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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』における機械論

映画 アニメ 転載

シネフィルの友人が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観て、「俺はダメでした」と否定的な見解を言っていた。
「旧作にあった学校・ミサトの部屋・駅等の風景とネルフ本部のバランスが好ましかったのであって、新作では全ての場所が巨大要塞都市の一部になってしまって、戦闘シーンと要塞都市の描写しかない」というのが彼の意見だ。
俺の意見は、「今回のエヴァンゲリオンはキャラを含めた作品全体が機械として機能するメカニズムの圧倒感が面白いので、旧作の感傷性を切り捨てたのは勇断だと思う。
旧作にあった曖昧な人間性(機械は生物の隠喩に近い)と結託させないために、登場人物全員がポジティブな機械になり切っている。この光景は感動的だと思う」というものです。

これは所謂、映画やアニメで表象された機械が、機械そのものではなく人間や生き物のメタファーに終わることが少なくないことからきている。
例えば宮崎駿のアニメに出てくる機械は、巨神兵から『天空の城ラピュタ』のラピュタ、『ハウルの動く城』のハウルの居城に至るまで、全て「機械だと思ったら、生き物だった!」である。
決してその逆では無い。
巨神兵など、コミック版『ナウシカ』の後半ではナウシカに付き従うし、召使い同然にコミュニケーションできる人間的な機械になってしまって、全く機械らしさが無い。
実は旧作の『エヴァンゲリオン』で表象された機械も宮崎駿タイプなので、エヴァンゲリオン自体がまず「機械だと思ったら、生き物だった!」であるし、ネルフ本部にウイルスとして侵入した使徒なども、コンピュータウイルスが比喩としてウイルスと称せられているのを一歩進めて本物のウイルス=生き物にしてしまった。さらにそれを迎撃したマギ・システムが赤城リツコの母親の人格に喩えられ、女性としての性質を表象していると語られると、このシステム自体が人間味を帯びてしまう。やはり旧作エヴァの機械は、「機械だと思ったら、生き物だった!」なのである。


ところで、機械とは果たして人間的・生き物的なものなのか?
そうではない。
機械が感傷と人間性を断つ瞬間を刻みつけたアニメが存在するのだ。押井守の『イノセンス』である。
この映画のすばらしさは、上記の宮崎駿=旧作エヴァとは逆に、「生き物だと思ったら、機械だった!」を実践している点にある。人間不在の都市で機械によって行われる祭礼の場面にその端的な成果を見ることができる。
押井守は、機械を湿った絆や曖昧な人間的共感と結託させないために、あえて孤独な運動体にしているのだ。その厳粛な表現は、東浩紀が言うような映像「美学」の範疇というより、倫理的な所産であると思う。


さて、新作のエヴァはどうなのか。今回の新劇場版は過去のエヴァンゲリオンとは別種の様相を呈している。
主人公の碇シンジは相変わらず泣き言をこぼすが、TVオン・エア版とは確実に異なり、ポジティブにエヴァ初号機に乗り込む。この事態を単に時間的圧縮の結果だと捉えるのは皮相な見方である。
シンジだけではなく、登場人物全員が、巨大要塞都市を含む機械を人間性に譲り渡さぬために、積極的に機械になっている。彼等自身が機械と化しているのだ。つまり新劇場版は「人間だと思ったら、機械だった!」である。
ここに感動を覚えずして、何に覚えよう。