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映画のフレームと漫画のコマ

ここしばらくブログをさぼっていたわけですが、7月の末に発病当初と同じ症状が出てしまい、8月中はずっと体調が悪くて読書もできませんでした。9月に入ってからも体調が思わしくなく、現在も読書が再開できていません。


しかし、先日アンゲロプロスの『永遠と一日』と『霧の中の風景』を見ました。
アンゲロプロス大島渚とも交流があって、大島映画の大ファンとしても有名ですが。
だけど、一番好きな大島映画が『儀式』ってのはいただけないな。…駄作なのに。。


さて、アンゲロプロスの映画といえば、ロングの長回しがとても有名です。上記2作品も同様、ほとんどのシーンがロングショットの長まわしで、時に役者たちがやっと画面の中に捉えられるほど。


しかし、『永遠と一日』『霧の中の風景』ともに1度だけ、そう、たったの1度だけ役者同士のバストショットになるシーンがあるのです。


永遠と一日』では主人公の詩人アレクサンドロスアルバニアからの亡命者の少年を引きとめ、「行かないでくれ」と抱きあうシーン。
霧の中の風景』では主人公の少女ヴーラが旅先で出会った青年オレステスとの別れの時に抱きしめられ、慰められるシーン。


今まで決して近づくことのなかったカメラがそうした場面で登場人物たちに近づくことによって、驚くほどの感動をもたらします。
どうしてこうも人物のアップだけで感動できるのか。


アップにはそれだけの「力」があるからです。


さて、こうしたアップの底力、それは映画だけではありません。
漫画の世界でも同じことが言えます。
要するにアップを使うのは強調と同じ意味を持ちます。


それらの効力を無効化している漫画を、おいらは総じて評価しません。
特に少女漫画の一部に見られるアップの無意味な多用、あれらは本当に唾棄すべきものです。


漫画における「コマ」とはいったい何なのか------。


これはおいらが大学で映像を専攻していたための穿った考え方かもしれませんが、漫画のコマとは映画におけるカットだと思っています。
コマとはすなわちカメラです。


だから、おいらはコマから人物がはみ出ている漫画に違和感を覚えるし、自分では描きません。
もっと言えば、コマ単位ならともかく、ページ単位で読ませるような漫画は全てクソだと思っています。


こうした漫画が氾濫することは質の低下だと思っています。


別に漫画にアンゲロプロスのような芸術性を求めているわけではありません。漫画は漫画です。
しかしながら、漫画におけるコマの役割とその効果を軽視している漫画が多すぎることを指摘したいだけなのです。


強いて言うならばアップが無駄に多い漫画家はへたくそな漫画家といっていいでしょう。