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『ビューティフル・ドリーマー』に見るモラトリアムの終焉

アニメ 映画

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]

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押井守の映画は常に「恋愛」を正面から見据え描いているのではないかと思う。

それが初めて顕著になったのは『ビューティフル・ドリーマー』だが、『イノセンス』では「愛する人の不在」を描き、『スカイ・クロラ』では死ぬことさえできない「不変の少年少女たち」の恋愛を描いている。

押井の言動を見れば、すぐに分かることだが、彼は「成熟」を拒まないし、「若さ」を礼賛しない。押井が宮崎駿作品を「老人の妄想の産物」と批判した場合、宮崎アニメがいつまでたっても「恋愛」から逃げ続けていることを指しているのではないかと思う。その意味で、押井は徹底した「恋愛肯定論者」である。

しかし、ここでいう「恋愛」とは、男女の駆け引きごとではなく、「他者認識論」から「他者上位論」にいたる「絶対的他者」の存在を示すことについての一番分かりやすい手段として「恋愛」を用いているに過ぎない。

少し話題が逸れるが、近代までの哲学は独我論的命題が主流であった。しかし、「私」を取り巻く世界(あるいは環境)が「世界の全て」であり、目に映る「他者」は「私」によって取り込まれた情報の一部に過ぎない、という論は世界認識にいたるどころか、逆に自家撞着に陥り「絶対的他者」の存在を曇らせてゆくばかりだった。

かつて、偶然見つけた哲学サイトにこんな一文があった。

哲学は『私(自己)』についてはいくらでも教えてくれるのに、何故いつも思い巡らせてる『あの人(他者)』については一向に教えてくれないのだろう

この文章は、独我論の行き止まりを端的に示していると思う。

「他者認識」とは、自分と同等もしくはそれ以上の存在である「絶対的他者」を認めることである。独我論では、他者はすべて「自分のうちに取り込まれた存在」であったことに対し、「他者認識」の場合、いくら考えても相手(他者)の思考や気持ちを一向に理解できなくなる。
自分にとって「まったく理解できない存在」がいることを知った時、人は「絶対的他者」と邂逅し、初めておのれ以外の世界とおのれと同等に思考する存在がいることを認識するのである。

だからこそ、押井は他者認識の確立していない「自分こそが世界のすべてで、自分のことしか愛せない人間は幼稚で未熟だ」と断罪するのだ。自分と同等の存在=他者認識をすることで、人は初めて成熟すると言っていいだろう。

そこで、今回取り上げた『ビューティフル・ドリーマー』だが、今でもこの映画が『うる星やつら』の最終回と言われる所以や、映画の仕掛けについて簡単に考察してみたいと思う。

以前、押井が『うる星やつら』の仕事の依頼がきて、初めて原作を読んだ時の感想を述べていたことがあった。
押井は「『うる星やつら』は好きではない」と述べた後「結局これって、誰が見ても相思相愛な二人(あたるとラム)が互いを『好き』と認めないゲームをして遊んでるだけの漫画じゃないか」と。

その言葉を裏付けるための映画が、まさに『ビューティフル・ドリーマー』だった。

主要な男女キャラが「相手を好きだ」と認識し、それが発展した時にすべてが終わる。その時がくるまでの狂騒的なお祭り騒ぎ。

涼宮ハルヒ』シリーズを筆頭に、現在蔓延しているラノベや、それに付随する一連の作品は、こうした『うる星やつら』の構造を雛形とし、30年近く経った今も同じことを繰り返しつづけている。

うる星やつら』の模倣者たちは、『ビューティフル・ドリーマー』がそうした作品のアンチテーゼであることに自覚的なのか無自覚なのかわからないが、『涼宮ハルヒ』シリーズに関して言えば、『ビューティフル・ドリーマー』のスピリットを理解せぬまま、ギミックやトリックだけを借用し、焼き直しをしているようにしか見えない。

そして『ビューティフル・ドリーマー』とは、『うる星やつら』の持つ幻想を解体し、本質をあぶりだす作品に他ならなかった。
当時の高橋留美子が『ビューティフル・ドリーマー』を試写で見た直後、怒ったのも無理はない。

だが、そうした思惑にも関わらず『ビューティフル・ドリーマー』がわれわれを魅了してやまないのは、メインヒロインのラムちゃんの望んだ「みんなといつまでも仲良く、楽しく過ごしたい」という願いが、あまりにも美しく悲しすぎたからだ。
誰もが若い頃、一度は抱いたであろう「仲のよい友達といつまでも一緒に楽しく過ごせたらいいのに」という願いは、現実では決して叶うことのない夢なのだから。

しかし、夢邪鬼によって叶えられたラムちゃんの願いは「今、この時」を止めることに他ならなかった。主要メンバーたちは「ラムちゃんの夢の中」に閉じ込められるはめになった。

「昨日から今日へ」という当たり前の事象が捻じ曲がり、繰り返されつづける文化祭前夜−−−−時はループし、永遠に明日がこない友引町。
やがて町はどんどん廃墟と化し、仲間も一人減り、二人減り、いつの間にか消えていく。
時の止まった明日のこない世界。それはディストピアそのものだった。

そのことに気づいたあたるは、夢の世界から脱出しようともがきはじめる。
「辛い現実を生きるより、幸せな夢の中で生きる方がずっといい」という夢邪鬼の誘惑を跳ね除け、必死で「現実」へ戻ろうとする。
やがて『ビューティフル・ドリーマー』は『うる星やつら』のメタレベルにまで肉薄していく。
そして最後はあたる自身が、『うる星やつら』の本質を語ってしまうのだ。
「お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。…わかんねぇだろうな、お嬢ちゃんも、女だもんなぁ…」

夢邪鬼とのたたかいの末、何とか明日のくる現実へと帰還したあたるは、傍らで寝ていたラムちゃんが起きぬけに「とても楽しい夢を見た。みんなといつまでも仲良く過ごす幸せな夢だった」と語れば、「それは"夢"だよ」と返すのだ。

しかし、ここで視聴者は傍と思いとどまる。
あたるは本当に「時が進む」現実へ帰還できたのか?

エンディングで、校舎が3階建てのはずなのに2階建てになっていることは有名だが、これと同時にオープニングも思い出してほしい。
廃墟と化し、水に沈んだ友引町に、あたるがアホ面で呆然と立ち尽くしている。その周りを、ラムちゃんが楽しそうにジェットスキーで遊んでいる。
これは一体何を意味しているのか。

察するに、あたるは結局、現実へ戻ることなどできなかった。
そもそも『うる星やつら』も『ビューティフル・ドリーマー』もフィクションである。フィクションである以上、フィクション内でいくら「現実」を描いても、それはフィクションにしかならないのだ。
当然、あたるも「虚構の人物」だ。虚構の人物が、その虚構世界から抜け出すことなどできるはずがない。

つまり、オープニングで既に、夢と現実を行き来する『ビューティフル・ドリーマー』という作品は虚構であり、ここに「現実」はありませんよと、最初に宣言しているわけだ。

ビューティフル・ドリーマー』は一見、「現実」と「夢(虚構)」という二つの世界を行き来しているように見えても、どちらも地続きでしかないという巧妙に仕掛けられたパラドックスだったのだ。

つまり、押井は『うる星やつら』的世界観をおちょくるために『ビューティフル・ドリーマー』を撮ったのではない。
彼自身が『ビューティフル・ドリーマー』も虚構と認め、『うる星やつら』という虚構に上乗せしていることを認めているのだから。

これは、他の押井作品を見ればわかることだが、彼ほど「フィクション」の力を信じているクリエイターはいないだろう。押井自身が「フィクションが現実に劣るとは決して思わない」と発言していることからも、「フィクションが現実を超越する瞬間」を見事に捕らえ、映像化している監督は他にいないのだから。