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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

「恥の文化」こそ「恥じるべき文化」

またも最近話題になっているこのテーマ。


こちらの記事はかなり前のものだが、同じことをテーマにしている。

アニメとかドラマにおける「恥をかくシーン」がすごく苦手:ろぼ速VIP

キャラがすべってる姿がどうして見るに忍びないと思う人が一定数いるのか。自分には全然、理解も共有もできない話だったので、個々人の感情移入の問題かと最初こそ思ったが、恐らくそれ以上に日本人特有の「恥の文化」が影響してるだけじゃないのかと思った。

菊と刀 (講談社学術文庫)

菊と刀 (講談社学術文庫)

菊と刀』では日本人を支える精神を「恥の文化」として紹介している。

西欧文化は自律的な『罪の文化』であるとし日本文化は他律的な『恥の文化』であると定義した。
禁欲的で勤勉なイギリスのピューリタン清教徒)が植民して建国したアメリカ合衆国では、キリスト教文明圏に特有の『人間は生まれながらに罪深い』という「罪の文化」が根付いていた。


キリスト教文明圏に生きる西欧人の行動規律が『罪の文化』にあるとすれば、儒教文明圏に生きる日本人の行動規律は『恥の文化』にある。西欧人は神と一対一で向かい合って『内面的な罪悪感(罪を恐れる去勢不安)』によって自律的(自発的)に善悪を判断するが、日本人は社会(世間)の人々の視線を感じ取り『外面的な世間体(恥を恐れるプライド)』によって他律的(強制的)に善悪を判断する。日本人にとって最も重要なのは、自分がその行為を悪いと思うか否かではなく、社会生活を営む周囲の他者が『自分のことをどう評価しているか?自分のことを軽蔑したり批判していないか?』である。


日本の恥の文化集団主義の文化(村社会の論理)では、他人がどう判断(評価)するかによって自分の行動の是非を決められてしまう人が多く、日本人は恥辱を感じないで済むように世間体に強く配慮しながら自分の身の処し方を決めるのである。西欧の罪の文化個人主義の文化では、他人が自分をどう評価するかよりも、自分の良心や道徳観に照らしてどう判断するかが重視される。


ルース・ベネディクトは『日本人の矛盾した二面性』を象徴的に表現するために菊と刀というシンボルを選択したわけだが、『日本人は類例のないほど礼儀正しいが、同時に、この上なく不遜で尊大である』という風に日本人の二面性を文章化している。


[ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』]: Keyword Project+Psychology

キャラが恥をかかされる原因・理由は外的なものによって生じる。これに苦痛を覚えるのは、日本人は常に内的思考より外的反応を優先させるからで、本人の気持ち以上に周囲の反応が大事なのだ。『菊と刀』でもそれは見事に指摘されている。

引用させていただいた上記ブログでは、それを日本独自の文化として好意的に紹介しているが、むしろ『菊と刀』は「自身の判断よりも、他人の反応ばかり気にする。故に日本人は欧米諸国の個人主義が根付かず幼稚なままなのだ」と批判的だったように自分は記憶している。
自分が『菊と刀』を読んだのは10年ほど前だし、この辺の感想は読んだ人の受けとめ方次第なのでズレが生じるのは仕方ないかもしれない。

これと似た話で思いあたるのが、東京五輪開催決定の時もツイッターで「7年後もコミケにいるお前ら自身の心配しろ」といったツイートが回ってきたが、どうしてオタクは自虐が好きなのか。本当はそんな風に思ってもいなければ、7年後だろうと参加する気満々な連中が大半だ。しかしそれを堂々とアピールすれば、世間やマスコミから嘲られる。だから表向き自己卑下することで、社会に対し体裁を取り繕っているのだろう。

オタクであることを選んだのは、最終的に自分自身なのだから、もっと自信をもてばいい。世間から見れば確かに威張れるような趣味ではないかもしれない。しかし、そうした世間を尊重することにどれほどの価値があるというのか。

だがそれは『菊と刀』が指摘した「恥の文化」がある限り、世間的・社会的反応を最優先する日本人の精神性に問題があるだけで、個人主義であれば周囲からどう思われようと、自分の好きなものや主張・思想に誇りを持てるようになるだろう。

自分を卑下することは一番楽だ。先にいうことによって世間からの免罪符を得るわけだから。
しかし、オタクがそれをどこに向けて披露してるかと言えば大概同じオタク界隈であり、単なるオタク同士の自己確認程度にしか機能していない。