エヴァは終わっていないのです
ここ最近、エヴァフラグが立ちっぱなしなんですけど、どうしてと言うと、90年代末から今現在も続いている「ある種のオタクの内面に起こったブーム」に終止符が打たれるような、今回の劇場版がその切り札になるような、そんな気がするからです。
例えば、押井守って人は、『うる星やつら』然り、『パトレイバー』然り、『攻殻機動隊』然り、今までに手がけた原作付作品は劇場版の2くらいで個人的に終わらせてしまうけれど、庵野秀明は押井のように個人的にではなく、今のオタクの自意識やらを変えてしまうかもしれない。今回の劇場版で、何かが終わり、始まるかもしれない。そんな期待があるからです。
もし、そうした「何か」がなければ、多分ボロクソにけなすことになると思いますが。
そう言えば、某所でエヴァヲタにされていて笑ってしまった。
過去ログを読めば分かるとおり、オイラが全肯定してるのは押井守や大島渚やイーストウッドくらいで、エヴァに対しては、むしろ批判的な立場をとっているし、今だってエヴァの全てを肯定なんてしてません。
該当記事を読み込めばわかりますが、相対的に見ればエヴァの方が表現力が遥かに優れていると書いたに過ぎず、オタと呼ばれるほど詳しくもないし、新劇場版の情報もほとんど知らないのが実情です。
これらは過去ログを「エヴァ」で全検索かければすぐに分かることです。それすらしないんだから、恥かくのはそっちですよ。
ついでに言っとくと、某漫画家に対しては、ポストエヴァであるが故に、彼に言及するときはエヴァを引き合いに出しているに過ぎません。
それに何度も書いているとおり、彼の漫画には興味がありません。これ以上突っついても、何も出てきやしません。
さて、以前に「ヤマトやガンダムは一般人のものだけど、エヴァはオタクのものだよね」と友人と話したことがある。
振り返れば、90年代末のエヴァブームってのは文化人やそれに便乗したマスコミ・出版界の捏造めいたところがあって、エヴァってのは本来、「オタクによるオタクのためのオタクのアニメ」なんだと思う。
それが証拠に、一般人で今もエヴァに食いつく奴ってどのくらいいるだろうか。今秋の劇場版を見に行くのは専らオタクだろうなあって気がする。
ほいで、これらの映像を見たら、また『THE END OF EVANGELION』を見たくなってしまった。8年前に1度見たきりで、ほとんど忘れていたから、今見たらどう思うだろうと思って再視聴しました。
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ここまでの愚作が公開されたことが驚き
こんな作品が現実に公開されたことでのみ、奇妙な社会現象として注目されるのではないだろうか。
思わせぶりな思いつきだけで後先を考えず作っていったあげくラストがどうしても思いつかず、破綻したのをアニメオタクに責任転嫁して逃げたのがテレビ版の25,26話。
このことが結果として社会現象となり、映画版を作ることになってやむなくひねり出した救いようのない電波が映画版。
人類滅亡とママの母体回帰による救いを臆面もなく公共の場で発信したその気色わるさは、ハルマゲドンを夢想したオウムを思わせるものがある。単なる個人的妄想は、人前で口にするものではありません。
作者自身が他者とのまともな関わり合いがもてず、ひたすら自分語りをするしか能のない病的なオタクなのに、オタク批判とは笑止千万。
「病気の人が病気の人のために作った作品」という宮崎駿の指摘が、エヴァンゲリオンのすべて。
言いたいことは分かるが、TVシリーズを「理解」してたら、劇場版がわけわからんものではないことも分かるはずなんだけど。
で、再試聴した結果の感想を一言で言うと「結局、エヴァンゲリオンって終われなかった、もしくは終わっていないのだ」ってことでした。
そもそもエヴァってのは、黙示録的なものをやりたかったわけで、「逃れられない運命」を提示しようってのが当初の目的としてあった気がする。
使徒の襲撃とは、そうした「当然帰結する結末」へ至るために用意された「過程」であり、『新世紀エヴァンゲリオン』それ自体が、黙示録になる予定だった。
ところが、どうしてか軌道が途中からずれはじめてしまった。
それはもしかしたら、庵野の中でエヴァという作品が持つ黙示録的な意味合いが、「自分」と「社会」を結ぶ「何か」であり、そうした自意識に囚われてしまったせいかもしれない。
だけど作品とは、作品それ自体であって、作者の自意識とか反映させる道具じゃあないのだ。
でも、庵野は道具としてエヴァを使うことを選んでしまったのではないだろうか。
それがTVシリーズのラストであり、『THE END OF EVANGELION』なのだ。
言ってしまえば、TV版も劇場版もラストで言っていることは同じ。
TVの方がポジであって、劇場版はネガであると考えればいいだけの話。
だけど、そのせいでエヴァは10年以上経った今でも決着がつけられず、宙ぶらりんのまま我々の中に浮遊している。
劇場版では世界が一つに溶け合い、全てが一体化し、他者不在になってしまった。しかし、最後にシンジは、他者のいる世界=これまでの現実を望む。
途端に溶け合っていた世界が崩壊し、アスカとシンジだけが取り残された世界が眼前に広がる。
これが劇場版の大まかなあらすじ。
最後のセリフであるアスカの「気持ち悪い」は、「他者」と「私」の狭間に迷い込んでしまったことに対する自己嫌悪というか、壮大な設定を持って生まれた『エヴァンゲリオン』という作品に決着がつけられなかった庵野自身の自家中毒に陥った自分に対して発した言葉にも見える。
でも、『エヴァ』がこうした終わり方をしたせいで、後にセカイ系自体を派生させ、容認し、普及させる結果になってしまった。だから、その功罪は結構でかいと思う。
もし、あそこで『エヴァンゲリオン』に決着がついていたら、10年以上の長きにわたり、オタクはエヴァに囚われ続けることもなかっただろうし、今のオタクを取り巻く閉塞した状況も生まれなかったのではないだろうか。
ただ、庵野って人は本来バランスのいい人で、エヴァだって途中までは設定を十分に活かせられたわけだから、最後の最後に失策をしでかしてしまったことくらい、今は当然気づいているはずで、それはエヴァ以降に撮った実写映画の遍歴を見ても分かるし、何より、もう一つのいい証拠は、ガイナックスのエヴァ公式のはっちゃけぶりを見ても明らか(笑。
だから、今回の『エヴァ新劇場版』で異なる結末が用意されていること自体、「本当の決着」をつける時が遂にきたのだなあと思ったし、「もう誰にも語らせない」ようなものが出てくるんじゃないだろうかと期待しているわけで、同じことを二度もするようなまねをしたらそれこそクソミソですけども。
あとついでだから書くけど『THE END OF EVANGELION』を見て思ったことがもう一つ。
選曲がよくない。
バッハが多いんだけど、例えば「Air」のアスカvsエヴァ量産機のバックに流れる『G線上のアリア』について言えば、エヴァより後に制作された『バトロワ』の相馬光子の最後のシーンにも流れていて、そっちの方がはまってた。
それと『まごころを、君に』でも『主よ、人の望みよ喜びよ』を使っていたけどメジャーすぎるせいか、浮いている印象が強かった。もう少しマイナーな選曲したほうがいいんじゃないかと。
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ちょっと話が逸れるけど、庵野秀明って以前から、デンマークの映画監督ラース・フォン・トリアーに人格が似ているんじゃないだろうかと勝手に思っています。
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ていうか、このドキュメントは『ドッグヴィル』本編より数倍面白いので、トリアーのファンの方には是非見てほしいです。