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このページを読む者に永遠の呪いあれ

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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

叙情的な人々

オタク

今回は一介のオタクの愚痴に過ぎないので、華麗にスルーするのが大人の対応かと思われます。

今のオタクの絵柄は動物に例えると3つに分類される。

  1. パンダ−−俗に言う萌え系。アキバ系。タレ目。顎がとがってる。男性向と混同しているオタもいるが、厳密に言うと男性向はエロ要素を含む漫画・およびイラストを指す。オイラが男性向という場合はエロ要素のあるものを指します。
  2. 猫−−アニメ絵。男性向に多い。猫というのは猫顔(ツリ目)が多い印象があるので(そっかな)。髪の毛が多い。
  3. 馬−−腐女子系BL。馬面。目細すぎ。顔長すぎ。鼻長すぎ。

大まかにするとこんな分類。またがっている絵師もいるが、この3種でおおむね分類できると思う。私見を述べると、根っからのアニメ絵好きな自分は、パンダが嫌いだ。
ないようである鼻口とか、遠くから見ると「目」しかなくて、鬘かぶったサキエル(写真)に見える。
いくらこの手の絵がはやって数年経ても、いつまでたっても好きになれない。

答えは簡単。
下手だからです。
これを永島慎二メソッドと呼ぶ。(語源:24年組が全盛の頃、永島慎二先生は「少女漫画は嫌いだ。下手くそすぎて見られない」とおっしゃったので)

というか、最近の男性向にはパンダ描く人も多くて、幼な顔でその乳と尻は無理ありすぎだろ、と思う時点でダメなのだ。
もっと言うと、あの顔に長い手足が既に不自然に思える。だからこそ、オイラはハルヒが好きになれなかった。
顔だけ年とらずに、身体ばっか老けてる感じというか。
小さい頃に読んだ阿刀田高(だったかな)の恐怖小説に逆バージョンがあって、それを思い出す。(つまり、顔がおばあさんで身体が若い娘とセクースする話で、すごい怖かった)
一般の人が萌え絵を「オタくせー」っていうのは、多分、このせいではないかな、と思う。

それに、パンダ絵は感情表現に乏しい描き手が多くて、表情がなく、何考えているのか把握しにくいし、全体的に「人形」っぽいんだよね。
そう言えば、パンダの人ってよくねこ耳を描くけど、顔がパンダで猫だったら、最初から猫顔にしろよと思った。

パチ漫―かわかずお作品集

パチ漫―かわかずお作品集

かわかずお」まではいかないにしても、オイラも絵を描く人なので、大抵の作家の絵柄を真似して描ける。(というか描けないのは絵描きとしてどうかと)
その中で、全部のパターン描くと一番簡単なのはパンダ。

つまり、パンダ絵は絵心がなくても誰でも描きやすい絵だと思う。練習は必要ない。そうした素人くささがうける画風でもあるので、アマチュア=同人に相応しくも普及したのだろう。
しかし、相変わらずオタク系雑誌でしか、あれらの絵柄を見ないことを知ると、一般誌の編集者は、あれらの絵柄を相当バカにしてる。

じゃあ、一番難しいのはアニメ絵かと言われれば、やはりそうだと思う。(下手なアニメ絵は論外として)アニメ絵つーのはバランスが必要で、パンダと馬にある「デッサンが狂っている前提」がないし。
というかさ、パンダ絵ってことごとく体が描けない絵師が多くて、それがマイナスイメージなんだよ。

人体ってやっぱ難しいモチーフだと思うわけ。それなりに上手に描くには、観察と熟練と、絵を描く「意識」が必要なわけで、描けないのは、本人の努力が足りないだけだと思う。

だから、オイラが萌え系に分類されがちで好きな絵師って言えば、軒並みデッサン力があって、魅力的な表情が描ける人に尽きる。
白亜右月氏とかtony氏とか、麒麟堂の中の人とか、カラーだったら鳴子ハナハル氏とか上手いと思うし。エロゲではキリヤマ太一氏とか、たけやまさみ氏系というのか、萌え系でもアニメ絵並のデッサン力があらかじめ備わっていることを感じさせる絵が描けると言うのかなあ。
んー、つっかどっちかっていうと今上げた人々はアキバ系とはいいがたいか。アニメ絵と萌え系の中間みたいな人たちだなあ。

要するにダメダメなのは、デッサン力もなければ向上心もなく流行の絵を真似る才能だけに長けている、代表的なのは「みつみトレース」な絵師のことです。

というかさ、なんでこの系統の絵師って群れてるのだ? mixiでマイミクを辿ると、同じ系統でほぼ全員がつながっているのな。なんだこの団結力。互いに互いを守っているのだろうか。

というか、みつみ美里自身、それほど絵が上手いと思っておらんのに、あれらをバカの一つ覚えみたいに真似する根性がさあ、オタク特有のずるさつーの? 欺瞞むんむんなんだよね。
酷似というのは愛があってこそ許されることもあるけど、みつみの亜流作家たちを見ていると、愛よりも先にみつみ美里のステータスや人気を少しでも掠め取ろうとしているのが透けて見えてるわけで、ファンじゃなくても普通に不愉快になるわ。

たとえトレースじゃなくても、似ている時点で本当にみつみ絵が好きなのか怪しい絵師も五万といる。その証拠に全然デッサン力が上達しない、相変わらず手抜き漫画を量産するしで、コイツラ、普通の漫画なんて読んでないのでは? と思わされるような漫画文法さえ知らない業をどうどうとやってのける。なんかさ、愛がないよな。全体的に。
この手合いの同人誌を見ると、砂を噛むような気分を味わうんだけど、そんなのオイラだけかよ。

で、今思ったけど、こんなことだらだら書くと、くだらねえ萌えオタが反発するだろうなあ。「絵じゃないんだ。萌えがある」とか言って。
だけどな、漫画は絵で構成されているだろ。
絵が悪ければ内容だけいいなんてことないんだよ。内容は絵にひっぱられる。
絵が下手なら内容だって当然(ryなわけで、それだったら同じ話で上手な絵で見たいと思うだろう。

池上遼一なんて絵がうまいだけじゃん」とかほざいてるオタを見ると、「流行の萌え絵なだけじゃん」という言い分も通用するよな。

とここまでぐだぐだ書いてきたわけだが、要するに一番言いたいことつーのは
オイラのファンという奴がいて、自称萌えオタで男性向の覇者らしいが、森山塔も知らないし、これのどこが「男性向けの覇者」だよ、と思ったけど、今のオタにはこんなのがごろごろしてるのかなと思ったら、軽くうんざりした。

で、萌え系の大手サクルと仲がいいのでひがまれる、と言うので「悪いけどそのサクル知らんわ」と言ったら目丸くする。
「いや、本当にすごい人なんです。もうホントに仲良くしてもらってるの俺くらいで、もう…本当…」とか言って、延々と自慢が始まったので、最後に「大手じゃなくてごめんよ」と言ってやった。

悪いが実力があって上手い大手ならともかく、単に萌えなだけで成り上がった大手と仲がよくても羨ましくもちっともない。つーか仲良くなりたいともおもわねーよ。
尊敬してない奴と仲良くなって何が嬉しいんだっつーの。

で、オイラは分かった。
コイツはオイラが好きっていうのは真っ赤な嘘で、萌え系が本当は好きでオイラなんてどうでもいいんだってことが。はたまたその逆か。いや違う。
多分、「本当に好きなもの」なんて一つもないのだ。
コイツが「好き」と口にすると同時に「オタク世間」への入り口につながっているんだってことが。

で、これの説明は後にして、ところで、オタクってなんで大手とかそゆステータスに弱いわけ? 昔からそこが、すんごい嫌いなんだよね。
大手じゃなければ速攻でヘタレ認定するくせに、「大手」だって知ると途端に弱弱しくなる奴多すぎだろ。
2ちゃんとかでアンチされる作家ってのは、大概本人がイタイことに限定されてるじゃん。
作品だけでこきおろしているのを見ることってまずない。
要するに作品だけで語れないこと自体、同人誌に対する愛すら感じられないわけだよ。

特に女性作家には男オタはめちゃくちゃ甘いじゃない。デッサンが狂ってても「萌えがあるから」とかって許すよなあ。叩く奴を「私怨」とかいうよなあ。
でも、男性作家には変に厳しかったりするじゃない。
これって逆差別だよなあ。
で、簡単に「好き」とか言っちゃうわけで。どうしてそんなに簡単に「好き」だと言えるんだ?

オイラは心から好きじゃなければ、「好きだ」なんていわない。
「好き」という言葉を安売りしたりしない。
例えば、無名の島中サークルでも気に入ってしまえば、規模とか知名度とか無視して、何とかこの人を有名にしてあげられればと、心から思う。そこには他の作家やサークルは一切関係ない。「絶対的」な感情だ。

でも、そういう作家に限って、流行と縁がなくて地味で宣伝が下手だったりする。いつまでたっても、ブレイクできずにとどまっている。(本人が望んでいなければそれはそれでいいのだが、しかしファンとしては歯がゆいのだ)

だから大した努力もしないで下手なままに、時勢に乗った萌え絵で人気を集めた成り上がりみたいな萌え系大手が嫌いなのだと思う。


要するに「好き」の大安売りができるオタクってのは、その絵が「心から好き」なわけではなく、先に書いた「自慢オタク」と同じで、「オタク世間のために好き」でいるわけだ。
「オタク世間」という環境があってこそはじめて感想を口にする。
つまり、「これが分かる俺は『オタク』として『オタク世間』に認められるだろう」という前提があって成立する「好き」と「萌えた」の価値観でしかないと思う。
それは「本当に好き」なわけではないと思う。
他人の為にしか「好き」と言えないのだから。

じゃなければ、どうしてあれらの絵柄が、オタには受けても一般には「オタ臭い」の一言で一蹴されてしまうのか。

それで「好き」という言葉は嘘でも詭弁でも「オタク世間」の為なら、いくら言っても減らないと思っているオタも多いだろうけど、オイラは確実に減る気がする。
言えばいうだけ、自分の中で何かが損なわれていく。
だから「好き」という言葉は、自分のためにとっておくのだ。

つか、いいんだけどね。

要はオイラを「好き」といいつつ、「萌え系も好きだ」と抜かす「博愛主義的な欺瞞オタ」をまったく信用しないという話なわけで。
つか、言わなくていいっす。言われても嘘だって分かるし、嬉しくねーよ。

で、この話を非オタの知人にしたら「叙情的だなあ」とか言うんで、どこが叙情なんだと聞けば「オタクって自分が思っていることを他人もそう思うと信じてるじゃん。例えば、大手と仲がいいことを自慢すれば、自分と同じように羨ましがると思っているわけでしょう。思っているから、君に話したんだろうに」

他人も自分と同じ価値観で動いていると思い込んでいるけど、実際はディスコミュニケーションになっているわけで、それって果てしなく叙情的じゃん? 
しかし、本人はそれさえ気づいていないので、君も含めて傍から見ると、もの悲しく見えるよ、とても「叙情的」だ。

詩人かよ。