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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

女の子は特別教/タカハシマコ

新装版 女の子は特別教

新装版 女の子は特別教

まず最初に、これだけは言っておくが、タカハシマコが好きだという男は気持ち悪い。
だったら、ヒカパンやうどんやが好きだと言うキモオタのほうがまだ健全というか、気もちがいい。


この本を読んで最初に思ったのは、これはいわゆる『快楽天』でいうところのYUG漫画だということ。要するに雑誌になぜかある、誰をターゲットにしているのかよく分からないショート漫画。


そもそもこの人は野火ノビタの相方で、801の描き手であり、ここに収録されている漫画は『メガストア』に連載されていたものらしいが、まず思ったのが、男性向けという畑でこの人には描きたいことなど何もなさそうだ、ということ。
いったいどういう経緯で連載されることになったのか分からないが、まったくと言っていいほど描きたいことが見えてこない。見えてこない、ということは結局いいたいことなど何もないのと同意だ。


絵について言えば、タカハシマコといわれてすぐに思い浮かべるのが正面の顔だ。この記憶は間違っていなくて、本書もとにかく正面のカットがものすごく多い。
目の大きさを見ると昨今の萌え絵とかわらないが、似て非なるもので、いわゆる萌え絵とはほど遠い。さっきも言ったが、この人は男性向け読者になど、いいたいことなど何もないのだ。


この目の大きさはむしろ少女漫画誌のそれに近い。漫画のタイプとしても『りぼん』『なかよし』などに代表される古典的な少女漫画だろう。ぶっちゃけキャラの描き分けも乏しく、はんこ絵だ。
そして首から下はものすごく脆弱だ。まるで虚弱体質のような身体をしている。腕も脚も同じ太さで描かれ、肉体性は皆無だ。この身体で何が出来るというのだ。
この漫画にも性描写はあるが、この絵で見せられても、ぶっちゃけ反応に困るというか、そもそもこの人は性描写を描くことに執着などあるのか。ないだろう。ないのに描いているのだ。これでは評価にも窮してしまう。


作者の漫画には「毒がある」といった言葉をよく耳にする。しかし、おいらは微塵も感じなかった。悪いけど、こういう漫画は毒があるとは言わない。
例えば、『ブレッドハーレーの馬車』の方が暗さや救いのなさはずっと上質で、よく出来ていると思うし、少女性を扱っている傑作で言えば楠本まきの『到死量ドーリス』のほうが遥かに優れていると思う。


では、毒がある、と評する諸氏はタカハシマコの何をもって毒がある、と評するのか。


例えば、こういう部分だろうか。
『動力の姫』の主人公いわく、「近所の8才の少女を●●してしまって何とか親戚一同で土下座して警察沙汰はまぬがれたのですが、その直後向かいの家のデブの少年を●●●●しちゃって」といったところだろうか。
これは単なる設定でしかない。漫画において、この設定はまるで機能していない。
「僕はカレーが好きです」と自己紹介することと大差がないのだ。


それとも『Pure Child』における売春をする純子という少女に向かって父親が「いつまでも子供じゃないのに『子』だなんて変だろ」といわれて、こっそりと泣く部分か。しかし、これもおいらには暗さには思えない。


これは『ブラッドハーレー』や『ドーリス』の持つ世界観の暗さや毒ではない。
スポーツ新聞の三面記事にある暗さでしかない。


もっと言えば、タカハシマコの描く少女とは社会に規範されただけにすぎない、仮の装置でしかない。社会があるからこそ存在できるのだ。それを本物の少女(ここでは純粋無垢なもの)とは呼べないだろう。
であるから、彼女たちが知らぬ間に成人男性にとっての性の対象物となり、いたずらされてしまうことに無自覚そうにふるまっても、それらは「少女という制度を知っているが上での立ち居振る舞い」でしかない。


むしろ、おいらが気になったのはこの漫画、いや、タカハシマコの漫画はすべてにおいていえるのではないかという事実。
それは、相手のことを考えることができないということだ。


要するに相手を思いやる気持ちがないのだ。
まるで他者には思考などないかのように、自己中心的でエゴの塊のようなキャラクターたちしかいないのだ。


例えば本書の『やさしくしてね。』という作品。
これは小学生の少女に恋した青年を少女が受け入れる話だが、条件として「優しくして欲しい」と少女はいう。
しかし、青年は彼女を乱暴に扱い、少女は怒る。
青年は言う。「君は優しくない。優しくない人に優しくなんてできないよ」と。


そしてタカハシマコはこの作品において答えを出さずに、質問を放り投げる。
答えを出さないということは要するに分からないのではないのか。
人間はエゴの塊でしょ、そうでしょ、相手の気持ちなんて思いやったりできない、ちっとも相手のことなんて分からない、そういう生き物でしょ、といって憚らないのだ。


例えば、マーガレットに掲載された『乙女座・スピカ・真珠星』においても、ヒロインは自分を好きになってくれた少年の気持ちを考えたりしない。あくまでも自分を中心に動き、世界はまるでヒロインを中心に回っているかのようだ。


こうしたタカハシマコの世界観のゆがみ、ある種の認知の欠如みたいなものが気になって仕方がないのだった。
最後に筆者を見かけたことがあるが、関取みたいなおばさんだったことをつけくわえておく。