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世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて/柄谷行人

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

戻ってくると書いたくせに、ぜんぜん更新してませんね。
また漫画を描いていたせいです。


では、早速ですが柄谷の『世界共和国へ』。
この本は去年発行されたばかりで柄谷いわく「官僚に読んで欲しくて書いた」そうです。
トランスクリティーク ― カントとマルクス
内容は『トランスクリティーク』のカントからマルクスへの流れをそのまま逆にして、分かりやすくした感じです。
前半は歴史を踏まえた上での国家批判です。昨今の柄谷は「国家こそわれわれを不自由にも不平等にもする最大の敵である」と主張しており、本書では革命も否定してます。
要するに革命起こせば、他国の干渉から免れない、そうすると国家の誕生は不可避となるからです。
国家のかわりに提案するのは、これも変わっていませんが「協同組合」の考え方です。NAMの根源になりましたが、ご存知の通りNAMは失敗してます。
しかし、理念を捨てたわけではなく、自分もNAMの失敗は柄谷の理念それ自体に問題があったと思ってはいないわけです。言ってしまえば、NAM運営側に問題があった。柄谷はマネジメント能力までない人なのは、はじめから分かっていたので、失敗することも目に見えていたんですが。


で、最終的に国家を楊棄することを提案してます。国連のような連合体組織に国家の主権を譲渡する。そうすることでしか国家を消滅させる手段はない、と。
そうして誕生できる国、それが「世界共和国」だと。
これは柄谷がオリジンではなく、カントが提唱していたことです。
ここまでくると、何だか夢の話のようです。
某巨大カルト組織がよく「世界市民」というカントの言葉を流用していて吐き気がしますけど、本来の意味はここから来てます。


柄谷は言います。「われわれが資本への誘惑に屈せず、真に倫理的になれれば、実現不可能なことではない」と。
本当にそうなんですけど、世の中の人間は恐ろしいほど腐ってますから、気が遠くなるほど未来の話に聞こえます。


そんな時がくるのか…と茫漠とした思いに駆られました。


とまあ、かいつまんで書くとこういった内容の本でした。
書かれていることについてはどれも示唆に富んでいて、興味深く面白かったです。
国家批判の論立てについては反論の余地はないと言っておきましょう。


で、柄谷のいう「協同組合的な組織」について、考えたことがあるので書いてみます。
実は、これに最も近い形が過去、日本に存在していた。それはかつての「コミックマーケット」、要するに同人界。
今の、ではないです、かつての、です。

どうして今のコミケは違うのかと言えば、既に巨大な資本が介入しているからです。資本が介入する以前のコミケは柄谷のいう理想的な共同体=協同組合に近かったと思います。
じゃあ、今のコミケにそれがまったくないのか、と言えば同人界といえども広いですから、その一部に面影を感じることは今もできます。
例えば、大手と縁がないマイナージャンルとか…大手に興味のない地道な買い手や描き手とかに。


オイラも物心ついて晴海のコミケに行った時、既に資本は介入していました。そうなると状況も知らず想像するしかないのですが、恐らくコミケが今のように巨大化する資本が介入する以前にも、同人界にヒエラルキーは存在していたでしょうが、活動の規模も今の大手より制限されていた筈で、存在的には今より随分マシなものであったことは想像に難くないです。


じゃあ、どうして今の大手や大手を買いあさる消費者が腐っているのか。
これを分析してみましょう。
「貨幣のフェティシズムに取り付かれた人々、それこそが資本家であり、最大の癌である。資本家の欲望は尽きることがない。いくら儲けても決して尽きることがないのだ。その欲望は恐ろしいほどの底なし沼」
と言ったのはマルクスです。


今の大手は基本的に、メジャージャンル・旬のジャンルで活動しています。人気が別に移れば、ほらよっと身軽に転身します。
そのときの口上は「はまりました」「萌えました」。
誰もが異議を唱えられない便利な言葉です。


「オタクにも知名度が低いけど、この作品が死ぬほど好きだ。一期一会なのだ。皆が忘れても興味なくなっても、金輪際、俺はこのジャンルの本しか出さない。ここに骨を埋める」なんてのは、ほとんどいませんね。
大手は活動を続ける為にも、人気ジャンルで本を作り続けることを余儀なくされているわけです。


発行部数も資本のおかげ(委託書店やメーカー、出版社などあらゆる企業の後押しで活動することです)で、大きく規模を膨らませます。
そうした資本のせいで、大手はいっそう、今の活動を止められない。
止めたらどうなるか。活動の縮小を余儀なくされ、「あの人は今?」とささやかれることになります。
実際、ささやかれる人もいます。しかし、「ここに骨を埋める」為に消えた作家はどのくらいいるのか。
ほとんどが彼らなりに競争に食いついたが惜しくも脱落していったと考えてよいでしょう。(すごい言い様ですが、説明の為なので恨まないように)


売り上げに一喜一憂し、委託書店に次に来るジャンルを問い合わせしたりします。
こうなってくると、読者のニーズに応えるものしか描かなくなる。
読者のニーズに応えるジャンル、読者のニーズに応える漫画、読者のニーズに応える絵柄。これは本人の欲望ではなく、他人の欲望です。ニーズに応えることはすなわち「儲ける」ことだから。
ここにはマルクスのいう「貨幣のフェティシズムに取り付かれた」姿があります。
これの一体どこが自由で制約を受けない表現活動なのか。
実際は資本や読者にがんじがらめになっているだけではないのか。
なとど疑問を持ち、苦悩する大手がいればたいしたものですが、そこまでは分かりません。
しかし、そうした資本活動に身を投じている以上、柄谷的理念は崩壊しています。


本人達が本当に好きなジャンルで、好きな漫画を描く時は来るのか。いいえ、そんな時代がくることは永遠にありえないでしょう。
「貨幣のフェティシズムに取り付かれた」人々が一部でもいる限り、資本の活動は永遠に繰り返され続けるのです。


それは買い手も同じです。昔、「叙情的な人々」という記事を書きましたが、そこに登場したオタクはまさに「他人の欲望でしかオタク活動を存続できない典型」でした。

「好き」の大安売りができるオタクってのは、その絵が「心から好き」なわけではなく、先に書いた「自慢オタク」と同じで、「オタク世間のために好き」でいるわけだ。

「オタク世間」という環境があってこそはじめて感想を口にする。
つまり、「これが分かる俺は『オタク』として『オタク世間』に認められるだろう」という前提があって成立する「好き」と「萌えた」の価値観でしかないと思う。

それは「本当に好き」なわけではないと思う。他人の為にしか「好き」と言えないのだから。

最近の若いオタクがオタク界隈のことしか知らず、情報が異常に狭いことも、ひっくり返せば、これと同じです。彼らの見ている先は常に「オタク世間」でしかない。
だから、それに関係ないことは知らなくてもいいこととして処理されてしまう。『硫黄島からの手紙』がいくら傑作でも、何故か『パプリカ』しか見ていない、といったように。(『パプリカ』が悪いと言っているわけではない)


オイラは好きな作家がいても、業界で有名とか無名とかそんなことは一切基準に入らない。
例えば、煉り餡のファンに聞きたいのは、彼女が無名でも、探し出して今と同じように愛せたかどうか、ってことだ。
だけどアホなファンはこういうかもしれない。「煉り餡さんが有名じゃない世界なんてありえませんから」と。
逆に言えば、オイラは煉り餡がいくらオタク業界で有名で尊敬されてても、今までもこれからも敬意なんて抱かない。本人の性格にも多大な問題があるが、そもそも絵が好きじゃない。ていうか、絵に本人の性格(ナルシーかつ自己陶酔や自己正当化が激しそう)が出ているから嫌いなんだが。
同様に、bolze.にだって敬意は抱かない。本人に別段問題があるわけじゃないだろうが、例えば「ほっへ!団」の犬のが漫画も絵も上手いし…といった風に。


これを傲慢だという奴がいるだろう。しかし、敬意を払う人と払わなくてもよい人が明確に決まっているだけだ。有名無名の基準なしに、惚れた人には敬意を払う。
有名無名ってのは資本の後押しを受けたかそうでないかの違いでしかないのだから。


この考え方はいたって普通のことに思う。何故、これほどの当たり前のことが理解できないのか。
こうした当たり前のことが理解できれば、今の同人界の勢力分布図は絶対に変わる、と断言できる。


だから、オイラはマイナーながらも、コピー本しか出せなくても、地道に活動している同人作家に好感を持てる。
「マイナージャンルですから、売れそもね」とか身も蓋もなくいう委託書店とか、いなくなればいいと心から思いますけどね。
なればなったで、頼り切っていた大手どもは、この先の生き様を考えればいいだけの話。資本によりかかって活動していたことのツケを蒙ればいい、とも思う。
萌えオタも同じ。連中の欲望なんて所詮、他人の欲望でしかない。しかもこれほど重大なことに気づいていないのだから、たちが悪い。いなくなった方がいい。


誤解を与えるといけないので、念のため書いておくと、オイラが攻撃しているのは、大手や萌えオタではなく、「資本」そのものであって、その尻馬にのっかる大手と萌えオタを批判しているんで、一応。


知人にバブル時代の元・壁で、今はコピーサークルに転じてしまった人がいるが、以前にそのことについて聞いたことがあった。その人は「萌えは貴賎じゃないよ」と言っていた。要するに「萌えは他人の欲望ではない。自分の欲望だ」と明言していた。


そうやって、みんなが好きなものを愛し好きなものだけで本を作れば、人気ジャンルの集中化やら、どー見てもヘタレな描き手が大手になったりしないだろう。
買い手だって、無闇に作家をちやほやしたりしない。
これこそが限りなく飽くなき肥大を続ける資本への抵抗運動なのだ。
そうすれば萌え絵根絶委員会会長が納得できる同人界が実現されるかもしれません!


柄谷の本から随分と脱線してしまった気がするけど、今やオタク業界を我が物顔で闊歩するポストモダン論者に対して、もとポストモダン論者だった柄谷から痛烈な一言。柄谷は90年後半からモダニズムへと転向していったわけだけど。

歴史の意味を嘲笑するポストモダニストの多くは、かつて「構成的理念」を信じたマルクス・レーニン主義者であり、そのような理念に傷ついて、シニシズムニヒリズムに逃げ込んだのです。

しかし、社会主義は幻想だ、「大きな物語」にすぎないといったところで、世界資本主義がもたらす悲惨な現実に生きている人たちにとっては、それではすみません。現実に1980年以後、世界資本主義の中心部でポストモダンな知識人が理念を嘲笑している間に、周辺部や底辺部では宗教的原理主義が広がった。少なくとも、そこには、資本主義と国家を超えようとする志向と実践が存在するからです。


柄谷行人『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』より

これってさ…マルクス・レーニン主義も経ていない、今の若い世代のポモ論者が「なんちゃってポストモダン」であったことを証明してくださった一文でございました。(^^)
しかも志向と実践からの単なる「逃避」とまで一刀両断しています。素晴らしい!



<複>柄谷行人『世界共和国へ』(文庫)★★★★