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なしくずしの死/セリーヌ

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

なしくずしの死〈下〉 (河出文庫)

なしくずしの死〈下〉 (河出文庫)

又淋しくなった。こういったことはみんな実にのろくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがておれも年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。たくさんの人間がおれの部屋へやって来た。連中はいろんなことをしゃべった。大したことは言わなかった。みんな行っちまった。みんな年をとり、みじめでのろまになった、めいめいどっか世界の片隅で。


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』より

この文章がかっこいいと思ったあなたはエライです。
ちなみにこれは冒頭。

オイラの以前のブログタイトルはこれでした。

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)
夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)
セリーヌを読むのは『夜の果てへの旅』以降、実に5年以上ぶりだったけれど、その時よりよさが150倍増しで理解できたので、成長したという証かな。
『なしくずしの死』についてAmazonでは

反抗と罵りと怒りを爆発させ、人生のあらゆる問いに対して〈ノン!〉を浴びせる、狂憤に満ちた「悪魔の書」。その恐るべきアナーキーな破壊的文体で、二○世紀の最も重要な衝撃作のひとつとなった。

のように紹介されている。
その通りであって、その通りでない、というべきか。

セリーヌを読んだことのない人に、セリーヌの文学の魅力を語るのは難しい。なぜなら、この本もしかり、『夜の果てへの旅』もしかり、彼の文学には明快なストーリーは存在しないし、怒りと情動に任せた思いのたけを汚い言葉で、激しい罵りと叱責をぶつけただけの文学であるから。

しかし、それらは時に優しく、切なく、美しく叙情を帯びる。
まさに全編が長い叙事詩と言え、汚らしい俗語でつづられる文章は驚くほど詩的に昇華し、かくも刹那的だ。
セリーヌほど20世紀文学に多大な影響と衝撃を与えた天才と呼ぶに値する作家はいないと思う。
ボリス・ヴィアンも、ヘンリー・ミラーも、ジャック・ケルアックも、サルトルも、大江健三郎も、ビートニク文学の何やかやも、みんなみんなセリーヌが好きだった。

『なしくずしの死』をセリーヌは自伝と呼んだが、それはまったくの嘘。
はてなキーワードセリーヌの項目を見ても分かるように、セリーヌはフランスの中流階級出身、いわゆるブルジョワであり、幼少時代も裕福なお坊ちゃんとして育った。本作の「どん底に貧乏で悲惨な家庭」は彼の独創でしかない。
今回、読んだのは国書刊行会版で、巻頭にはセリーヌの幼少時代の写真も載っている。
どー見ても良家のぼんぼん。十代でドイツに留学、英語もドイツ語もぺらぺら。じゃなくては医者になんてなれないわけで。

そんな育ちのいいブルジョワ出身の医者が、どうして20世紀最大の悪罵に満ちた文学を生み出したのか。
答えは、簡単。
彼がヒューマニストすぎたから。要するに優しすぎた。
貧しい人々に、声なき人々に、慈悲を傾けすぎた。故に、どうにもならない世の中に痛罵を浴びせることにした。(余談ではあるが、彼はユダヤ人差別主義者として第二次大戦後、苦境に追い込まれもしたが)

はてなキーワードにあるケルアックがセリーヌについて「時代の最も思いやりのある作家」と評したのは、「本当に優しい人間しか、本気で怒ったりできない」ことを示している。

ヴォネガットヒューマニズムは万人に分かるけど、セリーヌヒューマニズムはやっかいなしろものだ。

私の本がどうだって言うんだ。あれは文学の本じゃない。じゃあ何かって? あれは人生の本さ、ありのままの姿の人生の本さ。人間の貧困が私を圧倒するんだ。物質の貧困だろうと精神の貧困だろうと。そりゃ、貧困はいつの時代にだってあった。だが昔は人間はそいつを神に捧げた、どんな神であろうと。今世界には数え切れないほどの貧乏人がいるけど、彼らの悲しみはどこへも行き場がないんだ。現代は、そものそもどうしようもない悲惨の時代なんだ。哀れなことだ。人間は何もかも、自分に対する信念さえも剥ぎ取られて、素っ裸なんだ。それさ、私の本ってのは。<…>
文学なんぞ、人々をへしつけている貧困の前ではどうでもいいことさ。連中はみんな憎みあっているんだ……連中が愛し合うことさえできたら!


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』−訳者解説−より

セリーヌの愛情は、下級階層、貧しき人々の声なき声を拾うことに注がれた。
だから、『なしくずしの死』が発表された当時、セリーヌと対立していたモスクワの左翼ジャーナリスト・ピエール=シーズでさえ、大賛辞を送ったのだ。

<…>この驚くべき嘆声、この底知れぬ呻き、抑えがたく響きわたり、ページを追ってますます高鳴りゆくこの絶望の叫び、これこそは今まさに人類が発している赤裸々な叫びそのものである。<…>
セリーヌを嫌うものは誰か? おお! 私は連中のことなら百も承知だ、一人残らず。それはこの人生の一切を容認し、何事にも逆らわず、あらゆる卑劣と妥協し、あらゆる不正に目を塞ぐ、あの数え切れない愚者の郡だ!−−おとなしく、諦めきった、生ぬるい連中−−あの神にも唾棄される連中だ!−−満ち足りた、おめでたい、何不足ない連中だ。<…>
セリーヌは、彼は何物をも容認せず、抗い、反対し、罵り、怒号する種族である。<…>
怒りを爆発させ、破城槌のように叩きつけるこの狂憤の書、われわれは到底その輪郭を測り知ることもできないだろう。地獄とは希望の剥奪のことであるというのが本当なら、これこそは悪魔の書である。これは人生の提起するあらゆる問いに対して浴びせられた大いなる≪否ノン!≫だ。<…>
セリーヌよ、あなたは今こそ欲するままに語り、行動するがいい、あなたは人類の絶望に声を与えたのだ。もはや黙することのない声を。<…>
あなたがわれわれの努力をいかに非難しようとも私ははっきり言っておこう、≪あなたはわれわれのこの仕事を助けることになるのだ≫と。


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』−訳者解説−より

えらいかっこいい文章です。

批評家アンドレ・ルソーは「この卑猥な叙事詩はフランス語ではない、俗語で書かれている」と評し、セリーヌはこう答えました。

なぜ私がこんなに≪卑語≫を、俗語表現を使うか、なぜ自分でもそれを作り出すかと言うと、それは、この言葉がすぐに死ぬからだ、ということは、この言葉が生きたからだ、私が使っている限り、この言葉は生きているからだ。言葉も、万物の例に漏れずいつかは死ぬ。これは致し方のないことだ。普通の小説の言葉は死んでいる。文体も、何もかも死んでいる。私の言葉や文体も多分遠からず死ぬだろう。だがその時、私のは他の凡百の言葉より幾分の利点を持つことになるだろう。それはこの言葉が、一年でも、一月でも、一日でも生きたということだ。


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』−訳者解説−より

世間の俗語表現を基調にし、正確な意味伝達の限界まで(時にはそれを超えて)文章語を破壊することで、セリーヌは俗語たちに魂を吹き込んだ。

しかし、そうした「魂」は、彼の文章が「瞬間の美学」であるように、一瞬にして死にたえる。

だから中上建次は彼の文学を「美しい」と評したのだ。
しかし、そうは言っても、罵りと怒りに満ちていることに変わりはない。「ある種の人々」には受け入れがたいものかもしれない。

「ある種の人々」とは誰か。
セリーヌが憎み罵倒する相手とはいったい誰か。

先ほどのピエール=シーズの言葉にもあったように「人生の一切を容認し、何事にも逆らわず、あらゆる卑劣と妥協し、あらゆる不正に目を塞ぐ、−−おとなしく、諦めきった、生ぬるい連中−−満ち足りた、おめでたい、何不足ない連中」に違いなく、蓮實重彦が「セリーヌを読んでも、村上春樹の小説が好きな人は自分が愚かであることを知るべきだ」と言っていたように、そういう人も含まれていると思う。

春樹の文学に充足している読者は、セリーヌの怒りを真に理解できないと思うから。
春樹ファンを攻撃するつもりではなく、自分の経験から述べて、春樹を好きだった頃にセリーヌに出会っても、今ほど感動しなかったと分かるから。

だから、そうなってしまうであろうことが予想される人に、セリーヌの小説は勧めない。面白くないだろうし、恐ろしいほど長いので(上下あわせて800P)挫折してしまうだろう。彼の文学は決して万人向けではないから。

さて、内容に関しては、主に引用で紹介していくことにします。
というか、訳がいいんだ、マジで。
あと、作中の「……」はセリーヌ特有の表現で、「絶句」と見なされているけど。あれです、「絶望した!」……!
原文をみると「...」で表現されていますが。

ストーリーはないに等しいと先ほど書いたとおりで、セリーヌ似非自伝小説の体裁をとっているだけです。
粗筋と言えば、日常的に暴力を振るう父親と、信じられないほど不幸な母親の間に生まれたフェルディナン。
家庭はどん底に貧乏であり、貧しい為に、フェルディナン少年は若い頃から働き始めますが、行く先々でトラブルを起こし、忌み嫌われ、首になり、貧乏神状態。
本人もダメ人間っぷりを忌憚なく発揮してます。
そんなフェルに両親は怒り心頭、絶縁の危機に晒されるが、親切な叔父のすすめで、イギリスに留学します。ところがここでも、まったく勉強をしないで遊んでばかりいて、英語を覚えることもなくフランスに帰国する。−−ここまでが上巻。

下巻では、インチキ博士の助手となり、その博士が自殺するまでが描かれています。
下巻は博士とその周囲のエピソードになるので、上巻のテンポに比べると冗長な感じを受けますが、これを超えれば、言葉を失うほどの圧巻のラストに到達できます。

では最初に、貧乏な幼少時代のエピソードを引用。
このシーンがとても好きなんだ。

祖母は顧客を待っているあいだにぼくが少しでも気晴らしができるようにと犬を一匹買った。ぼくはこいつに父みたいな仕打ちをしてやりたいと思った。あたりに人がいないときにぼくはこいつにしたたかな足蹴りをくらわせた。犬は椅子の下にもぐりこんでうめいていた。そして腹ばいになって許しをこうた。ぼくとまるでおなじだった。
そいつは、犬を打つのは楽しかあなかった、抱いてやるほうがまだよかった。しまいにはこいつを撫で回してやるようになった。


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』より

次は夢の場面。仲良くなったガールフレンドのミレーユとデートしているのですが、そのうち彼女に腹をたてはじめるというシーン。

夢をこのような描写で書けるのは、後にも先にもセリーヌだけだと思う。
ちなみに、この部分は小説のトーンや世界観を実によくあらわしている。これが面白いと思えた方は、手を出してみてはいかがでしょう。

≪がんばれ、フェルディナン!≫みんながおれをけしかける。大変な騒ぎだ……森中に響きわたる。≪やれ! 殴れ、そのあばずれを! こてんぱんにのしちまえ!≫連中が刺激するのでいや応なくおれは獰猛になった。
ミレーユは金切り声をあげて逃げだす。そこでこっちも追いかけて夢中で走る。靴の先でけつっぺたを思うさま蹴っとばす。鈍い音がする。ラヌグール公園にはまだ助平どもがうようよいて、こいつらが行く手でめえめえのサオを振りかざし、後からもどんどん追っかけて来た……
芝生の上は人であふれ、大通りもゴマンの人波だった。それでもまだ続々と暗闇の中から新手が現れた……女どもの服はビリビリに破れて、丸出しのオッパイが揺れていた……アンチャンたちはズボンもはいていなかった……この連中が取っ組み合い、踏みつけあい、投げ飛ばしあった……木に引っかかった奴らもいた……毀れた椅子の破片と一緒に……小型自動車に乗った一人のイギリス人婆あが窓から思い切り首を突き出しておれの邪魔になるほどすぐ前を走った。こんな嬉しそうに輝いた目は見たことがなかった……≪フレー! フレー! 色男!≫婆あは夢中になっておれに叫んだ……≪フレー! あいつのオマンコをパンクさせちゃえ! 空へ吹っ飛ばしちゃえ! 息の根を止めちまえ! クリスチャン・サイエンス万歳!≫
おれはいっそうスピードを出した。婆あの車より早く走った。全力を振り絞った。ぼたぼた汗が流れ落ちた!
突進しながらおれは勤めのことを考えた……もうこりゃどうしたってクビだ。おれは怖気づいた。≪ミレーユ! 後生だ! 惚れてるよ! 待ってくれ。この雌豚め、聞いてんのか!≫
凱旋門まで来ると、群集はメリーゴーランドみたいにいっせいに渦を巻き始めた。野次馬どもは残らずミレーユの後を追って来た。もうそこら中に屍体がころがっていた。生きている連中はペニスをむしり合っていた。例のイギリス婆あは自分の車を掴んで頭上で振りまわし始めた。フレー! フレー! 彼女は車をバスに投げつける。三列の武装騎馬警官が交通を遮断する。おれたちの勝利だ。ミレーユの服が飛び散る。イギリス婆あがミレーユのあばずれに飛びかかり、おっぱいを殴りつける。血が飛び散り、流れ、何もかも真っ赤だ。みんな地面に倒れ、もつれ合い、首を絞め合う。狂憤のるつぼ。


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』より

次は、イギリスに渡ったフェルディナンが、酒場で飲んだくれて酩酊するシーン。

ぼくは一人の浮浪者ともう一人腕に猫を抱えたげっぷばかりする男と一緒に店を出た。猫はぼくとそいつのあいだでニャーニャー鳴いた……もうあんまり歩けなかった……隣のバーへしけ込んだ……両開きの扉を身体で押して……壁際のベンチに座って、元気が戻るのを待った……まわりは飲んべえでいっぱいだ……店には女がたくさんいた……短い上着を着て羽根つきのベレーを被ったの、縁の固いかんかん帽をかぶったの……こいつらがみんな動物みたいにしゃべるのだ、大声で吠える、げっぷする……犬、虎、狼、虱……
その時ガラス越しに外を魚が通って行った……そいつがはっきり見えた……魚たちはゆっくり通って行った……ガラスの向こうを、上がったり下がったりしながら……いきなり光の中に現れて来たんだ……魚どもは口を開き、そこからぽっぽと小さな湯気を吐いていた……鯖が行く、鯉が行く……そっくり魚のにおいまでした。<略>
……気がつくとまた又通りにいる! ぼくはカラーを外す!……気持ちが悪くてやり切れない……暗闇の中を身体を引きずるようにして歩く。まだそれでも街頭が二つおぼろに見える……二つきりだ! 水が見える……ぴちゃぴちゃ小波が踊っているのが見える……ああ! 石段も見える。ぼくは一段一段そいつを降りる……手摺に身を支える。うんと気をつけて……水に足が触れる……膝をつく……吐いた……必死になって……良い気分だ……上のほうからスコールが降りかかる……ものすごいやつだ……まるまるの一食分だ……男が上体をかがめてるのが見える……げろだ……べっとりしたやつだ……立ち上がりたい! 糞! 立てない……ぼくはまた座り込んだ……すっかり浴びちまう! 仕方ない! 目の中に流れ込む始末だ……もうひと吐き……げぼーっ! 水が踊って見える……白く……黒く……やたらと寒い。震えが止まらない。おならが出る……もう吐けない……隅っこに寝そべった……。


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』より

とっつきにくい人にはとっつきにくい文体だと思いますが、何度もいうように俺はたまらなく好きです。一生ついていく。

で、こうした現実と幻想・幻覚がごっちゃになる描写セリーヌの得意とするところ。

さて、最後に下巻から引用。
下巻はインチキ博士のクレシアルとのエピソードがほとんどです。相変わらずしょうもないのですが、終盤では博士が突然、自殺します。

そこで800ページに及ぶ『なしくずしの死』は最大のカタストロフィーを迎え、ラストに向けて一気に加速していきます。
フェルディナンは自業自得に思える博士の不運の数々と、彼自身の手でケリをつけた人生を思い返して、今までになかったほど悲しみます。
この場面は切なく、重く暗く、主人公が何も考えていない貧乏神のノータリンなどではまったくなく、バカにしていたインチキ博士をどれだけ愛していたか、よく分かる感動的な場面にもなっています。

ぼくは空を見た……頭を上げると不快な気分がやわらいだ……空はえらく明るかった……こんなに澄んだ空を見たことがないように思った……夕方空は曇っていたのでそれはぼくを驚かした……あらゆる星が見分けられた……といってつまり、ほとんどすべての星が……ぼくはみんなその名前を知っていた!……彼が、あの自慢屋がその軌道といっしょに飽き飽きするほどぼくに言って聞かせたんだ!……それにしてもその気もなかったのにぼくが覚えているのはおかしな話だった……いやまったくの話……≪カニオープ≫と≪アンドロメダ≫……それはサン=ドニ通りにいた……向かいの屋根の真上に……その少し右手に≪御者座≫が≪天秤宮≫に目くばせしていた……ぼくはみんな分かった……<略>
……彼はあの天文気違いは、こんなにはっきりオリオンが見られたらどんなに喜んだことだろう……彼はいつもぶつぶつ言いながらそれを探していた……彼は≪小惑星の軌道≫についての手引書を出版し、それから≪アンチオペ星雲≫についても一章書いていた……こいつがパリで見られるなんてのはまったくの驚きだった……汚らしく濁った空で名高いこのパリで!……こんなときクレシアルがどんなに喜ぶか、ぼくには今でも聞こえるような気がした!……彼が長々としゃべり続けるのが……ぼくの脇で……ベンチに座って……
−−ほれ、あの震えているのが見えるかね?……あれは惑星じゃないんだよ……あれはごまかしの星だ!……<略>
……ぼくにはもう理性なんてなかった……脚は豚みたいに膨れあがっていた……それでもぼくは又歩いた……すると又一つベンチがあった……ぼくはぐったりとその背にもたれかかった……もうちっとも暖かくなかった……ぼくは彼がそこにいるような気がした……もたれの向こう側に、ぼくに背を向けて、おっさんが。ぼくは幻を見ていた……<略>
ぼくは彼がしゃべるのが聞きたかった……すっかりそれを思い出したかった……彼はぼくの前のアスファルトの上に立っていた!……≪フェルディナン! フェルディナン! 創意工夫の力こそが人間なのだ……道楽のことばかりいつも考えてちゃいかんぞ……≫彼は彼の決まり文句をすべて話してくれた……<略>
……そいつはぼくの頭に一杯になってぼくをさいなんでいた。ぼくは思い出に取っ付かれていた……ぼくは彼が、わが極道じいさんが死んじまったとはとても信じられなかった……<略>
彼はいた、ぼくのまん前に……ベンチの脇に……<略>


ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』より

この後も、フェルディナンは延々と悲しみに暮れ、ふさぎこみ、絶望のまま小説は幕を閉じます。

こうしたラストで思い出すのは高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)』ですが、実によくにているのだけれど(実際、参考にしているのではないか)、非にならないくらいセリーヌの方がいいです。

−−かくもくだらない人間の死がなぜ悲しむに価するのか?

この命題にセリーヌは全霊を持って回答した。
それが、この『なしくずしの死』という小説ではないか、と思います。

絶句……



<複> ルイ-フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』(単行本)★★★★★