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表層批評宣言/蓮實重彦

表層批評宣言 (ちくま文庫)

表層批評宣言 (ちくま文庫)

本当になんで今まで読んでこなかったかという不思議があるのですが、『小説から遠く離れて』を読んで、一気に表層批評を理解してしまったので、あえてこの本は読んでいなかったのでした。
小説から遠く離れて (河出文庫)

小説から遠く離れて (河出文庫)


表層批評が批評として機能していない今日ですが、30年以上前の本作での蓮實の筆致は破竹の勢いがある。
表層批評とは何も新しい批評法ではない。否、新しくないどころか、「制度」に虐げられ、隠蔽されてきたのだ。その歴史を暴き、白日の下にさらし、これこそが真の批評法であると高らかに宣言したのが本作である。


さて、小説好きの諸君。君は一体何を求めて小説を読むのだろうか。
いや、別に小説でなくてもよい。映画でも構わない。漫画でも構わない。音楽でもいい。

そういった多様面でのあらゆる「文化」的営みによる所産のもろもろをどうして求めるのか。考えたことはありますか?


オイラはかつて、文学とりわけ小説にいろいろなものを夢見てきた。端的に言えば、小説に世界を見ていた、いや正しくは世界を見た気になっていた。
作家と作品は切っても切れぬ関係であり、作家=作品であると考えていた。作品は作家のメッセージ=スローガンを伝える伝達手段に過ぎず、そうした文学は高尚であると思っていた。


今、思うと大変青かったあと思う。いや、むしろある意味夢を抱いていたのだから、幸せな時期だったのかもしれない。


こうして書くと、こっぱずかしい事実だが、さあこのブログを読んでいるROMの諸君は一体何人が自分はそうじゃないと言い切れるだろうか。


仮に君たち、君たちは映画や小説、漫画や音楽に、その描かれていない空間に畏敬や憧憬、思想やメッセージを夢見ていないか。


そうしたあらゆる幻想を痛烈に批判し、そんなものは一切ない、と切り捨てることが表層批評なのだ。
ものはものとしてしか存在せず、小説は小説以上のなにものでもない。
小説の裏側にその隙間に、行間に空白に作家を見るな。作家は作品とは関係ない。そこには思想などない。


ここに横たわっているのは、ただただ紙に印刷された文の羅列でしかないのだ。


ぶっちゃけていうと、それが表層批評の理念である。
要するに見えるものだけについて語れ、それが表層批評である。


しかし、これだけで表層批評は完結するわけではない。物語を紐解く時、まず説話論的視点から物語を眺めよ。その時に物語に目新しさはあるだろうか。同時に、そうした説話論的主題を超越する構造のなかで小説はたたかっているだろうか、たたかいのうえで文章から力強い息吹は感じられるか。


これが表層批評の真髄である。


さて、こうして書いてきて一体どれだけの読者がオイラに同意してくれるだろうか。
残念ながら、今のご時世は蓮實の一連の仕事はまったく無視されたかのごとく、本書の冒頭にある「制度」に虐げられた批評や分析が蔓延している。その汚濁からなんの汚染もなしに、純粋潔白なまま生還できるものなど果たしているだろうか……。


翻って言えば、オイラはどうして今までの本の読み方を捨てることができたのか。
それは作品それ自体への愛があったからだ。愛があったから、今までの本の読み方は間違っていたと気づかせられた。愛は常に清廉潔白である。純粋無垢である。オイラは純粋に文学というその表現形態そのものを愛してしまっていたのだ。
そう、その愛が深ければ深いほど、蓮實の言っていることは容易に理解できるはずだ。


しかし、大江健三郎は論敵を作りすぎだな。江藤淳しかり、蓮實に浅田彰。大江の熱心な読者は認めたがらないだろうが、それだけ大江王国、いわゆる大江神話は瓦解しているのだ。


そして最後に大塚英志にも言及しておく。大塚の文芸批評の多くは江藤淳に倣っている。蓮實と柄谷をまったく無視しているのだ。これは読んでいないか、読んでも理解できなかったかとしか思えない。蓮實や柄谷が既に江藤淳を論破している時代に、いまだ文学という理想郷を夢み、文学という牙城をかたくなに守ろうとする大塚は現在の遺物としか言いようがない。



<複>『表層批評宣言』蓮實重彦 ★★★★