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蓮實重彦『ミリオンダラー・ベイビー』への反論

転載 映画

前段:蓮實重彦最新インタビューにおける『ミリオンダラー・ベイビー』批判に該当する部分への反論。

イーストウッドでいえば、『マディソン郡の橋』(1995)の子供たち、親たちにこういうことがあったんだというんで子供たちが集まるじゃないですか。あそこの子供たちの顔もまったく憶える必要のない顔ばかりです。物語の上で状況を納得すれば、画面をあえて見るには及ばない。どうしてそういうことをするのか、と不思議でなりません。いわゆる「古典的ハリウッド映画」には、そのような瞬間はまず存在しようがない。画面にある顔があり、それがそのときは誰だか認識できなくても、あとで必ずその意味と役割とが再発見できるという説話論的な有効性があらゆる顔を支配していました。ところが、そのようなことが起きない顔というのが、最近よく登場しています。これはみなさんがたの考えも聞きたいと思うんですが、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)が私はどうしてもダメなのです。最初に出てくる黒人のボクサーの顔が、あとから家に訪ねてきてネクタイまでしめており、「オレはあんたのジムを離れるよ」ってことまでいうにもかかわらず、どうでもいい顔のように見えてしょうがない(笑)。題材の上で重要なカトリックの神父の顔にしても、またあの教会の装置にしても、衣装にしても、覚えておく必要はまったくないと、見ているときからわかってしまう。


flowerwild.net - 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1

同じイーストウッドでも、あれだけたくさんの登場人物が出ている『許されざる者』(1992)にはそれがない。モーガン・フリーマンの奥さんの顔さえ、有意の顔なんです。だからみんな記憶している。二度、時間的なずれをもって活用されることによって新たな意味が生まれることのない、いわばその瞬間に消費してしまっていい顔というのが、ときおり、クリント・イーストウッドにさえあるということは、私にとってショックです。あれほど古典的な映画をよく見ているはずのイーストウッドが、ごく普通にそれをやっちゃうのはなぜか。つまりその場で消費してしまってよく、しかもそのときの納得が非常に知的な納得で、「ああ、これは彼らの子供たちなんだ」と思えばいいというのが『マディソン郡の橋』でした。『プライベート・ライアン』では、「ああ、こうして合衆国から訪ねてきて、フランスの墓地の前に立っているひとの何十年か前の話なんだ」と納得すれば、あの墓地の光景は、説話論的な持続にほとんど介入してこない。


flowerwild.net - 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1

「この場面は頭で理解すればよい」、ということになって、視力が問われなくなってしまう。これは最近映画を見ていてよくいらだつことで、とくに『ミリオンダラー・ベイビー』にそれが多かったな、という気がする。

flowerwild.net - 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1

蓮實はもうダメだな。彼は批評家としてもう用済みだと思う。


ミリオンダラー・ベイビー』を劇場で一回しか観ていないから、隅々まで記憶しているわけではない。「最初に出てきた黒人のボクサー」というのは後でモーガン・フリーマンに殴られた男のこと? 俺は印象に残ったし、教会の神父にしても、彼等が主役級の人物ほど目立たないのは作劇上の必然であると思う。
教会の内装や神父の姿形は確かに平凡な何処にでもいるアメリカの聖職者で、そこにカール・ドライヤーの『奇跡』に登場したような神父のたたずまいを感じることはできない。しかしイーストウッドの神父は「単なるアメリカ人」なのであり、ここにはリアリズムが作用している。
それともうひとつは主役のイーストウッドとの明瞭な対比でああいうベタな神父が描かれたということ。


イーストウッドは『許されざる者』とは明らかに別のスタンスで『ミリオンダラー・ベイビー』に臨んだ筈で、前者は各キャラクターを拡散させ、細部細部を際立たせることで中心となる流れ=ストーリーを透明にする戦略がとられていた。
だが『ミリオンダラー・ベイビー』のイーストウッドはストーリーを逆にあからさまにすることで、キャラクター全員をタペストリーの中に封じ込める。
結果、独特のアルカイックな世界観が生まれ、理不尽な現実に真っ向から対決しうる虚構が織り成された。
グリフィスをよく観ている筈の蓮實がそのことを分かろうとしないのは、政治的策略か? と思うほどです。


そこで、蓮實重彦のこじつけめいた『ミリオンダラー・ベイビー』批判に対して、あの映画が視力に応えた作品にほかならない理由を挙げてみましょう。

ミリオンダラー・ベイビー』表層批評


この映画をつらぬいているのは、実際は「横たわる者」と「立った者」の区別です。例えばヒロインは最後の試合で倒され、偶然ながら二度と立ち上がれなくなる。この映画ではみずから横たわることを忌わない人物だけが真実を獲得するのですが、ヒロインの場合のように、物語の核心と密接した横たわりだけがそうなのではありません。寧ろ、もっと荒唐無稽な横たわりを、作中の様々な人物が演じています。


「ガッツしかない男」バンバン・デンジャーは、「ガッツが無い男」である黒人ボクサーを揶揄するために、みずから進んでジムの床をころげまわります。彼はその身振りによって、黒人ボクサーに倒された後で再びジムに復帰するのです。


他方の黒人ボクサーは、モーガン・フリーマンを騙して憎いデンジャーをぶちのめし、自分もモーガン・フリーマンに倒されますが、彼は自分の意思で横たわる人物ではありません。それゆえに、モーガン・フリーマンの前に正装し「立ったままで」別離を告げたのです。


また、モーガン・フリーマンは作中で何度も倒された過去を持つと台詞で述べているばかりでなく、穴のできた靴下を晒しながら椅子の上で放恣に横たわる存在です。その場面が重要なのは、イーストウッドゲール語の本を読んで、それについてモーガン・フリーマンと話したからではなく、モーガン・フリーマンがもっぱら横たわりに近い姿勢でそこに身体を晒しているからなのです。


それ以外の人物は皆、立ち続けることを選びます。ヒロインの家族、彼女のアルバイト先の店主、それに教会の神父でさえも。神父は椅子に並んで腰かけることはあっても、横たわる自分を晒すことなど思いもよらないのであり、だからこそ彼は真実を語り損ねたのです。


例外は主人公イーストウッドであるかに見えます。確かに彼は横たわらない。しかし映画では、ヒロインのヒラリー・スワンクが彼に代わって先に横たわってしまった。イーストウッドが神父の前で涙を流し、にぶい明かりの中でじっと考え、耐え続けているのは、寧ろヒラリー・スワンクのように横たわる権利を奪われて「立っていなければならない」からです。彼は最後まで横たわることはできないのです。だから彼はヒラリー・スワンクを死に至らしめた後、誰知らぬ暗がりへと姿を消すことしかできなかったのです。


彼もまた「許されざる者」であり、90年代の西部劇の終わりでは、まだ馬の上で叫び、あまつさえ亡き妻の墓に詣でる姿がシルエットであれ許されたのに、この映画では、それすらも許されていないのです。つまりここでイーストウッドは、より一層の許されざる者になり果てて視界から姿を消すわけです。
細部における人物の表情やたたずまいだけが映画を活気づけるのではありません。イーストウッドは『許されざる者』の頃よりも遥かに困難な試みに挑んだのです。それを支えるのは、以上のような天才的に単純な人物たちの原則なのです。

思うに蓮實重彦イーストウッドが「ベタ」になったことが気に食わないんだと思う。


ミリオンダラー・ベイビー』はストーリーを見ればベタです。
しかし実際は立つ/横たわるという視覚的な区別がそこに働いているし、後半の絵本のページをめくるような過激な編集を観れば、これが物語を語るために為されただけではないことは自明の筈なんだけど。


蓮實は北野武の『ドールズ』にはパンフで賛辞を寄せたそうですが、むしろ『ドールズ』の方が普通に考えて退廃と見なされ易いでしょう。ヤクザの親分=三橋達也の回想に登場した恋人役の大家結宇子との場面など、茶化しとしか思われないだろうし、実際海外メディアはそれをめぐって賛否両論だったと聞きます。


蓮實は『許されざる者』は絶賛しましたが、それはストーリーを忘れさせるような細部の強調と全体の透明性があったからだと思う。しかし『ミリオンダラー・ベイビー』はストーリーが明白で、更にアメリカ批判もあからさまです。


アメリカは敗者を好まず、勝者に正義があるという見方を尊んできた国です。蓮實は政治的な映画も好まないし、作品の細部をないがしろにするかのような作り方も好まない。確かに最近のイーストウッドは、古き良き映画が培ってきた作り方に逆らって、独自の様式をうち出しています。神父の顔や教会の装置など最早問題ではなく、イーストウッドはその人物がどんな体勢でいるかに注意をうながすのです。また、『許されざる者』の時期と異なり、イーストウッドは必要ない部分は際立たせません。それだけ彼は求心的な映画を撮るようになってきた。『ミリオンダラー』のモチーフのけわしさを考えれば、余分な細部に視線を凝らすことを要求するような拡散した作り方はふさわしくない。そんなことは自明の筈なのに、蓮實重彦ともあろう批評家がそれを理解しないのは、どこまでも政治的な「逃げ」ではないかと疑わしくなります。