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このページを読む者に永遠の呪いあれ

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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

アンチ松尾

芥川賞直木賞候補作決まる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060105-00000007-jij-soci

工工エエエエ(´Д`)エエエエ工工
何か、最近の芥川賞ってホンマいい加減になってきているな。やめちゃえば。つか直木賞と合体すればいいのに…ってそんなことしたら純文学は死滅するか。
何か、文学フリマも開催地がアキバだったせいか参加者に聞いたら8割がラノベになったっていうし、純文学はまったく売れなかったらしいし、いや、売れないよ、だって(数人の作家と過去の遺産を残して、今の作家は)つまらねーしと、本当のことを言ってはいけないのだが。

芥川賞自体、文芸春秋社のごり押し企画なので、比較的『文学界』に掲載された作品は候補にあがりやすいんですが、その前に、松尾スズキに書かせてもなあ、いや小説書くのは勝手だけどさ、それを文芸誌に掲載して、だからどうよ売れたの? みたいな気がする。審査員が誰にもあげたい作家がいなくて、すったりもんだりの挙句は、編集者が「どうかたのんます、受賞作を1作決めてくさい!」と土下座したりするらしい。

まあ、とにかく、受賞するかしないかよりも選評を大変楽しみにしています。
オイラが一番好きな作家・河野多恵子が何を言うかが、本当に楽しみ。
舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』が候補に挙がったときも阿部和重が挙がったときも、他の作品については辛辣ながらも一言二言述べていたが、彼らの作品については一言も触れなかった。要はシカト。河野多恵子は「見なかったことにしよう」には徹底して何も言わない主義なので。
確か石原チンタロウ先生は舞城王太郎について「タイトルを見るだけで不愉快だ」と爆裂していた。一方で「ほしのこえ」を誉めてしまう迷走振りなので、単に「ほしのこえ」を誉めたのは、国粋主義思想を感じ取ったからだと思われる。お国のためなら人生を犠牲にしてもたたかうぞ、待っていてくれ、友よ家族よ恋人よというテーマね、確かにそれがあった。
ちなみに、河野多恵子松浦寿輝町田康もボロクソ。名文家の前では、小手先文体で押し出し寄りきりは通用しないんですねえ。しかし白岩玄の「野ブタ。」は誉めていた。「パワーを感じる」って、確か。

(ここから先は松尾スズキ信者は読まないことをオススメします。口悪いです。毒はいています)
ここで予想するに松尾スズキはシカトが最有力で、口を開いたらたぶん「社会風俗や現代を描写することに、どんな有益性があるのか」云々とか言いそうだなあと思う。分からないけど。予想だけど。
つか、オイラは押井粘着を批判できない立場で、松尾スズキについてはよく知らない上で嫌いです。
うーん、一部で猛烈に嫌われている村上隆みたいなものかな。位置としては。
そういえば、村上隆森チャックにも嫌われていたなあ。グルーミーに膝蹴りされたり、頭から食べられているドボちゃん見たいなあ。

役者として「だけ」の松尾スズキは評価しています。名優だと思います。つか、役者としてだけ活躍してほしい。頼むから口を開くな物書くな、って感じです。
どうして嫌いかというと、彼の仕掛けるコマーシャリズムを見ている限り、自分を「凡庸」であることを知っているが故にそれを隠蔽するために大げさな装置を用意して人目を引きたがっているようにしか見えんのですよ。虚飾家とでもいうか。村上ドラゴンなんかもそのうちに入ると思うけど、斜に構えていない分、松尾スズキよりマシですけど。

破戒

破戒

つーのも、オイラは『IKKI』に連載されていた山本直樹漫画の「破壊」つーのを読んで、心底むかついた。オイラは山本信者であることを否定しないが、最近はシニカルすぎて、どうにも鼻につく作品が増えてしまったのですが、それが100倍増しになって押し寄せてきた感じで、ついにオイラの鼻ももげましたわみたいな、読後感は最悪だった。
どちらの筆のせいでこうなってしまったのか分からないし、原作指示をどのように下していたのか、それとも共犯で片付けてしまっていいのかもしれないが、最初に言わせてもらうが、2人揃ってヴォネガットいい、と対談でのたまっておいて、こういう作品でいいのか? と心底疑った。

かいつまんで言うとだ、これは単なるストーカー漫画なのです。しかも、「絶望的なあまりに絶望的な」一方通行の恋と裏切り、そして殺人。ここにはヒューマニズムも思いやりも心の通い合いも、優しさも強さも一切ない。一切ないキャラクターしか登場しないし、一切ないままに物語はかくも無情に進行する。この世界に何かあるとすれば、それは殺伐と倦怠と諦めだ。
これは世界の表象か? 心の通い合いはないと断言することが現実ですか? 
否、「わざと」こうした世界を構築するところに松尾スズキの欺瞞性があると思うのです。

キャラについても如何せん魅力がない。ヒロインは「魔性の女」を気取っているが、「魔性」に「意味」が内在したら「魔性」じゃないんですけど。しかし、松尾スズキにかかると、どのキャラも「意味」に回収されていく。それが退屈で仕方がない。
ここでも、「わざと」意味に回収させていく手法をとる。これがオイラには虚飾に見えるのです。

それでいて、「これは純愛です」「『世界の中心で、愛をさけぶ』『いま、会いにゆきます』も超えました」って言っていて、アボガドバナナかと、頭おかしいのちゃうんか、と思いました。いや、一緒にヨイショしてる編集者も相当イタイと思いました。
別にね、オイラは『セカチュー』も『イマアイ』も擁護する気はないです。どうでもいいです。しかし、この漫画を、「純愛としか呼べない」と断言してしまう松尾スズキは、何かに憑かれていると言うか、真面目に言っていたら病気な臭いすらするんですよ。

ネガティヴな側面だけを切り取って世界を表象するやり方は、スポーツ新聞の3面記事が世界のすべてだと断言することと同じなわけで、それはいくらなんでも違うだろうと、世界がそんな簡単に片が付いたら人類はとっくに滅んでいますよと言いたくもなるわけです。だから、多分思っていない。思ってないのに、言ってみて悦に入っている感じがするんです。

とにかく、「人間なんてさ、所詮はア・ホ。熱くなってマジになって、だっせーんだよ、アホ。見苦しいな〜熱い、なんて、さー。結局、裏切って殺しあう、それこそが人。愛とか語るお前、熱くなって真剣なお前はアホ! 早く気付けよ、アホッッ! あ? でも、ぼくちゃんはぁー、アホじゃないからーんは、は、は …」みたいな…こーゆー人間観が果てしなく嫌だった。
それというのも、オイラは「自由」を獲得する為に必死な人をバカにする人が嫌いです。もがき苦しんでいる人間を嘲笑する人が嫌いです。何もしないで、闘うこともしないで、自分は絶対に傷つかない場所から「仕方がない」「諦めろ」「所詮、無理だよ」としたり顔でいう人が嫌いなのです。

そうした人々の生き様を他人が横から口挟んで、けなしたりする権利はないのです。
で、松尾信者もきっと「ぼくちゃんだけはぁー、アホじゃないからー?」って思っているんだろうな、と思う。じゃなくては信者やってられないでしょう。
あのな、そいつがアホか、バカか決めるのは本人じゃないんだよ。他人様なんだよ。

オイラだって他人をバカだアホだ思うことはあります。だけど、作者がそれを作品に描いてはいけない。しかも、真面目な人を嘲笑する作品は、許せないほど嫌いだ。
さらに、松尾スズキにはしたり顔で上から見下ろすような態度がにじみ出ていて、お前にだけはオルグされたくない、と思った。

で、松尾スズキの作品には「セックス」「バイオレンス」「ドラッグ」に「スプラッタ」「グロテスク」も当然、「トラウマ」「病気」「精神錯乱」といった「ココロ系」が登場する。こういう題材のローテーションだけで押し切る戦略はある意味うまいと思うよ。芸風でしかないけど。

つかさ、オイラが演劇嫌いになったのは最近の、特に若手演劇人(松尾スズキは若手じゃないけど)に感じる、演劇を「自己顕示の道具」みたいにしているところがあって、いつからこんな「自己愛の激しい連中の溜まり場」みたいになったんだということであり、他者に開かれたものを作ろうという気概がまったく感じられないからです。
内輪で強力な党派性をビシビシ感じるからです。左翼運動と何もかわらんわな。セクト主義なんですよ。分かる奴だけ分かればいい、分からないお前はバカだ、っつー…しかもその「分かる」「分からない」が、要するに「共感」「合意」でしかないわけで、共感したくないと拒否っているだけで「通じないバカ」にされるわけです。いい迷惑だ。

「ブァカ、所詮、創作表現なんて自己顕示の塊じゃん、私利利欲じゃん」と言われるだろうが、それ以外に何も感じないのですよ。感じるのは「押し付けがましい独我論」だけで、この閉塞感は「リスカ」に通じるものがある。もちろん、そこに観衆となる他者はいない。

それで、オイラは演劇ってもっと芸術性の高い普遍性のあるものだと思っているのだが、そゆのが垣間見えるのって大家ばかりで(蜷川とか唐十郎とか)、チェーホフもシェークスピアもベケットブレヒトも読んでいるだろうが、読んでいたとしたら、どうしてどうしてそうなるの? と思うほどに屈折していて、アンテナが真逆向いている。

つーかさ、病んだ現代風俗ネタ背負ってそれで見せるつーのは新しいですか。「世界は病んでいる」なんてフレーズ、使い古されたぼろ雑巾みたいなものですよ。3時のお茶の間ワイドショーのコメンテーターがいうセリフだよ。
そういうの取り上げる時点で向上心が低く見えるんですよ。

例えば、彼が地獄を見るような暗い過去を背負っていたとしても、同情しない。それと作品とは別個であるべきだし、それは言い訳にならない。水木しげるヴォネガットのような退役軍人作家は、現代作家には理解できないほどの深いトラウマを背負い込んでいるけど、彼らは決してそんな題材を扱わず、傑作を生み出している。

反面、こうした要素を使えば、ぶっちゃけ誰でもネタにしたがる、読みたがる、話になる。この時点で禁じ手なのよ、こういうテーマ。これを大西巨人が「俗情との結託」って呼びました。
こうしたネガティブな題材を提示すれば、大概の人は一定の想像をする。そうした想像(あるいは同情)に頼って、作品を構築していくことを「俗情との結託」いうんですよ。

しかもダサい。こういうのをカッコイイと思っているセンスがダサい。60年代を今に生きるヒッピーセンスというか、それが最先端と思っていそうな寒さというか、これって不戦勝を気取るサブカルくんに言えるけど、お山の大将というかね、「はい、注目ー」してほしいんだと思うんだけど、しねーよ、ペッ(唾棄)。
恋の門 スペシャル・エディション (通常版) [DVD]』も同じオタを使った『電車男』より壮大にこけたよーだし。『電車男』も好きじゃないけど、松尾スズキに比べれば、全然好感が持てる。そのくらいに、松尾スズキの作品世界は肌に合わないのです。

まあ、小説は読んでいないんで、ためしに読んでみて感想を書くことにします。他のブログさんなんか見るとみんな誉めているようですし。案外これがよかったりするかもしれないので。(いや、ないかな…)