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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

近代化せよ、と会長は言った

会長コピペでは、大変お騒がせしました。
改めて「カトゆー」さんと「ゴルゴ」さんのアクセス爆弾には驚かされました。


さて、最初にこのスレを見つけた時、あまりに面白いので既に他ブログで紹介されているだろうと思いましたが、どこも紹介していませんでした。
ですから、ここにのっけて会長の降臨をのんびり待とうという目論見でした。
会長の発言から察するに、「はてな」好きそうというか、うろうろしているタイプかなと思ったので。


しかし、予想以上の反響を呼んでしまい…すべて会長のおかげです。
いろいろなトラバやコメントを見て、この業界に噛んでいる人は少なからず現状のオタクコンテンツに「危機感」というか疑問や問題点を感じているのだなあと思いました。(そうじゃない人もいるようですが)


ほとぼりも冷めた頃ですし、のこのこと会長についてちょっと書いてみたいと思います。
オイラは「萌え絵描きとそのファンは死んだ方がいい」と思っているわけではなく、萌えの必要性は認める「萌え肯定論者」でもあるので、これから書くことはそこからちょっとシフトした、別の視点で思ったことを書いてみようと思います。


先ず最初に会長の発言を紹介したいと思った一番の動機は、「これぞ分かりやすいモダニストの典型だ!」と、思ったからです。
というのも、オイラの好きな作家や批評家は、ことごとくモダニストばかりで(定義されていませんが谷崎潤一郎河野多恵子柄谷行人中村光夫モダニストだと思います)、反面嫌いな奴は(誰とは言わないが)ポストモダンな人が多いのです。
どうしてポストモダンが嫌いなのかと言えば「これだけは譲れない、といった確固たる信念やこだわりが感じられない、もしくはまったく見えない」からなんですが。
モダニストはこの逆です)


モダンとはポストモダンと対極をなします。
前回エントリ<モダンとポストモダン>にあるように、ポストモダンが「『…であらねばならない』という思考から解放」したのであれば、モダンはその逆、つまり「…であらねばならない」という発想が根幹にあります。
分別をつけた価値観、それこそが「モダン」です。
ポストモダンは、東浩紀が『動物化するポストモダン』で指摘したとおり、今のオタクがその代表といえるでしょう。


東浩紀は、「日本は近代化しないままポストモダン的状況になった」と言います。条件反射でコンテンツを消費するオタクが増え、それを「動物化」と呼びました。
(そうした定義はオタクたちへの揶揄に思えるのですが、東浩紀は自らをポストモダンを認める立場とし、批判を曖昧にしています)


ポモとは「『…であらねばならない』からの解放」という通り「今までの芸術至上主義を否定し、何でも取り入れよう」といった運動でもありました。言ってみればプレモダン=古典主義へと回帰することでもあります。


というのは、ポストモダンの発祥の地である欧州では「芸術的権威」が確かに存在し、それに対するアンチテーゼとしてポストモダンは有効に思われたわけです。
そうした「芸術的権威」−−会長が例に出した「バンド・デシネ」は実に象徴的ですが、これこそ「芸術に権威ある」国でしか誕生できなかった文化だと思います。
< バンド・デシネ - Wikipedia >
< タダでオンラインでメビウスの作品を読むためのリンク集 : メビウス・ラビリンス >


ポストモダンは「『…であらねばならない』から解放され、多様な価値観を広く認める」ことですが、これはオタク誕生にも一役買ったと言えます。
オタク第一世代は、ポストモダン的着眼点から「オタクの価値観」を確立しました。


80年代、オタク第一世代の頃は、企業の商品にオタクが「新たな価値観」を見出し、流行する流れが主流だったように思います。(高橋留美子や、キャプ翼とか)
しかし現代は(90年から00年以降)企業がオタクに擦り寄った商品を濫造しています。
オタクたちは、もともと村社会依存型体質なので「みんな同じがみんな幸せ」といった手段を選択し、結果、それが今の「萌え隆盛」を後押ししたのでしょう。


オタク第一世代にあたる岡田斗司夫はこうした逆転現象を予想していなかったのかもしれません。
マイノリティーがマジョリティーを食う、確かにそれはユートピアだった…
しかし、今の状況は「悪貨が良貨を駆逐している」ようにしか見えない。
そこで岡田斗司夫は、第一世代の作り出した功罪を葬ろうとしたのか、「オタク・イズ・デッド」を宣言しました。


ですが、ここで大きな疑問にぶち当たります。
そもそも第一世代にとっての「オタク的価値観」とは「ハイカルチャーの権威」に対するアンチテーゼであり、非常にポストモダン的なものと言えました。
そして、現在その状況が一転し、ハイカルチャーが失墜した。
それを受けて「第三世代がかわいそう」と岡田斗司夫は言いますが、バンド・デシネのような「芸術漫画」の誕生の萌芽さえ感じられぬこの国に、そもそも欧州のような「ハイカルチャーの権威」などあったのでしょうか。


ポストモダン論者は「前衛が先頭に立って芸術のシーンを変えてゆくという思考は破綻している」と言うが、それを言うポストモダン的な価値の多様化も、権威としてのモダニズム及び芸術が破綻した時点で破産しているのである。


そんな時、オタクの集落に殴り込みをかけたのが筋金入りの近代主義オタク=「モダニスト」会長でした。

159:82:2006/07/18(火)23:46:56
あと、仮に萌え絵が動物的だとしても、それに重きを置くことへの批判を「知性の敗北としか思えない」で説明するのでは不十分だと思う。
知的・理性的人間像が普遍的・客観的な人間の基準であるわけじゃないし、むしろ理性万能主義や啓蒙主義的人間観は19世紀以降さんざん批判されてる。
それを分かって言ってんのかどうかは分かんないけど、あんたの価値基準はあんまりにも初期近代的すぎやしません?

会長がモダニストであることを見抜けたのは「82」だけでした。
ところが、「82」のいう
>むしろ理性万能主義や啓蒙主義的人間観は19世紀以降さんざん批判されてる。
というのは近代化を遂げた欧州こそ当てはまる状況であり(それによってポストモダンが誕生した)、日本は土壌も文化も違い何より近代化が達成されていないわけです。*1


ポストモダン」とはその名が示すとおり、「近代化」した後の話です。
日本が近代化していないのであれば、今の日本は「ポストモダン」状況ではなく「モダンの前=前近代=プレモダン」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか…といつも思っているんですが、それは置いといて。欧州にとって日本の文化が「ポストモダン的」に見えることは分かりますが、そもそも日本の文化は「アマチュア」でもプロになれる、端的に言えば「プロフェッショナリズム」に欠ける側面を持っています。



そうした「アマチュア」の典型的な表象としての萌え絵を愛する萌えオタとガチの「モダニスト」会長が対決しても、議論は平行線で、かみ合わないんじゃないかと思うのですが、無謀ながらも果敢に挑んだのが会長のすごいところだと思います。


で、会長の発言を超要約してしまえば「オタクの近代化」を呼びかけているだけではないでしょうか。

俺は影響を受けることそのものを否定してるわけでもないし唯一無二の独創性がなければ死ぬべきだ、とも言っていない。
だが、萌え絵と呼ばれるある種の絵柄共有理論になんの疑問も持たずただ売れるから、と言う理由でそこに居直るのは金になるからと言う理由で
環境汚染をすることを開き直る中国の企業のようなもの


エロ同人を垂れ流す情熱もクソもない単なる拝金主義者
そんな人間が勝利する世界になってはならない。
金を稼ぐことを否定してるのではないぞ。
優れた作品を作る人間が儲かる世界にするべきなのだ。
そしてそのためには、読者の目をもっと肥えさせる必要がある

オタクの近代化とは何か。
それはあらゆる意味で「プロ」になれということです。
それで食っているとか、そういう意味ではありません。
読者の「プロ」、絵描きの「プロ」。
誰の目から見ても、本物の「プロ」になれ。
そして、自分の好きなものに対する絶対的な自信と誇りを持てと。


今までに見てきたモダニストたちの主張はみな、この部分で一貫していました。
その意味において、「萌え絵」もすべてが否定されるものではない、と思います。
(ただし、オイラも都合よく解釈しているに過ぎないとは思うのですが)


しかし、会長のようなモダニストは、特に日本のような国では「排他主義」と誤解され「小うるさい教条主義者」にも見られるでしょう。
例えば今の柄谷行人が「キモイ教条主義」にされている向きがあるように。


近代化するということは、「なあなあ」では済ませない、一定の倫理を設けて対処する考えです。
そして、クリエイター的に「モダニスト」を目指すことは、大変厳しい修羅の道です。
ポストモダンが許容された背景には、こうしたモダニストの厳しさに嫌気がさしたというのも多分にあったでしょう。寛容に認めてしまった方が、生きていく上では楽ですし。
ですが、クリエイターが「楽な方楽な方へ」と選択したらどうなるか。当然ですが、つまらないものしか出てこなくなる。
いいものを作りたいのであれば、やはりそれなりの「厳しさ」が必要ではないのか。
今のオタク、いや多くの読者や描き手に欠けているのは、そうした「厳しさ」だと思います。


結局、ポストモダンの行き着く先が
>芸術という名の事業
でしかなくなってしまったように、今のオタクコンテンツは産業でしかなく、時代を超えて愛される作品が生まれにくい状況は事実として認めねばならない時期に来ていると思われます。


「派手でハッタリのある」ものだけが売れ、もてはやされる。
しかし、あっという間に廃れ、忘れ去られていく−−。
これはオタク第一世代が掲げた「新しい価値観」の本末転倒には違いないのです。


これらがおそらく、会長の言いたかったことの総論だと思います。(牽強付会ではありますが)


関係ないけど、会長を見て真っ先に思い出したのが、三島由紀夫でした。三島は素晴らしい批評眼と優れた審美眼の持ち主でしたが、小説は………でしたから、会長の作品も案外その可能性があるとかないとか思ったりします。


というより、会長が頑なに絵を晒さなかったのは、きっとプロの漫画家(兼同人作家)だからではないでしょうか。
絵を見れば誰か分かる程度の、知名度のある人ではないでしょうか。
だったら、晒すわけにはいかないでしょう。
……と考えると、もしかしたらどこかで既に会長の作品と出会っていたのかもしれない、と今は思ったりしています。

*1:ポストモダンも今では「相対主義」として批判されています