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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

センチメントの季節/榎本ナリコ

漫画

センチメントの季節 (1) (Big spirits comics special)

センチメントの季節 (1) (Big spirits comics special)

ブログを開設してから8年になるが、この漫画についてはいつか語ろうとずっと思っていた。


それほど、言わなくてはいけないことがあるのだ、この作品には。


そういえば、かつて、『なんとかうどん』とかいう喪女の書いているはてダがあって(今もあるかもしれないが)、その日記に「彼氏が『センチメントの季節』を読んで声を立てて笑っていた。私はこの人とは一緒にいられないと思った」みたいな日記を書いていたが、彼氏の反応は実に正常であり、むしろこの喪女の方が痛いと思った。


さらに遡ると、連載されていた当時、おいらの周りの友人たちからは、すこぶる評判が悪かった。あんまり悪いので試しに読んでみたのが最初だ。
読んでから、「ああ、この漫画家は悪徳編集者にそそのかされて、思ってもいないことを描かされてしまったんだろうな、かわいそうに」と思い、あとがきを読んだら、「私はすごく真面目に真剣に描いている。ここに描かれていることは私の魂である」みたいなことが書いてあって、速攻、古本屋に持っていった。


『センチメント〜』は言ってしまえば、ポストエヴァであり、絵もまんま貞本のパクリという漫画でしかない。
しかも、エヴァの悪いところだけそっくりそのまま受け継いでる。
ここに描かれていることは全部でたらめ、捏造であり、その捏造を真実のように仕向けるという非常にたちの悪い代物である。


榎本ナリコはもともと野火ノビタというPNで富樫の2次創作をやりつつ、評論活動みたいなこともしていたみたいだが、『センチメント〜』のあとがきを読む限りでは、ろくな評論を書いていなかったと思われる。
大体、エヴァの忌まわしき前劇場版について「理解はしないが共感はする」と言っていたらしいし。はぁ、逆じゃねーの。「理解はするが共感はしない」の間違いだろ!


当時はエヴァの評論を庵野に褒められたりして交流していた時期もあったみたいだけど、あの頃の庵野は病んでたから、うっかり近づいちゃったのかもしれないが、賢明だったよ、こんな喪女と決別して。『監督不行届』を読んでも思ったけど、安野モヨコと結婚して、本当によかったと思います。


おっと話がそれた。
しかし、『センチメント〜』に描かれていることを真に受け、共感したりする厨坊を大量生産した功罪は大きい。
洗脳とでもいえばいいのか。要するに、物事を一側面からしか捉えず、またその側面からしか世界を語らず、なのに、それが世界の総意であるかのようにふるまう。


つまり、なぜ友人達が批判したかといえば、大西巨人の『俗情との結託』をそのまま体現したような作品だったからである。
それと、男の描き方がある側面において一方的すぎる。乱暴だと言ってもいい。
男はみんなこうなのよ、そうなのよ、いやよね、という声が聞こえてくるんだ! そこかしこから!
おいらが唯一認めるサブカル誌『BUBKA』でも「こんなこと考えて援交している女子高生がいたら飛び蹴りを食らわしてやりたい」と書いてあったが、まさにその通り。


作者は女性だから、と言って庇うことも可能かもしれない。いやしかし、分からないながらも男性の心情を分かろうと、理解しようと努めている女性作家だってごろごろいるのだ。
ところが、榎本にはその努力がまるで見られない。むしろ開き直っている。しかもそれが芸風になっている。なんたることだろう。


ここに描かれている女子高生を繊細だとか言っちゃう愚か者どもは、恐らくこの作者がそうであるように熱狂的な「アイラブミー」、自己愛の典型だろう。
自己愛性人格障害の権化みたいな本谷有希子っつーアホが「恋愛なんてどうせエゴでしょ」と言っていたが、はいはい、自己愛の君はそう思っているだろうね、と思ったものだ。

恋愛とは自分以外の他者を認めること。愛する、とは相手を思いやることである。そこにエゴは介在しない。
あれほど自己主張をし続けていた自我がまったく消えてしまう不思議。
それが愛なのである。


こんな臭いこと改めて書きたくはなかった。がしかし、『センチメント〜』を解説する上では書かずにはいられない。
例えばマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』という小説に、主人公と同房になったゲイの男が好きな人とセックスできた時の感想を述べる場面がある。
「自分がなくなっていくみたいで本当に幸せだった」と。
つまり、この言葉に集約されるように恋愛とは自己より優位になる存在を認めることに他ならない。


その意味において、『センチメント〜』は徹底して、恋愛を委棄している。
残ったのは痛いほどの自己愛である。
要するに榎本ナリコと言う人は、人や作品を本気で愛したことがないのだろう。いや、疑似体験くらいはあるのかもしれないが、結局は「これを好きな私が好き」というアイラブミーに帰結していく、かわいそうな人だと思う。


簡単に要約すれば、『センチメントの季節』は徹頭徹尾通俗的なのである。タカハシマコのところでも書いたが、この作品に通底するイメージはスポーツ新聞の3面記事と大差がない。
セクシャルなものにたいするイメージの貧困さも、この作品を救いがたいものにしている。


一読すれば分かるが、この漫画はいわゆるヌキ漫画ではない。しかし、エロ漫画ではある。エロ漫画がセックスのマスイメージを利用した上で成り立っていることにおいて、セックスの持つマスイメージから脱出できないでいるこの作品は、結局エロ漫画にしかなれないのだ。


例えば、登場人物たちの心理を書き出していこう。
1巻の第1話『せんせい』では、教師と関係をもった女子生徒が言う。「わたしが好きになったのは先生だもの。先生だって同じでしょ。わたしが16で女子高生だから。わたし、卒業したらただの女になるのよ。今じゃなきゃダメよ」
第3話目『なつかしのメロディ』では、「わたしたちはフツーだった。何のとりえもなかった。だから、誰よりも早くセックスした。お互いの特別になるために」
4話目の『かくれ家』では「(妊娠してるって言ったのは)全部嘘だよ。そう言うとみんな同情して中絶費用とかくれるから。でも、どこかへ行きたかったのは本当」
6話目の『ラブ・イズ・ブラインド』では「シンちゃんが好き。話し方が好き。笑った顔が好き。ちょっとあきっぽいとこが好き。一緒にいるのが好き。大好き。----だから。シンちゃんの前で脚を開けない。そうしたらきっと、あたしはあなたが誰でもよくなる」
第7話の『眼鏡』では、男性キャラが「大体セックスもしたことないくせに-----お前ら、こういうこと知らないんだろ。じゃあ世界の半分を知らないってことだ。ざまあみろ」
第10話の『降り積む雪』では援交している女子高生が片思いしている中学生の男子生徒のキスの現場を目撃して言う。「彼がその子にキスしたの。子供っぽいキス。ぎこちないの。笑っちゃった。-----あんなキス、わたしにはもうできない」


どれもこれもでたらめだ。一つとして真理を突いた言葉などない。
とどのつまり、セックスしている人間は処女や童貞より世界を知っていて、知っているが故にイノセンスではない、と言っているのである。
これはセックスに対する完全な思考停止と言っていいだろう。
この浅はかさは、中二病の奴が考えてることと同じだ。
「セックスして傷ついているかわいそうなわたくし」を演じ、被害者面をするわけだ。
しかし、売春を自ずから進んでやっていて、合意の上でも、被害者面とは面の皮が厚いというか、自己中もはなはだしい。


不道徳的な言い方になるが、援交している女子高生たちは、誰から強制されているわけでもなく、進んでしている以上、それはビジネスとして行うべきであるし、ビジネスに徹するべきだ。与えられた任務を忠実にこなす。成果と報酬を得る。それだけのことだ。
そこで傷つきましたのなんだの、喚かれたらたまったものではない。
風俗で働くお姉ちゃんが、世を儚んで憂いてみました。
「あーあ、結局、男って身体だけが目当てなのねえ」と。


しかしセックスとは、そんなに単純なものではない。単純でないからこそ、人はそれに対し、思い悩む。確かに行為そのものは即物的であり動物的だ。だからこそ、最上級の求愛表現でもあるのだ。
数多の先人たち----作家や芸術家たち----が拘泥しながら模索しながら、性というものに向き合ってきた事実を、なかったかのようにしてしまう作者に同情すら覚える。


それと、生理的に嫌悪感を覚えるのが、この作品に登場する買春する中年のおっさんたちである。この漫画は誰も彼もが「社会の被害者面」をしているので、おっさんも同様、「イノセンスを失ったかわいそうな大人」として描かれている。
しかし、買春をする中年なんてろくな奴はいないし、それ自体、法で裁かれるわけだから、社会的悪でしかないのに、この作品では「かわいそうな人」として扱っているのだ。


アホか。
娘・息子と同い年の少女を買う奴に同情するような描き方はあってはならないし、仮に流通しているエロ漫画にそうした描き方があれば、痛罵すべきである。
鬼頭莫宏もそうだが、ペドフィリアを正当化するような作家には、そもそも倫理やモラルが欠けているのではないか。
こういう作家は「どうして人を殺してはいけないの?」と無邪気に言ってしまうのだろうし。


話が飛躍するが、人が人である以上、絶対に犯してはならない、尊厳を保つための禁忌は確実に存在する。
例えば、なぜ戦争帰りの兵士たちの自殺率が高いのか。
人を殺すことは同時に人としての尊厳をも失うからである。それに耐え切れず、自ら命を絶ってしまうのだ。


翻って言えば、ものを創造する作家は、作品に対する責任を負うこと同様に、モラルや倫理も兼ね備えていなければならない。しかし残念ながら、それらを持ち合わせている作家が恐ろしいほどに少ない。


おいらはとりあえず、この漫画は全8巻まで読んだ。4巻以降、1冊で1話という形式になっていたが、通して読んだ感想は、1巻だけ読んだ時とほぼ変わらなかった。


最後に、絵について言おう。
これは前から気になっていたのだが、榎本ナリコの描く人体は歪んでいる。姿勢が悪い。女も男もガニ股に見える。
こうした人体の歪みが、まんまストーリーに反映されている気もするので、「形式と内容の一致」はしていると言えるのかもしれない。


余談になるが、かつて、コミケ代表の故・米澤嘉博氏が手塚賞の選考委員の時、一人だけ『センチメントの季節』を推していた。ああ結局、このおっさんは漫画を愛しているようだけど倫理もモラルもなくて、結局は消費物として見ているんだろうなあ、と思った。
米澤氏については前々から思っていたことだけど、要するに2ちゃんの管理人となんら変わらないのだ。