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カラタニズム


希望の国のエクソダスカルバニズムとは関係ない。
念のため。


柄谷については今さらいうまでもなく、NAMの失敗から読者に白眼視されてしまっていますが、自分はそういうの無視して2000年以降の柄谷の仕事は評価しています。やっていることと書いていることを分離して評価しているわけですが。
と言うのも、批評空間社だって、編集長が死んだだけで解散させるなよ、とか思ってるし。本当に必要なら、意思を継いで続けるべきだとも思ったりもしたわけで。内部事情とかあるのでしょうが。


で、それは置いといて、今回読んだ本は、そのNAMとかいう、念仏か、みたいな謎のプロジェクトについての構想に至る経緯を、カントとかけてマルクスで説く、その心は「NAM」みたいな本だったりしたわけですが、この本自体にはNAMそのものは登場せず、提示にとどまっております。しかし、これまた400ページ超あり、大変時間がかかりました。
NAMについては今さら説明を申し上げるのもしんどいので、「NAM生成」より写真にある村上龍の本でも読んだほうが分かりやすいでしょう、くらいにとどめておきます。


第1部のカントの章はよかった。確信に満ちてるし、歴代の思想家を論破しまくってるし、カントをここまで擁護し、継承しようとする姿勢は圧巻であり、感動すら呼びます。もはや、柄谷の中ではヘーゲル弁証法も駄目だ、ということなのでしょうな。
で、この本の大半を占める第2部マルクス。ちなみに、オイラは経済学とか資本の話とか弱い。投資の仕方も知らないし。第1部に比べると冗長かも、と思いましたが書いてあることは刺激的で面白かったです。
しかし、NAMの理念は理想的なのだが、何故、これをやろうとしちゃったのかはやっぱり、理解できない。


何故なら、前述したように村上龍の本でNAMというものが何であるか、おおよそ知っていたわけで、この小説読んだときも、ちっとも希望など湧かなかったし、それは村上龍の小説力の問題というより、NAMを実践したユートピアが、デストピアに見えたのです。
なんつーか、筑波学園都市って、日本で一番住みやすく環境も良いところ、と言われているのに、自殺率が一番高い、という都市伝説が本当のように思えてきてしまったと言えばいいのか。
NAM自体、村上龍が噛んでいることで既に胡散臭いわけですけど。つーか、この小説のせいでNAMそのものが胡散臭くなっちゃったわけですけど。


まあ、長くなるので端折ろう。この問題については後ほど別の機会でまた触れることになると思います。
それより最近、浅田彰が「文学界」に芥川賞受賞作家のモブ・ノリオと柄谷の熊野大学での打ち上げのやりとりを書いていて、以下は2ちゃんねるの抜粋ですけど、これは面白かったので晒します。

柄谷「モブか。」
浅田「このあいだ文學界新人賞をとって、そのまま芥川賞をとった人ですよ。」
柄谷「ほんと? それはおめでとうございます。」
モブ「こんど掲載誌を送りますから。」
柄谷「いいけど、おれが読むと思うなよ!
モブ「えっ、読まはらへんのですか・・・」
つーか、笑ったのは、柄谷の本を1冊でも読んでいる読者で、今の「いっちゃってる」柄谷を知っていれば尚更、「読まねーYO!」と怒鳴られることくらい予想が付くはずなのに、いってはいけない、なのに言ってしまって怒鳴られちゃったモブ・ノリオの株、自分の中では上がりまくりました。

<複>柄谷行人トランスクリティーク ― カントとマルクス」(単行本)★★★★