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シェルタリング・スカイ/ポール・ボウルズ

シェルタリング・スカイ (新潮文庫)

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友達からポール・ボウルズのドキュメントをアップリンクで上映するから見に行こうと誘われて見に行ったのは実に今から10年以上前のことになる。


その時にこの作家について知っていたのは映画『シェルタリング・スカイ』の原作者であることくらいだったと思う。友達もオイラも原作は未読だった。

なのに、どうしてドキュメンタリーを見に行ったかというと、多くのビートニクの作家たちが出演しているから、というすごいミーハーな理由だった。
実際、そのドキュメンタリーを見て思い出せることはボウルズとバロウズが2人して映画『シェルタリング・スカイ』をこきおろしていたことで、そこでボウルズは「あの映画はクソだ。才能のかけらもない」と言い放っていたことだ。


シェルタリング・スカイ [DVD]

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映画版は『ラストエンペラー』で有名になったベルナルド・ベルトルッチ。確か「アジア三部作」の2作目としてこの映画は撮られたはず。音楽は前作から起用された坂本龍一が担当している。


映画は第2部まで小説をなぞっているが、覚えている限りだと原作の一番肝心なラスト、第3部『空』の部分が、ほぼごっそりと抜け落ちている。これではこきおろされるのも無理はない。ちなみに映画のラストにボウルズ自身も出演している。


そこでやっぱりベルトルッチの最高傑作は『ラストタンゴ・イン・パリ』だなあと思ってしまう。あれは本当に文句のつけようがないほどいい出来だった。それに比べるとハリウッドに進出してからの「アジア三部作」は若干影が薄くなってしまうのは否めない。


話を戻すと、読んでみた評価は、この小説はカミュサルトルに並ぶ戦後の実存主義文学の傑作ということです。
ボウルズの圧倒的筆致を前にしたら、前述のケッチャムの『隣の家の少女』なんて霞みたいなものです。


シェルタリング・スカイ」とは「庇護する空」という意味になるらしい。


第1部が『サハラ砂漠でお茶を』と題されていて、実はこれとまったく同じタイトルの曲がザ・ポリスの曲にあるのだが、ポリスを先に聞いていたので、どういう意味だろうと思っていたけれど、引用元は恐らくこの小説であり、スティングの文学的造詣の深さを改めて知って感心した。


ストーリーは単純でアメリカの裕福な、だけども倦怠期の夫婦とその知人がサハラの広大な砂漠に自分探しの旅に出る。しかし、旅の途中で夫はチフスにかかり、絶命してしまう。そして、夫の死を境に妻は砂漠の上へと姿を消す。彼女は言葉も通じず、自らの身を売って原住民とともに共生する道を見出していくのだが、最後は当局に見つかり、送還されるという話。


要約は大久保康雄のあとがきに的確な文章があるので、引用する。

砂漠の強烈な圧力の下で、アメリカ的人間を内部から支えている文明人としての自信とか自意識といったものが、いかに崩壊してゆくか、その過程を追求した作品である。アメリカの知識人の多くは、げんざい自分たちが世界市民の代表者であるという自信をもっているであろうが、そういう状況に対して、この作品が一つのするどい文明批評的な意義を持っていることは右の要約からでもわかると思う。アメリカ人の意識というものは、要するにアメリカが今日まで築き上げた文明の中でのみ価値があり、平衡を保っているのであって、そういう社会的な条件から切りはなされた孤立した存在としてのアメリカ人は、たちどころに不安定なあぶなっかしい存在に転落してしまう、ということをこの生気にあふれた物語のなかで、ボウルズは表現しようとしているのではなかろうか。

要するにわれわれが急に砂漠の真ん中に放り出されたら一体どうなってしまうだろう。
高度な文明をもってしても太刀打ちできない巨大なる自然を前に、人は呆然と立ち尽くすしかない。文明人であるわれわれはあまりに無力で原始にかえるしかないのだ。


現代文明とは何かを問いかけた示唆に富んでいるのが本作である。



<初>『シェルタリング・スカイポール・ボウルズ ★★★★1/2