更新期の文学/大塚英志(1)
- 作者: 大塚英志
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2005/12
- メディア: 単行本
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大塚英志の『更新期の文学』によると、アメリカで開発された小説用のプロット作成ソフトに「Dramatica」というのがあり、それを用いれば素人でもそれなりのストーリーを備えた作品が書けるようになるという。
ネットで評判になったアプリケーションには、既成作家の文体を模倣作成してくれるソフトがあるらしく、これを使えば宇能鴻一郎ふうのポルノ小説ぐらいは簡単に作れるという。
そのことから類推して大塚英志は「夏目漱石も大江健三郎も中上健次もアプリケーションひとつで書けてしまうし、小説の作者というものに意味がなくなる」と語るわけですが、この失笑モノのヨタ話をどう受けとればいいか。
本気でそう言っているのだとしたら、大塚英志は文体はテクストの外側からコントロールできるものだと思っているとしか言えない。芥川龍之介に通じる不毛な考えだと思う。
パスティッシュのたぐいは昔からあるけど、誰それの文体の模倣はパロディやパスティッシュにしかならないし、もっと精密に複数の作家の文体をミックスしたところで、それは音楽の自動作曲コンピュータ (ディーリングマシン) の二の舞になるだけだろう。
別に「私」の意識や精神とは関係ない。むしろ作者の意識によってさえ統御できないものが言葉なのだ。
文体とはそういうもので、大塚英志の言う通り作家たる「私」の自意識とは無関係だが、模倣は模倣でしかない。
漱石を文体模倣すれば漱石の小説が書けるというのは子供でも考えつくことで、だから世の文学少年は作家の文体を真似ることから始める。しかし既にある文体の模倣は「既にある文体の模倣」でしかない。当たり前だけど。
(文責:Z)