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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

ヘルタースケルター/岡崎京子

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

かつて、自分がこれほどまでにうっとうしいと思った作家は岡崎京子以外にない。
そのくらい、彼女の作品が嫌いだった。

理由は簡単だ。
前記した榎本ナリコ然り、岡崎京子という人も、どこか自分の作品を社会の鏡のように利用している節があって、それが鼻についてしかたがなかったからだ。
しかし、それとは裏腹に90年代の岡崎京子は作品を描くごとに名声をあげ、遂には若者のオピニオンリーダー的存在になってしまった。

彼女の描く「どこにも行き場のない若者たち」の姿、いわゆる「終わりなき日常」をそれでも生きていかねばならないやり場のなさ、そういったものが作品に凝縮されていたのは確かである。

そうして彼女が作品に対し、時代の空気を取り入れ続け、遂には身を削るような作品しか生み出さなくなっていった矢先に、例の不幸が起きた。
誰もが承知していることなので、別段、特筆すべきことはない。
しかし、あまりにもあっけない幕切れだった。
まるで自分の作品と心中したかのような終わりだった。

岡崎京子不在の10年以上もの歳月の間に、漫画はどれだけ変わったのだろう。いや、結局、何も変えられなかったのではないだろうか。
『ロック・イズ・デッド』しかり、彼女の漫画で世の中は変わらなかった。
だが、少女漫画を変えたことは事実だ。
しかし結局のところ、それは少女漫画のオサレ化(いわゆる「スイーツ(笑)」な漫画)、あるいはティーンズラブといったエロジャンルを生み出すといった形でしか受け継がれなかったような気がする。残念なことに。

例えば、『pink』ではお金のためにデリヘルをする少女がポップに描かれていた。『東京ガールズ・ブラボー』では都会っ子の日常を風俗情報誌を見せるかのように紹介した。その岡崎が、90年以降向かったテーマはたあまりにも重くシリアスなものばかりだった。
リバーズ・エッジ』は幕の内弁当的な印象しか残らなかった。あれもこれもと社会問題を詰め込みすぎた挙句、結局とっ散らかってしまっただけで、一つの問題を深く掘り下げるまでに至らなかったという印象が強かった。

では本作はどうだろう。これは彼女が事故に遭う直前まで描かれ、しかし長らく出版されていなかった。

評価も、岡崎の今までの評価を裏切るものではなかったし、大まかなストーリーを知った上で、ああやっぱりそういう話を描いたか、という感慨しか残らなかった。

美容整形を全身に施したヒロインが富と名声を手に入れ、しかし造られただけのはりぼてに過ぎない美は、徐々に崩れ、失墜していくというのが大まかなあらすじである、
それと横軸にして語られるのは、ヒロインが手術を受けた美容整形外科を巡るサスペンス。後遺症に苦しむ患者たちから、事件の謎を追求する警察の姿が描かれている。

実際読んでみたら、驚くほど予想通りの展開に面食らったほどだ。読者はこの漫画の数ページ目で、既にヒロインの行く末を予想するだろう。出だしで、ヒロインの行く末は暗示されているといっていい。よって、話が進むに連れ、彼女に降りかかるトラブルは全てお約束なできごとであり、彼女が破滅に向かっていくさまも読者の期待をなんら裏切ることはない。

だが、この作品の特筆すべきは、「ジェットコースターのごとく奈落の底に転落するヒロインの物語」ではない。
ヒロインの表情だ。鬼気迫る形相だ。常に苛立ち、憔悴し、疲労し、憤怒する表情のすさまじさ。ここにこそ、この作品の白眉がある。
彼女はこれから自分の身に降りかかるであろう挫折、手に入れた何もかもが失われ、タイムリミットを迎えるであろうことをあらかじめ知っている。自分が所詮は消費される運命であることも知っている。
だからこそ、彼女はあせり、苛立つ。逃れられない運命から目を逸らし、もがき続けるヒロインの姿は全編に渡って描かれている。しかし、彼女は物事の全てにおいて、自らを破滅へと導くことしか出来ない。だからこそ、余計に苛立つ。
この辺の巧みなまでのストーリーテリング、いや、あくまで彼女を苦しませる方法しか取捨選択しない岡崎の徹底ぶりは一体どこからくるのだろう。

本当だったら、もっとうまく幸せになれる道はいくらでもあるだろうに、それをわざわざ選ばせず、不幸な道のみを邁進させる岡崎の姿は、それが作家の使命といわんばかりだ。

その意味において、岡崎が本作について述べた「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ちかたというものを」という言葉は的確である。

しかし、この作品がヒロインの失踪で幕を閉じていたら、感想を書こうとは思わなかっただろう。
動機を与えたのは、ラストに集約されている。

ラストはこうだ。
ヒロインが片目を残して失踪し、その数年後、南アメリカ見世物小屋で、ヒロインらしき女性が舞台に立っている。
自分の醜い姿を晒して、それをエンターティメントにして、彼女は見事に復活を遂げていた。
ジ・エンド。

ラスト1ページに行き着いたとき、心が震える思いがした。
これだ、まさにこれを待っていたのだ。
つまり、これは破滅と再生の物語だったのだ。
彼女の人生が悲惨なままであることには違いない。しかし、彼女はその不幸さ、惨めさを逆手にとって逞しく生きているのである。

岡崎京子が追求したテーマはその道を決して間違ってはいなかった。
彼女はこれだけの素晴らしい仕事を残したのだ。
岡崎京子の存在意義は----当時は理解しようとすらしなかったが----『ヘルタースケルター』を読む限り、彼女の仕事は漫画界において尊い財産をもたらしたことを示した。

岡崎の近況を聞くところによると、事故直後に比べるとだいぶ回復しているらしい。一日も早く女王・岡崎京子の再生と復活を願ってやまない。