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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

いわゆる欝作品と石原の小説との相似性について

※ハイクからの転載。

いい加減、性格が歪んでいるだけ、あるいは自意識過剰、あるいは自己愛、それ故に孤立しているキャラクターが、その性格ゆえに自ら不幸を呼び込み、そのせいで自暴自棄になり、暴走し、最後は破滅してエンドみたいな作品郡を「鬱展開」だの「毒がある」だのと、他の凡作とは違った特殊で崇高な作品だと持ち上げるのはやめるべきである。
こうした作品が退屈なのは、読者に対する作者の誘導があからさま過ぎるからだ。
わざわざ誘導しなければならないような展開を作ってしまうのは、読者を信用していない証拠だし、また見下しているからだ。
どうしてそうなるのかといえば、「自分以外の人間は、モブ程度でしかない」と内心思っているせいだろう。

サブカルチャー文学論

サブカルチャー文学論

その昔、大塚英志が『サブカルチャー文学論』の石原慎太郎の章で、石原の作品郡のほとんどが、そうした傾向を持った人物が主人公となり、暴挙とわがままを尽くすだけだと評していた。本人は退廃的で殺伐とした芸術()のつもりだろうが、平たく言えば、自分以外の人間に人格など存在しないと思い込んでいるに過ぎず、その癖、ものすごいマザコンの書いた甘ったれ小説に過ぎない、と断罪していた。

太陽の季節 (新潮文庫)

太陽の季節 (新潮文庫)

石原の小説とはまったくその通りで、前述した作風で信者に持ち上げられていい気になってるマンガ家なり作家どもは、忌み嫌っている石原の差別小説と作風が何ら変わらないことに気付くべきである。

つまり、こうした作品は本来なら中二病として片付けられるだけであり、その分別もつかずに無闇に持ち上げ「深い」などとほざく読者は、石原と同レベルと思っていいだろう。