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『おやすみプンプン』完結によせて<浅野いにお論>

昨年一年を振り返ると、その大半が「浅野いにお」作品について考えている時間が多かった。そして遂に『おやすみプンプン』が完結したことを受け、満を期して彼の作品について書いてみようと思う。
うみべの女の子 2 (F×コミックス)

うみべの女の子 2 (F×コミックス)

『うみべの女の子』の1巻発売時に、初めて浅野作品に触れたわけだが、その時は何の意思も持たず、何となく生きてきた少年少女が、何の考えもないまま生きているようにしか見えないといった感想を書いた覚えがある。

< うみべの女の子<1>/浅野いにお - このページを読む者に永遠の呪いあれ >

その2年後の今年初め、『うみべの女の子』の完結巻となる2巻が発売され、1巻読了時には気づけなかった浅野作品の本質を目の当たりにし大きな衝撃を受けた。
自分は浅野いにおという漫画家を随分と見くびっていたなと思ったし、1巻で知ったようなことを書いてしまったけれど、彼の作品世界の本質を正確には理解できていなかったと思った。

『うみべの女の子』には登場人物たちのモノローグが一切登場しない。すべて場面と表情のみで語られる。にも関わらず、長々としたセリフや独白より雄弁な風景と彼らの表情の正体は、浅野が作り出す叙情性に他ならない。

昔から僕はドラマや映画でよくある、状況を説明するための不自然な独り言が嫌いだったんです。大体、人は悲しいときに『僕は今、悲しい』と声に出しては言わない。でも漫画の場合だと肉声を伴わないから、心の中の気持ちを表現する方法としてそれほど違和感なく“モノローグ”が使える。ただ、モノローグには利点があると同時に弱点もあります。キャラクターの気持ちを言葉で限定できる反面、想像の余地をなくしてしまいますから。

すばる文学カフェ2009年3月号 浅野いにお(インターネットアーカイブより)

浅野作品からあふれでる叙情性−−−現存する漫画家で、ここまでの叙情を描ける漫画家が他にいるだろうか。これだけの叙情表現を獲得した日本の表現者を自分は、大島渚押井守くらいしか知らない。
そして、こうした作家は概ねマイナーでカルト的存在であり、大衆になかなか受け入れられなかった現実を考えると、浅野はある程度一般に浸透し、人気を獲得していること、例え作品の本質が理解されていなかったとしても、これは素晴らしいことだ。

と言っても、浅野が人気漫画家の仲間入りを果たしたのは、映画化もされた『ソラニン』がきっかけではある。
ソラニン』はモラトリアムから抜け出したくない若者が、モラトリアムを引き伸ばす道を模索し、ある程度の満足を達成した時点で、やはりモラトリアムはいつまでも続かないという言ってしまえば、ありがちで凡庸な青春群像劇に過ぎなかった。
これが彼の頂点だったら、自分は到底、浅野作品に魅了されることはなかっただろう。
だが、このくらいの分かりやすいメッセージを『ソラニン』は持っていたから、リア充含めサブカル中心に浅野は支持を獲得できた。
浅野は『ソラニン』について「王道を描けない者なりに、努力してみた『王道』であり、大衆に迎合するための作品」と言い切ってしまうあたり、彼にとってはその程度の位置づけでしかなかった。

『うみべの女の子』にしろ『おやすみプンプン』にしろ、浅野作品に通底しているのは先ほど触れた叙情性であるが、それは思春期の少年少女や若者を通じ、成長することで受ける傷や痛み、あるいは幸せも、やがて過去となっていくことの幸福さと残酷さだ。

『うみべの女の子』のラスト、高校生になった小梅が幼なじみの少年と地元の海辺で偶然再会し、最後の一ページで海を背景に無邪気に微笑みながら「海!」と呟く小梅の姿で、この漫画は幕を閉じる。
小梅は磯辺との関係で、これ以上にないほど辛い失恋を経験した。それから1年以上経ち、(磯辺にどことなく似た)新しい彼氏を見つけ、磯辺とのことは過去となり「思い出」に変わった。
このラストが、見る者に悲しみを覚えさせるのは、いくら傷ついても、時間の経過とともに、やがて「過去」となり、記憶が薄れゆくことで、人は前に進めるのだという当たり前すぎる現実を描いているからだ。

「喪失」という言葉が自分は昔から嫌いで、己の思春期を振り返ってみても、今より世界を知らず、無知だった割りにはやたらしたたかだっただけで、自分を投げ打ってまで守りたいものもなかったし、故に失うものもなかった。「喪失」もなにも、失うものなど最初からもってなかった。
だから、思春期から大人になっていくことを「喪失」という響きのよい言葉で美化する風潮が好きじゃないのだ。「喪失」という以上、「何か」を持ちえていたのに、今は失われたことを指すわけで、その大半が純真無垢な心とかそんなものを言いたいのだろうが、自分に限って言えばもっていなかったし、なかったのに大人になってから、さもあったかのように語る口調が嫌いなのだ。

むしろ子供から大人になることで用いるべき言葉は「忘却」の方がよっぽどしっくりくる。子供の頃に夢中だったものや人に対する記憶や思い入れが、次第に色あせ、大人になった時、どうしてこんなものに夢中だったのか、当時の自分が不思議でならないほどキレイさっぱり忘れることができる。
あの瞬間、あの時に感じたリアルな感情を「忘れる」ことができる幸福と残酷さ。時が経てば、すべては「思い出」に変わる。「思い出す」ことはできても、あの時に受けた、ありのままの感情を蘇らせることは二度とできない。「忘れる」ことは、人にとって、救いでもあり同時に残酷なことだ。

そして、その時に受けたリアルな喜びや痛みの瞬間を「忘れる」ことができるから、人は生きつづけられるし、種の保存を維持しつづけられるともいえる。「忘れる」という機能が備わっていなければ、人はトラブルに直面しただけで、あっけなく死んでしまうだろうし、物理的損傷を受けた場合でもケガの痛みを忘れることができなければ永遠に苦しみ続けなくてはならない。「忘れる」ことは人に備わった最大の生存維持機能であり、「忘れる」ことができなければ、人類はとっくの昔に滅んでいただろう。

「忘却」の持つニ面性と同時に、物事はいくらでも単純化できるし、いくらでも複雑化できるといった命題を軸にしたのが、『ソラニン』以降の作画がどんどん緻密化していった浅野作品の傾向ではないかと思う。

おやすみプンプン』という漫画のストーリーを説明するのは実に難しい。
プンプンはどこにでもいそうな少年であり、彼のありふれた日常からはじまる。ありふれた住宅街の、ありふれた家庭の、ありふれた一人の少年である。しかし、プンプン一家のみヒヨコの落書きのような姿をしており、他の登場人物たちは普通の人間の姿をしている。
開始早々、両親の不仲が原因で離婚を経験するが、これも世間を見渡せば、ごくありふれたできごとと言える。そんな風に終始、ドラマティックな展開も劇的な変化もないままプンプンの日常は進む。
この物語に唯一の核があるとすれば、それは「田中愛子=愛子ちゃん」というプンプンの初恋の少女の存在だ。しかし、中学を卒業してからは彼女とも離れ離れになってしまう。そして、いつまでも分かり合えなかった母親の死。
それも関係しているのか、プンプンはいつまでたっても愛子ちゃんの存在に縛られつづけ、陰鬱な青春を送っている。高校卒業後は「愛子ちゃん」に縛られながらも、不器用ながらに生きていく道を模索するが、内向的な性格が災いし、どちらかというと社会の底辺的な存在になっていく。
プンプンの周りの人々は「特別」な人は登場しない。みな、どこにでもいそうな人々ばかりで、ただ、共通項があるとすれば、生きることに非常に困難していることくらいだ。
全巻通して思うのはプンプンにふりかかる出来事は「どこかで見たことがあるような」ありふれた事件ばかりで、それもすべてプンプンという少年のコミュニケーション能力の低さが招くトラブルでしかない。
ただし10巻以降の「愛子ちゃん」との再会で、坂を転げ落ちるような破滅の物語が幕をあけ、そこからは「ありふれた」青年の「ありふれた」人生ではなくなり、非日常的なものへと様変わりをするにはするのだが……。
しかし、作品自体のテンションは変わるわけではなく、二人の破滅を静かに断片の積み重ねで描いていく。行き場を失った若い二人の逃避行は、悲愴感を漂わせながらも、日常の一場面のやりとりとして描かれる。
静かすぎる世界の破滅への旅は、美しい風景と彼らの絶望的なやりとりとあいまって、見るものを切なく苦しくさせる。

そして白眉は何と言っても、12巻の海辺のシーンだ。殺人事件をきっかけに、ヒヨコの落書きだったプンプンが肉体を持った人間として描かれ始めたわけだが、鹿児島の海辺へとつづく道の途中、プンプンは従来のヒヨコの落書きの姿に突如戻り、愛子ちゃんにこう告げる。
「君に会えて本当によかったと思ってる……ありがとう」
そこから始まる一連のシーン。愛子ちゃんが砂浜をはしゃぎながら走り、夕陽をバックにプンプンと波打ち際で抱きあう場面。音のない世界と美しい風景。そこから溢れだす叙情性。

このシーンを見たとき、浅野いにおは数年で『天才』の域に達したなと実感した。

それにしても、本作のヒロインである田中愛子の人生とは一体なんだったのだろう。新興宗教に狂い、一人娘の自主性を一切認めず虐待をつづける母親と二人きりで、あばら家で暮らし、プンプンと再会したことをきっかけに一筋の希望を見出すも、不可抗力による殺人事件で、それもあっさりと消失してしまう。共犯者であるプンプンと行き場のない逃避行がはじまり、最後は事件の発覚により、プンプンを残し一人で命を断ってしまう。

プンプンにとっての愛子ちゃんは一目ぼれの初恋の相手だった。彼女が子供の頃からずっと探していた「一緒に逃げてくれる相手」は偶然プンプンが選ばれただけで、結局のところ誰でもよかったのかもしれない。
「運命の相手」というには幸せな時間の共有が短すぎたし、二人の出会いと別れの反復は残酷すぎた。
だが、彼女の残した遺言−−−あなたがわたしのことを忘れませんように−−−という願いが、残されたプンプンに課せられることとなった。プンプンは愛子ちゃんの願いを叶えるため、彼女と犯した罪とともに彼女が生きていた証として「業」を背負って生きていくこととなる。

作中に繰り返し登場する「世界の終焉」の暗示やエピソードは結局、プンプンの世界の中心が常に愛子ちゃんであったように、愛子ちゃんを失った世界はプンプンにとって「世界の終わり」と同じだった。
愛子ちゃんを失った世界は、流れ星は流れず、天の川も見えず、「明けない夜はない」という言葉も、むなしくかき消えてしまう。
そんな世界で、プンプンは一人、彼女の願いを果たすため緩やかな死が訪れるその日まで生きつづけていくのだろう。

最終章は、小学校時代に転校していったハルミンの視点から語られる。転校した後、特にこれといった大きな障害もなく無難な人生を歩んでいたと思しきハルミンは「人生は思ったより案外生きやすいものだ」と漠然とそんな感想を抱きながら、街中を歩いているところでプンプンと再会する。
ハルミンは、今はもう自分がまったく知りえない人たちに囲まれながら生きているプンプンを見て、彼も彼の人生を送っているんだと当たり前のことを感じつつ、この先、互いの人生が決して交わることはないであろうことを予感しながら、去りゆくプンプンに手を振ると、プンプンが泣きながら手を振っていることに気づく。

ハルミンがプンプンの名前を最後まで思い出せなかったように、身を切り裂くような不幸や耐え難いほどの苦痛を受けても尚、生きていけてしまう人という生き物に備わった「忘却」という名の装置に、恐らくプンプンは涙したのだ。

このラストが悲痛なのは、たった一人の死が主人公をどれだけ打ちのめして、彼自身の世界が終わっても、現実の世界は滅びないし人類も滅亡しない。地球は毎日、一日に一回転し、朝が来て夜が来て、また朝が来るという、何の変化もない日常がつづいていくという厳然たる事実に他ならない。
では、6年半という長期にわたって描かれた『おやすみプンプン』というマンガは、われわれに何を伝えようとしているのか。
自意識にとらわれ、生きることに苦労し、何をするにも上手くいかない一人の青年が、初恋の少女への思いを遂げ、しかしあっけなく失い、その後もひっそりと世界の片隅で生きているであろう記録。

そう、『おやすみプンプン』はわれわれに何の教示も与えない。何のメッセージも届けない。言ってしまえば、「何の役にも立たない」漫画だ。
しかし「芸術」たるものが常にその時代において「役に立たなかった」ように、この作品も恐らくそれと同じ道を辿っていくのだろう。「何も与えない」ことで普遍性を帯び、長く語り継がれていくことになるだろう。

かつて彼の作品を「ファッションな憂鬱」と叩いた増田がいたが、id:kanose氏が「その程度の悩みかよ!みたいに言うのは簡単なことだけど、他人の悩みをそうやって低く見積もってバカにするのは、あんまりエレガントではないと思う」とブクマコメントで言っていたけれど、まったくその通りだと思う。
また、その時に比較対象とされた村上春樹の憂鬱さと浅野の憂鬱は、まったく異なるものであることも注釈しておこう。
村上春樹の小説の登場人物たちは、普段はスタイリッシュでオシャンティーかつ都会的な生活を送っているが、内省には一大事のような憂鬱を抱え込んでいて、その憂鬱の正体は明かされぬまま「何か」どまりで毎回終わってしまう。こうした思わせぶりな憂鬱こそが「ファッション」と呼ばれるにふさわしく、むしろ村上春樹の描く憂鬱に似ているのは、熱狂的な春樹フォロワーでもある新海誠作品だ。
秒速5センチメートル』で描かれた主人公の淡い初恋の記憶は、プラトニックに終わったことにより、清純で美しい青春として昇華され、過去を美化するという捏造で観衆を感動に導くといった、まったく中身のないものだ。
そうした記憶の美化や曖昧にぼやけた「何か」を描くようなことは、浅野いにおは決してしない。

浅野の描く登場人物たちは恐ろしいほど生きることが下手な人間ばかりで、注目を浴びるような人気者は決していないし、どちらかといえば集団や組織からは孤立しがちな内向的で孤独な「のけ者」的存在であり、そうした人物が物語の中心に据えられることが多い。
自己を過大評価することもなく、とりたて秀でた才能も持ち合わせていないことから、生きていること自体を申し訳なく思っているようなキャラが多い。故に、どうしてそうなんだと思えるほど複雑な内面を抱え込み、どんな問題にも思いを巡らせ、考え、苦悩している。楽天的にも能天気にも生きることがいくらでも可能なのに、それらを忌避するかのように、より複雑なほうへと物事を進め、結果コミュニケーションのすれ違いばかりが描かれる。
そのディスコミュニケーションっぷりは、オシャンティーとはほど遠く、むしろ人間臭さや泥臭さが入り混じった生々しい印象を与える。
そして、登場人物たちの内面描写や、やりとりの齟齬からしか叙情は生み出せないのだ。

彼らの不器用さ、必死さや切実さ、それでも何とかしようと葛藤している姿は見れば分かるし、これをリアルと呼ぶか、巧妙に仕掛けられた捏造の憂鬱と呼ぶかは、読者に委ねていいだろう。
しかし、こうした人物像は、自分の思い描く「リア充」や「スイーツ(笑)」のイメージとは遠い。常に虚ろで生気のない目をし、時に他人を妬ましくも恨めしそうな眼差しで見上げる。その最たる箇所が泣き顔で、泣くのは主に女性キャラだが、その泣き顔は美しいものではなく、涙以外にも鼻水やら唾液やら垂らして、本当に苦しそうに辛そうに咽び泣く。こんなに辛そうに泣くキャラを描く漫画家を自分は浅野以外に他に知らない。
これのどこが「オシャレ」なのか自分には分からないし、それでも浅野の漫画を「オシャレ」と位置づけるのであれば、「オシャレ」の定義が自分とは違うということだろう。

ここで言いたいのは、浅野いにお作品の方が、村上春樹新海誠の「憂鬱」より現実的だということではない。
作品における「リアル」とは、フィクションでありながら、それを虚構とは思わせない力で、読者を組み伏せ納得させる作品の持つ説得力に他ならない。その意味で、村上春樹新海誠の憂鬱は、自分にはまったく迫ってこないし、何も訴えてこない。浅野の作り出す世界の説得力の強さとは比較にならない。

それが分からないからといって「ファッションな憂鬱」と叩くことはたやすいだろう。人は得てして理解できなかったり、良さが分からないという理由だけで、作品を攻撃することが多い。自己の想像の範疇に収まりきらなかったもの、自分の規格外に作られているものを「駄作」と決め付け、安易な言いがかりで勝者気取りで批判する。
かつての大島渚の映画を理解できなかった文化人達がそうしてきたように。

最後に浅野の作画について言及したい。
以前、江口寿史ツイッター浅野いにお花沢健吾の写真背景が好きじゃないと批判したことで、炎上したことがあった。

< 江口寿史のツイッター騒動と漫画家のツイッター利用について思うこと - このページを読む者に永遠の呪いあれ >

浅野や花沢の写真による背景は「無機質すぎてあたたかみがない」と言い張るのであれば、感性が鈍いか嘘をついているだけだと思う。
間違っても自分は、浅野の背景にそういった感想を抱いたことはないし、映画のワンフレームを切り取ったような彼の背景は物語上欠かせない演出としてちゃんと機能している。
「写真」という人工の道具で作られた背景にも関わらず、無機質どころか下手な手描きよりも叙情を醸しだし、機能している。江口はこうした逆転現象に恐れをなしただけではないだろうか。

先ほどの増田もそうだが、人は往々にして、自分が信じていた価値観を覆し脅かすものが登場すると、攻撃する生き物だ。
そうした騒動を見るたびに、『共産党宣言』第1章でマルクスが指摘していたことを思い出す。
要約するとこうだ。
昨今の反社会性・反権力・反体制勢力の全てを、権力側が総じて「共産主義」というレッテルを貼り、危険思想として攻撃している。しかしそれは「共産主義」勢力が十分に認められてきた証拠でもあり、同時に勝利への兆しでもある。共産主義は、今や支配側・権力側を脅かすだけの力として認知されてきたのだ。だからこそ、彼らはそれを潰そうと躍起になって攻撃し、喧伝するのだ。

言い換えれば、「王道」とされてきた手描き背景を凌ぐ次世代の漫画表現として、浅野や花沢の写真背景が力を持ちはじめたことの証拠だし、だからこそ江口はそれを否定することで賛同を求めた。しかし、そうしたことによって逆に江口は完全に負けを認めることになった。

そもそも写真が「無機質」で何も訴えないといった主張は暴言にもほどがある。本気でそう思っているとしたら、写真芸術が、どれだけの歴史を持ち、幅広い表現の可能性を持っているか無知も大概にすべきだ。江口のこうした発言は、写真家にも同時にケンカを売っているわけで、一度、写真芸術というジャンルを勉強してからものを言うべきではないかと思う。