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押井守の都市へのフェティシズム

映画 アニメ

押井守大島渚は世間的に「鬼才」という異名で呼ばれることが多い。しかし、彼らのどの部分がどう「鬼才」であり、何を根拠に「鬼才」と呼ぶのか。

わが道を行く制作姿勢はたたえるべきだし、作品それ自体の独自性、独創性は抜きん出てるしすごいことは分かる。すごいことは分かるが、その魅力の根源が作品のどこに秘められているのか、それを語ろうとしたとき上手い言葉が出てこない。
であるから、その語りにくさも含めてひとくくりに「鬼才」という言葉で片付けられてきた作家でもある。

さて鬼才の代表選手・押井守である。

最初にここで採用する評論スタイルを書いておく。今はひよって見る影もない蓮實重彦だが、自分は彼にものすごく影響を受けている。特に彼の映画批評や文芸批評にはものすごく感化された。
そして、彼ら=鬼才と呼ばれる作家を解体する時に、蓮見の表層批評はとても役に立つ。今では表層批評は一世代前の古い批評のように思われているけれど、そんなことはなく、今でも十分に通用する批評方法であり、これこそが正当派な批評スタイルだと思っている。

表層批評は徹底して内容を排除する。ここでの「内容」とは「物語の意味する在り処」のことだ。
「作品」だけを見ろ。そこに描かれているもの以外のなにものも見るな、感じるな、探るな。
端的に言えばこれが表層批評だ。

しかし、昨今の評論スタイルのほとんどが「内容」重視になっている。内容重視とは、まさに表層批評の逆だと考えていい。
つまり「作品」の裏を見ろ。描かれてないものを見ろ、感じろ、探れ。
小説でいえば行間。映画であればスクリーンの裏側。漫画だったらコマとコマの間にある余白の枠とでも言えばいいか。
作者の意図や思想、社会背景を主体に論じるわけだが、何故これが主流になっているのか。理由は簡単。
その方が論じやすいからだ。それにこの方法なら評論側のスタンスや思想も表明しやすい。そのため読者とのコミュニケーションもとりやすくさせる。作品以外の話題へと話をもっていける。さらに評者は作品を利用しながら、自分の意見まで言えてしまう。

その点、表層批評は何かと損ではある。
作品を知らない人には評者の説明がまるで分からないし、映画なら絵、小説なら文体について論じるため読者は置いてきぼりにされる。評者は作品に沿ってしか意見を言わないし、自身の立場や思想を主張することもない。

だが論じる時、作品の表現それ自体はそれほど軽視されるべきものなのか。
それならば小説だったら文庫の裏表紙のあらすじだけで十分だ。
小説を読む「行為」そのものが、読んでいく過程−−ページをめくり、物語が紐解かれていくさま、文章を追うことで広がる臨場感−−を楽しむためのものではないのか。
映画も同様、「見る」行為そのものが、目の前の画面に繰り広げられる映像体験を楽しむためのものではないのか。
優れた映画監督たちが、何故たったワンシーンのために、ワンカットのために砕身するのか。

その思いを汲めば、作家が望んでいることは「作品」それ自体を論じてもらうことに他ならない。誰かの意見を代弁するための道具として映画を撮っているに映画監督などほぼ存在しないだろう。
本来はそうあるべきだし、他人の主張の道具として利用され使い捨てられるようなことはあってはならない。
その意味で蓮實重彦の行った表層批評は作家の意向を最大限に汲みとる批評法でもあった。

山形浩生は『イノセンス』をこう評した。

深刻ぶってはいるが、テーマと結論に目新しさのカケラもないのでは?今更感がある

このような趣旨のことを言ったらしいが、これこそ内容しか見てない人の典型意見であり、パンフレットにあるあらすじを読んだだけでも言える感想だ。

押井が映画を作る際、最もこだわっている部分はストーリーやテーマなどではなく「絵作り」だけであり、だからこそ押井を嫌うオタクも多い。

そもそも押井はオタクなど鼻から相手にしてないし、オタクとは全く逆のベクトルを持った映画監督だ。
だが、彼の手がける作品の多くは原作がオタクにとって親和性の高い作品ばかりであり『うる星やつら』にしても『機動警察パトレイバー』にしても『攻殻機動隊』にしてもそうだ。そのような元ネタを扱いながら、オタクを相手にしてない作風に「自己顕示の為に原作を山車にしてる悪者」扱いされ、一部のオタクから反感を買っている。

しかし、「映画監督」であればそれで十分ではないか。押井守は「映画監督」であって「アニメ作家」ではない。
「絵作り」をしない映画監督などテレビドラマでも作ってればいいわけで、1秒24コマに砕身するのが映画監督たる所以である。
観衆のことばかり考えて「これは受けるかな?」とやっていたなら「世界の押井」は誕生しなかっただろう。

押井は一方で批判されながらも、歴代のアニメ監督に比べ遥かに血と汗の滲むような努力をしていると思う。
彼が「アニメ」に必死で与えたがっているものは「子供向けの大衆娯楽」から脱却した芸術としての「映画」として評価されること。アニメが「映画」として一人前に扱われることでしかない。
押井が相手にしているのは、世界の第一線で活躍する映画監督たちであり、映画作品なのだ。

仮に押井の挑戦が達成されれば、アニメは子供向けの娯楽の枠を超え、大人も楽しめる独創性溢れた作家色の強いアニメ作品が量産されるかもしれない。一般人もオタクも関係なくアニメ好きを公言できるようになるし、子供っぽい趣味だと嘲られることもなくなる。
大げさにいえば、押井が獲得しようとしている夢はそういう社会なのだ。

これには大変な努力と長い年月が要るだろう。そんな無謀すぎる夢は誰もが最初から諦め、挑もうとさえしない。それでも押井はこれからも、たった一人で「アニメ」が押し込められている社会的概念・通念に挑戦しつづけるだろう。
押井がハリウッドの監督や外国で、多くのリスペクトやファンを生んでいるのも、そうした姿勢が図らずも伝わり評価されているからだろう。

イノセンス』のDVDに収録されていたインタビューで、押井はカンヌに出品されたことについて「受賞を逃した時も『ああやっぱり』って思ったよ。カンヌでは『イノセンス』は『アニメ』としてしか見てもらえなかった。『アニメ』という枠を超えた『映画』として認めてもらえないんだなってひしひしと感じた。だから俺は嫌なんだ。みんなで満足できた作品を作ったのに、出品されることで値踏みされて、勝手な評価をされて、いろいろ言われるなんて……」と言っていた。

そして『イノセンス』の世評の大半が「CGによる情報過多」や「セリフが多い」といった意見が目立った。

「情報過多」の例として、映画の最初に登場するフルCGの街並を挙げる。あの映像は本当にマイナスな面しか見たものに与えなかったのか。
自分はオープニングすぐに俯瞰から臨む新市街や択捉がスクリーンいっぱいに広がった時、鳥肌が立ちました。
なんという「都市」に対する強烈なまでのフェティシズムだろう、と。
こんなフェティッシュな映像はまるで、酔え、体感しろと、見る者に命令してくるようだ、と----。

押井が「都市の風景」にこだわるのは、リアリズムへの異様なまでの執着であり、これはフィクションではなく、存在するかのように見せなくてはならない、その限界まで表現してやるという強烈な欲求であり、それはもう常識を越えたフェティシズムの域に達している。
押井のフェティシズムを「リアリズムへの限りない追究」であると理解できない人が見れば、単に「うるさい画面」にしか認識されないのはうなづける。
イノセンス』は都市のシーンだけでなく、随所でリアリズムに肉薄を試みており、画面の全てが押井のフェティシズムに彩られ、見ているものは悪酔いしそうになるほどだ。

こうした傾向は『イノセンス』だけではなく、以前から押井は都市や物体へのフェティシズムが顕著だった。
機動警察パトレイバー2 the Movie』でも、映画の主役はパトレイバー(特車二課)ではなく、都市の風景こそが主役ではないかと思えるほど、戦車や自衛隊が常駐する異風景と化した東京の街並やそこに静かに降り積もる雪の方が印象深い。
まるで夢のような風景の中に登場するキャラクターたちは遠方の長回しで捉えられるだけの存在と化し、風景の一部と同化している。
ここまでくるとキャラではなく風景を撮りたいのではないかと思えるほど映画は風景に依存していく。

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』でもオープニングで都市・廃墟へのフェティシズムが見られる。
最初に登場する廃墟と化した友引町。荒涼としたあの風景は肝心な本編を忘れても、脳裏に焼きついている人は多いのではないか。

風景へのフェティシズムだけを見ても押井はキャラクターたちに思い入れなど何もないかのように見えるかもしれない。
しかし、それは巧妙なパラドックスで、押井は登場人物たちの為に風景に固執するのだ。
登場人物たちが動き回る場所と世界だから、最上の舞台を用意することに砕身しているのではないか。そのせいで絵作りそのものが極端にフェティッシュなものになってしまったとしても彼はそのことに気付きさえしない。

こうした押井のリアリズムについて糸井重里鈴木敏夫プロデューサーが『ほぼ日刊イトイ新聞』で対談をしている。

映画は流れている時間をどうやってホンモノに感じさせるか、というものとして進化してきた、と言いました。
イノセンス』にも、そういうところがあります。


ただ、『イノセンス』から先は、もしかしたら、ホンモノを抜くことによって、ホンモノの人間の動きとは違うものを作って、しかし、それが新鮮に見えるというものを、目指すのかもしれないです。


ほぼ日刊イトイ新聞 - 六本木ヒルズ朝まで文化祭

押井が極度のリアリストであり(実在性のリアリズム、社会性とか現代風俗、時事問題、ありそうな話ではなく)、一般が理解するリアリズムの限界を超えていると鈴木氏は指摘する。


同時に、それは世界の「捏造」を拒む姿勢でもある。「捏造」とは「裏を見ろ。描かれてないものを見ろ、感じろ、探れ」という評論にのっかり、それに沿って作られたような作品のことだ。

押井は「描かれている絵」が映画であり、そこだけに命をかけている映画監督だ。押井の作品は山形浩生が言うような「テーマと結論に目新しさのカケラもない」のは当たり前だし、そもそも彼はそんなところに興味がない。(興味がないふりをしないのは押井の戦略だと思う。同じことが大島渚にも言える)
東浩紀の「最近の押井には以前にあった社会性がない」といった意見も同じで、押井は時代に要請されたものを作ることなど昔から興味がなかった。

テーマがよければいい映画だと言うなら、わざわざ映画を作るまでもなく、社会派ジャーナリストにでもなって、自分のスローガンを思いきり叫べばいい。映画を撮るといった面倒臭い選択など誰が好んでするものか。

それが理解できない以上は、押井の探究は誰にも理解されないままとなり、それはあまりにも不幸すぎる。