と少しでも意見の違う者がいれば、脅かされると思いこみ、ヒステリックに噛み付いてくるのだ。
作品のよさを伝えたいなら、地道に理論展開し証明すればいい。
他を攻撃し、他をdisったところで、作品の評価がよくなることなど一片もない。
「AはいいけどBはだめ」というのを見かけるが、作品や作家を「好き」になることは相対的なものではなく、比較対象など必要としない「絶対的」なものではないのか?
しかし、狂信者たちはこうした自己矛盾にまったく無自覚なのだ。
例えば自分は鬼頭莫宏の『ぼくらの』が大嫌いだけれど、アニメ版はそれなりによかったと思っている。
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原作のナカマの母の職業は売春だが、アニメ版では母親はナカマを出産と同時に売春をやめ、現在はバーのママになっている、といった変更も、信者たちは気が狂ったみたいに暴れていた。
しかし、暴れていた連中に聞きたいが、子供がいるのに売春している親を果たして心から尊敬できるか? 確かに職業に貴賎はない。とは言っても、これはそれ以前の問題ではないのか。その上で森田氏の判断は賢明だったと思う。
そして例の、森田氏による「原作が好きじゃない」発言で一気に炎上した。
私が原作を好きか嫌いかを意識するのは、原作を手にした最初だけで、仕事を引き受けた以降はそれはまったく関係ないです。
ここで暴れた信者どもは万死に値する。
あのな、どこの世界に監督は必ず原作を好きじゃなくちゃいけない、なんて掟があるんだよ。監督だって職業だし、仕事でやってる。
当然、好きじゃない仕事だって受けなければならない。そのことについて、言うか言わないかを取りざたするとしたら、森田氏は一番やっかいな連中を相手にしてしまっただけで、本来だったらこうした発言の自由はもっとあっていいと思っている。そんなことも分からない厨房は原作大好きな二次同人誌で満足して、出てくるな。
『猫の恩返し』のような清清しい作品を撮った森田氏が『ぼくらの』みたいな似非鬱話が嫌いなのは当然だろう。
というのは優れたクリエイターたちはみな、鬼頭や虚淵のような似非不幸の幻覚に惑わされた時期を乗り越え、今の境地に達しているのだ。だから、鬼頭や虚淵の言わんとしていることが、いかに悪趣味で幼稚で厨二臭いかちゃんと分かっている。
以前に書いた記事< 貴様こそ、爆発しろ - このページを読む者に永遠の呪いあれ >に補足すると小池一夫は夏目房之介と同じで基本、批判をしない人だ。
『まどマギ』についても、ああいう言い方を選んだだけで、彼の作るキャラクターや持論と照らしあわせば『まどマギ』を実は暗に否定していると理解するのは容易い。
例えば、小池氏が「『まどか☆マギカ』は何がなんだか分からない。謎が謎を呼び、ラストまでいってしまう。」と言う発言も、イミフのまま進行し、視聴者置いてけぼりで終了した『エヴァンゲリオン』の方が遥かに『まどマギ』の謎を上回るわけで、実のところ『まどマギ』に謎な部分など全くなかった。
恐らく小池氏が言いたかったのは「物語が進行しても着地点が見えてこない」ことを指摘したかったのだ。そしてラストのむちゃぶりな世界改変(笑)で「今までのことは全否定ですかww」と驚いただけで、こんな支離滅裂なストーリー作りは確かに「見たことがない」という意味では斬新(笑)だっただけだ。
原作disをあげれば、押井守はその筆頭で、「『うる星やつら』を頼まれ原作を読んだが好きになれなかった」と言っていた。「これって単に諸星がラムちゃんのことを『好き』と認めないゲームを楽しんでいるだけでしょ」。と、実に押井らしい発言をしていた。
『スカイ・クロラ』にしても、押井は原作を読んだ上で「この原作のままなら映画にできません」と3回断ったと言っていた。もともとあれは日テレのゴリ押しで押井に持ち込まれた企画だった。故に押井の水素は僕女ではないし、水素が函南に殺してと頼み函南は殺してしまうところも、映画では大幅に改変された。
森博嗣自身は「押井さんにアニメ化してもらえるだけで感激です><」と言っていたので、騒がれなかっただけだ。
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これを知ったとき、心の底から思いました。「頼むから死んでください」。
大樹は『ぼくらの』に感銘を受け(笑)作家になったらしいが、その捻じ曲がった思考回路を正すためにも、1回死んで生まれ変わって人生やり直してください。しかし、これをそのまま出版した小学館のうんこぶりはひどい。自らうんこ出版社だと暴露しているじゃないか。
で、笑うのが『まどマギ』の元ネタではないかと評判のニトプラが数年前に出したエロゲー『スマガ』のノベライズを大樹がやっていることだ。おいおい。どういう繋がりだよ(笑)。
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- 魔法少女というか魔女っ娘ものでバトルもの
- スマガでは魔法少女に当たるのは魔女(エトワール)という呼称で、敵は悪魔(ゾディアック)という怪物だが、系統的には同じであることは一目瞭然。
- 誰かが誰かの死を回避する為に繰り返すループもの。
- ほむらがまどかの死を回避する為に、ループするのと同じように、スマガの主人公であるうんこマンはヒロインであるスピカ(後にガーネット、ミラと続くが)を救う為に人生をやり直す。
- 繰り返しにも制限(ルールがある)
- ほむらのはちょい分かりにくかったかもしれないが、約1ヶ月しか後戻りできない。盾の砂が約1ヶ月分で、これの分だけ過去に戻れる。(砂が落ちきるまで間だと時をとめられるという付加効果あり)一方、うんこマンの方はもうちょいシビアだが、寝る、気絶する等する前、意識がある間しか遡れない。(ひとまずの結末を迎えられたら最初からやり直せるが)
- 戦う者たちが、戦うべき敵へと変化する。
- 魔法少女が魔女になるように、スマガでは魔女たちはゾディアックになる。ちょっと経過は違うが、設定は同じだよね。
- 主人公が神になる
- どっちかというと、デモンベインの九朗&アルの旧神verのほうが近いものがあるが、スマガの主人公、うんこマンも高次元にシフトされて神になるのね。QBと同じような台詞を神(幼女)か神(眉毛犬)が言ってたと思う。
- 少女の願い、祈り、そして絶望がキーワード
- 原器に選ばれた1人の少女の価値観が世界を構築し、彼女の絶望の為に悪魔(ゾディアック)に勝てないという設定は、結構毛色は違うがメッセージとしては同種だと思う。
- ワルプルギスの夜と鉄槌の日(マレウス)
- うん、これはもうまんまと言うか。無理ー絶対無理ーな絶望の日が来ますよと。
まあ、とにかく鬼頭と虚淵が出会ったら気があうことは間違いない。信者の質もそっくりだし。
思えばQBはコエムシに似てるしな。