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小説原稿料はなぜ高いのか?

2005-01-09

マンガ原稿料はなぜ安いのか?―竹熊漫談

マンガ原稿料はなぜ安いのか?―竹熊漫談

某若手作家(純文学小説家)と話をしてエライたまげた。
「原稿料1枚5000円は安い」のだそうだ。「先日、200枚掲載されたが100万円しか入らなかった」とおっしゃるので、「漫画の稿料は1枚5000円スタートが相場なので、安くはないだろう」と言ったら「漫画と小説は(難易度が)違うから」だそうです。

以前に高倉健が「漫才なんて誰にでもできる」と北野武に言ったので、武が「じゃあ、やってみろ」といわれて本当に漫才をしたように、若手作家くんには是非、漫画を描いてもらおうと思った。

さらに彼の作風はセックス&バイオレンスな要素があるらしいので、是非エロ漫画でチャレンジしてもらおうと思った。

さらに突っ込むと、「これで食っている人もいるわけだから、そう考えれば安い」。
あのな、今の時代のどこに、「労働力=金」という考えがあるわけよ? マルクスも言ってるだろ。いくら「労働」したって、「商品価値」がなければ、「金」にはならないって。
第一、そんなのは普通に働いていれば気づくわけ。

なのに、いかにも売れなそうな、小難しいだけの、おかしな日本語を駆使した、1冊も本を出していない、新人賞を受賞しただけの作家がどうして「原稿料が安い」と言えるのか。

さて、『群像』『文学界』『新潮』『文藝』『すばる』といった文芸誌は現在平均発行部数は5000部弱です。で、稿料は1枚5000円。
一方、漫画の平均発行部数を10万部にした場合、文芸誌の稿料に合わせれば、1枚10万円という数字がはじきだされるわけです。
しかし現状は文芸誌と一緒なわけですから、文芸誌の方が「安い」などとは決して言えないはずです。

しかし、ここで指摘したいのは、稿料云々というより、文芸誌=文壇を作り上げている、純文学という「幻想」の権威にすがる作家達の腐れ根性です。
基本的に、雑誌というのは作家の競争で運営されることが健全なわけで、それを大幅に無視しているのが「漫画と小説は違うから」とさらりと言わせてしまう文芸誌という牙城です。

小説の市場を眺めれば、一目瞭然ですが、現在売れている小説というのは、ミステリーや、ファンタジー、ジュニアノベル、などなどの大衆文学です。いわゆる娯楽小説です。
これに対し、純文学は一部の作家をのぞいて、驚くほど売れていない。

そうした状況を反映して、当然、現在の文芸誌っつーのは図書館位しか買い手がいない、正直、誰も読んでいないわけです。そうした雑誌があること自体、不思議ですが、結局これは「文壇」という権威を生き残らせる為だけにある。

それを痛烈に批判したのは、かの大塚英志でした。この件で笙野頼子と論争しました。
これをきっかけに「文学フリマ」とかいう同人イベントを模倣したようなイベントが開催されるようになったわけですが…。

この論争を簡単にまとめると、大塚の主張というのは「文壇という囲い込みの中で出版社に飼われている家畜作家どもは自己満足にすぎない小説を書いているだけ。その癖、大衆文化を見下すことだけは忘れない。お前らがどれだけ高尚だというんだ。官僚体制を保持したいだけじゃないか」と言いました。
それに対し、笙野は「お前みたいなオタク編集者あがりにそんなこと言われたくないわ。文学(文壇の間違いだと思う)はわたしが守る」と潔く啖呵だけきって、逃亡しました…。(概要はこちら

つまり、大塚英志の批判は「図星」だった。
結局、文芸批評の場もそうなりつつあって、ひよった評論家は誉める作家とけなす作家を体面上、見分けた上で、評論するわけ。そのいい典型が、W村上なわけで、文壇的付き合いをもたない村上春樹は槍玉にあげられ、文壇の人・村上龍はけなされないというのがあります。

昨今登場してくる純文学系の作家は「作品を正当に評価されている」という勘違いな思い込みで書いている。大して面白くない小説でも、書いている作者のバックグラウンドや人が面白ければ売れる、というのが最終兵器になっていることに気づいていない。
つまり出版側の「作家のキャラクター」で売ろうとしている魂胆にまるで気づいていないわけです。

綿谷りさが芥川賞をもらったのは、20歳の若い女だったから、仮にもし50歳のおばさん(しかもブス)だったら決してもらわなかった、ということを分かっているのはむしろ一般の人です。小説は面白さではなく、話題性だけでしか売れなくなってしまった。

しかし、綿谷りさと同じ御輿に乗っていることに気づいていないのは、純文学の若手であり、自分は小説を評価されて作家になっている、と思っているわけです。だったら売れなくてはおかしい、売れるものを書こう、と思えばまだいいのに、そういう気はちっともない。

一般の人が純文学を読まない理由を聞くと必ず「つまらないから」と答えます。
結局はそういうことで売れなくなっていることは確実なのに、文壇にしがみつく作家達はそんなことちっとも気にせず、「自分は『お文学』を好きな読者の為にだけ書いているわけで、大衆のパッパラパーな豚どもにむけて書いているわけじゃないですから」と平気で言うわけです。

それが証拠に、件の若手作家くんの話すときの態度が「普通の人=読者=客」への態度ではなく、「ほっらー、僕って作家じゃん? 偉いじゃん? お前なんかに文壇のことなんて話せるわけないじゃーん」っつー態度丸出しなわけです。

ボロクソに言っているお前は一体何なのだ、と思った人に言っておくと、オイラはそういった理由で小説を諦めた人間です。
昔の話ですが、オイラには文芸誌の担当編集者がいました。その人に、上記のようなことをそのままそっくり言われたからです。「文学なんて所詮、芸風です」と。

それまでは、自分も「小説を評価されている」と思っていました。
アホでした。甘かった。

自分はそうした御輿に乗らねば作家になれないのであれば、もう小説を書く理由はどこにもないと思いました。
哀しいかな、悔しくも、自分は純粋に小説を愛しはじめてしまっていたから、作品だけで評価されないのであれば、書いている人間にしか注目しないのであれば、小説を求めているのではなく人を求めているのだ、とそんな中で書くことは到底できなかったからです。

開き直って書き続けることも可能だったわけですが、本当に感動した小説に対して「芸風に感動した」といった感想を間違っても抱けなかった。「芸風」などといった小手先に感心したわけでは決してなかったからです。

その上で、「本当に小説を好きではない人」が作る文芸誌がつまらない理由もわかりました。
生きた化石になっている文壇それ自体、大衆の中では伝統芸能のような存在になりつつあり、だったら、それに徹すればいいものを、「芸風」や作家のキャラクターといった話題性で売ろうとする根性は捨てない、色目だけは十分に持っている時点で、果てしなく終わっていると思います。羽根布団を15万円で売りつけるマルチ商法と大差ない商売根性です。

そういう意味で、文壇に潜り込むことしか目的でない、作家志望者にも辟易してます。
その点で言えば、一般には軽んじられ、自転車操業でも、漫画の方が遥かに健全です。漫画は「芸風」というより「技術」が目に見えて反映されるジャンルなだけに、作家がどーたら、で売れる程度では売れていると見なされません。