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うみべの女の子<1>/浅野いにお

うみべの女の子 1 (F×COMICS)

うみべの女の子 1 (F×COMICS)

< 浅野いにおの漫画がムカつく理由、あるいは一つの自虐風自慢 「童貞だったあの頃に戻りたいよ・・・orz」 >
< アフィ速報 浅野いにおの漫画を薦めてくる奴とは絶対に友達になれない >

ネットで「浅野いにお」を検索すると、ヘイトサイトやアンチ意見がトップにくる。それらを読むと一様に、「リア充による捏造された憂鬱マンガ」みたいに書かれているわけだけど、どんだけ不愉快にさせてくれる漫画なのだろう、と試しに読んでみた。

と言っても、浅野いにおのマンガを読むのは2回目である。1度目は、ものすごく短編で、内容は忘れてしまった。特にこれといって何の感慨も抱かなかったように思う。

で本作なわけだが、まず思ったのは、キャラクターたちの己の実存に対する徹底した無関心と、内面のなさが印象に残った。
中学生という設定だが、彼らの言動や心情を見ていると、何も考えられない動物のようにも見えるし、逆に全てを達観してしまった老人のようにも見える。

そして、彼ら彼女らは何の信条も思想も持たない。
こう生きたいとか、こうなるべきだとか、そういった人生の目的や主義・主張が一切欠落しているのだ。

そう、それはただ「ぼんやりと生きているだけ」に過ぎない。
スタートもなければ、ゴールさえない。
当然「大いなる物語」は存在しない。物語という「装置」は消失している。

ヒロインが少年と寝たのは、意図があってのことではない。それはどこまで辿っても「なんとなくそうしたかっただけ」なのだ。
少年が最初、ヒロインの好きにしていいと言いながら、時が経つにつれ、彼女をうとましく思ったり、ぞんざいに扱ったりするのも、「なんとなくそうなってしまっただけ」なのだ。
ここにあるのは「なんとなく」といった未確定で、自己決定の存在しない世界だ。

自分の周りが世界の全てであり、「なんとなく」14年間生きつづけてしまった彼ら彼女らは、意味のない会話を繰り返し、その言葉たちは、ぼんやりと宙に漂うだけなのだ。

こうした事象の全てを無効化させ、「うつろ」へと変えてしまう手腕はそれなりにすごいと言わざるを得ない。
これを、時代の閉塞感がよく描かれている、と言ってしまうことはたやすいと思う。

しかし待って欲しい。過去のそうした作品郡----例えば初期の大江健三郎岡崎京子のマンガに登場する人物たちは、息が詰まりそうな世界で、それでも「あるかもしれない何か」を模索しながら、必死で生きようとしていたと思う。
ところが、浅野いにおのマンガは、あらかじめそれらを「諦めている」。

ではその世界観が、退廃に満ち、ニヒルでシニカルでスノッブで、上から目線の鼻につくものかといわれると、そうではない。じゃあ、スイーツ(笑)でオサレかと言われると、そうとも思わない。

オサレマンガとは、小物やファッションに、サブカルチャーへのすりよりが垣間見え、それが特権意識としてにじみ出ているものを言うのだ。
例えば、岡崎京子南Q太中村明日美子のマンガのような。
それに比べると、浅野のマンガにはそういったものはほぼ登場しないし、いたって標準だ。

先に作者自身の作中における自己顕示については、非常に消極的だと述べたわけだが、消極的だけれども、作品の中にところせましと空気のように偏在しているのを感じる。
そこで彼は完全なカメラになり、「なんとなく」「何も考えず」「無造作に」生きているだけの若者を、その風景を、並べて見せているのだ。

おそらく彼は、多くの人間が凡庸で無価値であることを知っている。
天才と呼ばれる人間は一握りしかいないこと、マンガを描くために生まれてきたような才能は数えるほどしかいないこと。
ところが、実際は星の数ほどクリエイターがいること。

その事実を彼は誰よりも分かっていて、自らが凡庸な作家の一人に過ぎないことを悟っているように見える。
凡庸な奴は凡庸なりにやってみますよ、といったところだろうか。
では実際、浅野氏のマンガは凡庸だろうか。

例えば、浅野いにおと比較されやすい山本直樹は、人々に向ける眼差しがどこまでも「悪意」に満ち、「意地悪」でしかなかった。榎本ナリコの自己憐憫と自己愛に満ちた世界は、作者の自尊心を満足させるためだけのオナニーでしかなかった。
この両者が胡散臭いメッセージをぶらさげて、アホ面晒してわかったことは、「私は特別」「私が神」というあまりにも陳腐な自己主張にすぎない。
それは通俗的でスポーツ新聞の3面記事と大差がない。

要するに、自分は特別だと信じ、特殊な才能を持っていると信じている作家のほうが、よっぽど凡庸だと、浅野いにおは逆説的に問いかけるのだ。

じゃあ、浅野氏のマンガはそれらと違ってずば抜けて優れた高尚な「芸術」かと問われたら、全力でノーと答える。

プレーンソング (中公文庫)

プレーンソング (中公文庫)

例えば、保坂和志という作家がいる。彼の小説は、その大半が何も起きないし、何も変わらない。読んだ後も「だから何」という気分になるだけだ。

ところが、だ。作家を目指す人のためのカルチャースクールに通っていた知人から聞いた話によると、そこに来ている作家志望者の中で保坂和志はダントツ人気なのだそうだ。そうなってしまった理由は簡単で、「これなら自分にも書けるだろう」と思わせてしまったからに違いない。
つまり、浅野いにおのマンガは保坂和志の小説と同じなのだ。

いかんせん、マンガという、技術が要求される分野だからこそ、亜流がわんさかとでてこないだけで、事実、若い世代には絶大な支持を受けていることを考えれば、彼の作品を愛している連中の顔も見えてくるというものだ。
確かに、彼のマンガには時代の空気を感じさせる何かがある。
しかし、ただ、それだけに過ぎない。

例えば、ファンタジーとか超能力とか、特殊能力が装備された世界観が大好きで、そうした類しか見ない、読まないというオタ友がいる。
その偏った思考は恋愛ものも排除する。どうしてか聞いてみたら、「現実など求めていない。どうしてうんざりするような「リアル」をフィクションの中にまで見せられなくてはいけないのだ」と言う。だから、市井の人々の日常を描いたような作品など論外なのだそうだ。
この意見には半分賛成で、半分反対だ。
何故なら、全ての作品は「ファンタジー」であり、「フィクション」であるからだ。
「セカチュー」のような恋愛ものも、剣と魔法のファンタジーもすべて同列のファンタジーであり、フィクションである。

それは浅野いにおのマンガにおいてもそうだ。
これこそ現実だと突きつける奴がいたら、いやいや、現実はこんなに単純なではないですよ、と切り返すだろう。
浅野いにおの世界もフィクションであり、フェイクであり、まがいものに過ぎないのだ。彼の作品世界は、結局は嘘でしかないのだ。
その場合において、浅野いにおのマンガはとても退屈なファンタジーであると言える。

つまり、おいらが常々作品に求めていることというのは、現実を超越する「理想」なのだ。ぶっちゃけ嘘でいいから、夢を見せて欲しいのだ。
現実へのあくなき挑戦を見せ、われわれの通俗的思考を超過する世界こそ、作品に求めているのだ。

結論を言うと、浅野いにおのような漫画家が一人くらいいてもいいと思う。だが、ここに安住してはダメだとも思う。
自分が果てしなく凡庸であることを知っているからこそ、努力している人をおいらは評価したい。

人間とは、それ単体では無価値に等しいけれど、努力次第で、どうにでも変われるし、どうにでも輝ける。どんな運命も変えられる、そう信じたいし、それこそが、「理想」なのだ。

最後に絵について。
実はこれと一緒に『素晴らしい世界』の1巻も購入した。

素晴らしい世界 (1) (サンデーGXコミックス)

素晴らしい世界 (1) (サンデーGXコミックス)

この時期と比べると、本作はより緻密にリアルな作画になっている。
風景など写真を使っているそうだが、まったくそうは見えないし、デジタル臭さもなく、その技術には唸らされた。

ただ、先に述べたように、彼の描くキャラクターたちはみな一様に死んだ魚のような目をしている。どこも見ていない、うつろな眼差しだ。
まあ、それが作品世界にあっていると言えばあっているわけではあるが。

あと、性描写もあるが、エロ漫画のそれのようなものでは一切ないし、むしろ禁欲的で抑圧されている印象を受けた。