このページを読む者に永遠の呪いあれ

スマフォからコメントを書き込む場合、一度PCモードで表示してください

コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

少女セクト<2>/玄鉄絢

少女セクト(2) (メガストアコミックス)

少女セクト(2) (メガストアコミックス)


2巻から読みました。1巻は未読です。
そういう立場から書きます。

なんで、2巻なのかと言うと、1巻が出たとき買いそびれ、放置してたら2巻が出てしまった…つーか、1巻の時点ではあまりに情報量が少なくて買うまでに至らなかった。

オイラはたまに『コミックメガストア』を読んでいたけど(最近は読んでいない)、この漫画が載っている号は偶然読んでいなくて、1巻が出たとき気になったまま、忘れていた。

2巻が発売されて、どうしよっかなあーと思っていたのを思い出して、見たら、表紙がすごくよかった。ので、買うことにした次第。
百合だってことは知っていたけど、他の前情報は一切抜きです。玄鉄絢氏のこともあまりしらねーんだ。サイトは見たことあるけど。

で、断っておくと、オイラは百合だろうが薔薇だろうが、読む分にはどっちも抵抗ないんですよ。単に萌えないだけ。
つか、そもそも萌えるためだけに、漫画とか買ったりしないし。研究という名目もあるんで。
だからさ、昔に「とらのあな」でエロゲ買ったとき領収書に「資料として」って勝手に書かれたときも、ハズレではないがな、という微妙な気持ちになったりもした。

で、やっぱり普通に萌えるのは、男女であって、そうなるのはオイラがノンケだっていうのもあるけど、そもそも二次元の同性愛ものって男女ものがあってこそ成立する、サブカテゴリージャンルなわけです。
そして昨今は、マリみてのせいか、百合ものって増えたけど、興味なかったんだ。
百合姉妹』とか『百合姫』とか今の百合ものの描き手のほとんどが女性だからなんだけど。
例えば、801は女性の専売特許なイメージが昔からある。そこに男性の描き手がいても、腐女子たちが育んできた土壌の上で、相撲とっているようにしか見えないように、男の描く801にも興味がない。

そして、女性の描き手による百合ってのは、少女漫画の移植的要素が強くて、ぶっちゃけ、身体性に欠けるものが多いんじゃないか、って気がするから。恋愛はプラトニックからフィジカルなものに移行しない。恋愛があくまで心の部分にあって、肉の欲望そのものが描かれることは少ない気がする。

っていうか、女性作家の百合ものって魚喃キリコの『Blue (Mag comics)』くらいしか読んだことがないので、これ以上は書かないようにしますが。*1

じゃあ、なんで身体性の欠ける百合ものが、面白くなさそうに見えるのか。
百合ものでも801ものでも、これらのジャンルの描き手の女性は現実では基本的にノンケである。といった予測を前提に、女性はノンケである以上、作者自身が(現実生活において)相対的な肉体的存在を持ちえていないことになる。
論が飛躍した気がするので整理すると、男という生き物がいる以上、古来から「女性は肉体」であることから逃れられた試しがない。
男性にとって女性は「存在自体が身体」となる。だからこそ、男性の作り出すエロ漫画なりAVなり、エロものは常に即物的になってしまう。
そうした男の持つストレートかつデリカシーのない欲望に、大概の女性は理解を示さない。多分これが二次元にも、そうした欲望を持ち込むオタクキモイの言説の所以にもなっているんだろう。

それ故、女性の描くエロものの多くが、肉体から超越したプラトニックを指向するものが多い。
つまり、男性は女性を即物的にしか描けない。故に、現実(肉体から超越したプラトニックを指向していく女性作家)との転倒が必ず表出する。
だからこそ、男性の描く百合のほうが面白そうだ、という結論になる。
これは同時に女性の描く801が何故面白いのか、という理由にもなる。*2


現実との転倒や倒錯性がフィクションの面白さでもあるので、そこにオタクが「性倒錯だからキモい」という意見に安易に直結しないはずなんだが、一般から見ればそうなってしまうのは否めない。
でもよ、自分を「限りなく標準的人間」だ、って思い込んでいる一般人のほうが果てしなくキモイけどな。

前段が長くなりすぎましたが、以上が百合に興味のないオイラが『少女セクト』に興味を示した理由です。

で、ここではストーリーについてはそれほど触れない。漫画や絵の場合、作者の欲望が最も表出する部分は必ずや絵であり、それが男性作家であれば尚更そうなる。
ので、玄鉄絢氏の少女の身体性について述べると、少女の身体が実にキレイだった。(というのは以前から気づいていたから購入したんですけども)とにかく上手い。誰に聞いても、みんな認めると思います。

そしてオイラは昔から、身体を上手に描く漫画家を贔屓してます。
何故なら、オイラは学生時代のほとんどを美術科ですごし、美術大学で学んだ結論として、「肉体は難しいモチーフ」だ、っつーのがあるわけで。こんなこと、素人でも分かりますか。でも、(特にオタク・漫画業界では)分かっていない絵描きが多いのも事実で。

身体が下手くそな絵は、それだけでオイラにとってマイナスになる。それは作者が意識して絵を描いていない証拠であり、肉体を上手に描くことは、絶対に意識しなくてはならず、美しい肉体を描くことはさらに美意識を要求されるからです。オイラが山本直樹スキーな点はここに尽きます。

で、『少女セクト』の美しい身体を持った少女達は、ほとんど男性の欲望に近い在り方で、即物的に互いの肉体の接触を求めあう。
だけど、氏の描く絡みは少しも湿っぽくならない。これは成人指定をはずされていることもあって(つーことは厨房も買えるのか…うーん…)わざとかもしれないが、消されていない女性器にもリアリティーがないせいかもしれない。
キャラクターたちがエロ漫画の住人にしては珍しく、性器に主体がなく(笑)、肉体に主体がある。だから、湿っぽくならない。

ここには、ロリコンやペドオタの「少女の身体に対する欲望の根源」が、「性器ではなく、未熟にも美しい肉体そのもの」にあることをよく示していると思う。さらに、擬音や流線を必要最低限に抑えることで、「美しい肉体」を持った少女たちをクローズアップさせていく意図に成功していると思う。

さらに言うと、漫画世界そのものの「音」がとても静かであること。
そのせいで画面全体が箱庭的な世界観になっていて、これは人間のモブが少ないことによって相乗的に作用している。
例えば街の風景にも通行人がほとんどいない。学校にもクラスメイトたちがごちゃごちゃしている絵がほとんどない。
90年以降のオタク漫画にこうした「静かな箱庭的世界観」が増えた気がしますが、おそらくこうした描き手たちの持つ内面のフィクション世界が「静かな箱庭」なのかもしれない。しかし、それは深読みで、単なる手抜きかもしれないが(笑)
しかし、手抜きであるにしろ、こうした白い背景が、現実と隔離されたサナトリウム的世界観を提示していることは確かで、『少女セクト』は男が絶対に登場しないことにおいても、こうした世界観と合致し成立しているように思えます。
どこにも存在しない、架空の世界の少女達の物語。

つまり、ファンタジー。

いわゆる801は「腐女子のファンタジー」って呼ばれるけど、それと呼応する。
少女セクト』は男の描く百合ものとして、女性の描く801ものと対をなす。

ここにはオイラが当初見たかった「転倒や倒錯」が紛れもなくあったし、いい見っけもん的エロ漫画だった。*3

つっても、内容自体は明るい学園ラブストーリーの枠から出ていないんだけどね。
シナリオは単純の極みなんだけど、そうしたファンタジックな世界観との兼ね合いが実にアンビバレントで、不思議な印象を残したわけで。

あと、つまんないことだけど、この人の描く女の子好きなんだけど、顔がたまに平べったくなりすぎることがあって、他の部分がいいだけに、ここは注意して欲しいなあ、と思った。あと、描きわけがね、若干、できていない。混同しちまったことがあったので、もう少し特徴付けて欲しいなあ、って感じでした。

あと、タイトルがいい。『少女セクト』。名タイトルだと思いますよ。

*1:で、魚喃キリコの漫画は、オイラにそう思わせるきっかけを作ってしまった作品だったし、ぶっちゃけフィーリング漫画っていう感想しか抱けなかった…と書くと信者来襲しそうだな。だってこの漫画すげえ熱狂的ファンが多いんだもんよ。何故だ。
他には「ごきげんよう」の元祖・吉田秋生の『桜の園 (Jets comics)』。これは面白かった記憶が。でも昔過ぎて忘れてしまった…。

*2:まとめると、男性作家が即物的なのは当たり前で、女性作家が精神的紐帯を描くのは当然であるから、女性作家の描く即物的なエロ描写や、男性作家の描くプラトニックなエロ描写は面白くなる確率が上がるわけです。どう表現されているのか、興味が湧きます。
同性愛ものの場合、現実において男が肉体的欲望を満たしたがるのは当然なように、801はフィジカルじゃないほうがいい。というか、そういうのが増えすぎたので、肉体的欲望のない801が見たいと思うし、現実において女が肉体的欲求より精神的紐帯を求めるように、百合ものは逆に肉体的であればあるほど見たい。
現実の男と女の欲望の二律背反になっているフィクションを読みたい、ということですかね。

*3:ここではフィクションと現実との齟齬を述べているのであって、実際のレズビアンの世界は全然知らないので、「現実のレズは即物的ですが」といった比較はしないでほしい。あくまでノンケが同性愛ものを描き、ノンケが同性愛ものを読む観点において「転倒や倒錯」があるほど面白い、といっているわけです。そして玄鉄絢氏が男性であり、現実においてノンケであることを前提にした場合です。そうじゃなかったらそれはそれで申し訳ないが