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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

「敗者の美学」に酔ってるただの負け組

最近よく思うのだが、マンガを長く描けば描くほど、自分の理想とかけ離れてることに気づくことが多くなった。

「売れたら描きたいものを好きなだけ描かせてやる」的なことを編集者は新人漫画家に言うことが多いけれど、実際、描きたいものが「理想」である場合、そんなものは一生かかっても描けないんじゃないだろうかと思うのだ。

作風とは所詮、洋服と同じで、いくら上等なブランドものを着ても、他人から見た時、着てる人によって服の価値が変わってしまうように、作家も自分の身の丈にあったものしか描けないし、また描いてはならない。
ならないというより、どうせ描けないので、無理しても失敗するだけだという意味なわけだが。

漫画家の中には売れるようになったことで、デビュー時より自由な作風になっていく人もいるが、必ずしもそれは本人が望んでいた「理想」を描いているわけじゃなく、むしろ描けるものを描くようになっただけの話じゃないかと思ったりもする。
本当のところは作家本人にしか分からないわけだが。

ただ自分に限って言えば、若かった頃は目標とするもの、理想とする作品を、いくらでも描けるような気がしたし、自分はいくらでも自由で無限だ、といった誇大妄想と根拠なき自信に支えられていた気がする。しかし年を取ったせいか、今では「理想」には決して近づけないことばかりを実感するようになった。

むしろ今、描いているものは「理想」と逆な気がするし、そもそも目標としてる作風や作品が思いつかない。憧れの漫画家がいて、真似たくても、才能の限界や脳みその構造の違いを思い知らされるばかりで一歩も近づけないでいる。
とどのつまり、人は自分に見合った、できる範囲内のことしかできず、作家は己の限界を知ることにより、逆に作風を確立していくものなのかもしれない、と思ったりするのだ。

昔話になるが、自分は20代前半まで、とある漫画家の完璧なエピゴーネンだった。その漫画家の影武者になりたいと願い、作風や絵柄を徹底的に勉強し必死で真似て、コピー作家に成り果てた。その時はその状態に非常に満足していたし、自分は「自分」という作家にまるで興味がなく、とある漫画家を通して見てもらえることに存在意義を感じていた。
コピーやクローンが、オリジナルがあってこその存在価値しかなく、コピー自身がその状況にご満悦という状態だ。

そんな自分をみた友人が「とある漫画家を真似したいと思うような奇特な漫画家志望者なんて普通はいない。真似るならもっと別の人気のある漫画家を真似る」と言われたが、恐らく、とある漫画家が売れっ子ではなく、知る人ぞ知る的なカルト作家だったから、そんなことをぼやいたんじゃないかと思う。
実際、自分以外に影響を受けてると思しき漫画家にはついぞお目にかかった試しがない。

影武者作家となり、本人公認済みとはいえ、やがて模倣をやめ作風を変えていったわけだが、これにはいろいろと事情があったけれど、コピー作家だったことによるトラブルに巻き込まれたことも理由に関係している。こんな面倒くさいことに巻き込まれるくらいなら、いっそやめようみたいに思ったのと、長く真似てるうちに段々と飽きてきたというか、勉強しつくしてしまい十分だなって思い始めたのが岐路だった。

とある漫画家の模倣を始めたのは、もちろん作風に対する憧れが一番強かったわけだが、本当は単に「こういう漫画家になりたい」という立ち位置やスタンスに憧れていただけだったのじゃないかと、今にして思う。

そういう憧れが、今は完全に消え失せたかと言われれば、実はまだあって「所詮、自分には万人受けする作品なんて描けない。だったら一部の人に熱狂的に受け入れられるような描き手になりたい」。こうした夢は今も尚、捨てきれずにいる。

しかし実はこれ、裏を返せば人気者になれなかった奴の僻みのようなもので、どうあがいても多数派の人気者になれないのだから、せめて手に入りそうな範囲で夢を見させてくれという甘い考えでしかない。そう思うことでしか、自分の拠り所を見つけられなかったとも言える。

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

それに繋がる話として、今週の『TV.Bros』を読んでいたら、二村のインタビューが載っていた。
理論武装したカルチャーオタクは、普通では人気者になれなかった故に知識や情報を蓄積し、メジャーなものをバカにし、『敗者の美学』に酔い、そうすることで結論としては少数派の人気者になりたい、つまりは『モテ』たいだけだ」みたいなことを言っていた。

全部じゃないけど一理あるな、と思った。さっき書いた通り、自分は人気者にはなれなかった、世間的には負け組であり、だったらマイナー集団の中でだったら自分の場所を見つけられる、認めてもらえるかもしれないと思い、理論武装した経緯を、決して否定はしない。

しかし、いろいろな作品を見たり知っていくうちに、「モテ」とは全然別の場所に辿りついた。つまり、この世には相対的評価などまるで必要としない、絶対的価値のあるものが確かに存在している。自分は有象無象の中からそれらを選別し、的確に見抜いて評価していきたいと思うようになった。

故に、信者をたくさん抱える作品や作家から漂う、胡散臭さやペテンが鼻について仕方なくなった。真理や真実を追究した末、これらを徹底的に叩くことで、普遍的価値を守りたいと思ったわけだ。要するに、それらと相容れない作品を批判することによって、自分の愛する作品を守ろうとした。
そのせいで、信者殿が大挙して押し寄せ、荒らされた末が、今のこのブログだ。

しかし自分はメジャーなものの中に混じってる、下らない作品をこきおろしたことはあっても「メジャー」であることを理由に、それらをバカにしたことは一度もない。
マイナーカルチャーにも同じことが言えて、素晴らしい作品もあればクソみたいな作品もある。そこではメジャーだとかマイナーだとかは一切関係ない。下らなければ批判するだけのことだ。

そうなってくると最早、二村の言っていた「モテ」などといった理由は、どっかいってしまって、人気者どころか、むしろ嫌われ者になった。

冷やかしでこのブログにきて、誹謗中傷していく奴は、せいぜい鼻でもほじりながら「ブログ主は結局のところ『敗者の美学』に支えられているだけの負け組」とでも思って、笑って眺めてればいい。
どう思われようが今さら人の目なんて気にするような人間ではない。