読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

このページを読む者に永遠の呪いあれ

スマフォからコメントを書き込む場合、一度PCモードで表示してください

コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

「キャラ」と「キャラクター」の違い

東浩紀の対談本に、伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』をめぐる討論が収録されている。そこで議論の的になっているのは「キャラ」と「キャラクター」の区別である。
伊藤剛は記号だけで了解・流通されるものを「キャラ」と呼び、人格や同一性を備えた人物を「キャラクター」と呼んでいる。「キャラ」はJRのsuica のペンギンのようなもので、「キャラクター」は個々の作品の登場人物だと考えていい。でも有名なキャラクター、例えばシャーロック・ホームズドラえもんは「キャラ」になりうる。その線引きは、二次創作になりうるかどうかだと言う。


さらに東浩紀は、ライトノベルの登場人物は「キャラクター」ではなく限りなく「キャラ」的だと提言している。こうなると、具体的な特徴が両者を区別するのではない感じになる。
このあまり生産性の無い議論について思うことは、「キャラ」としての流通・了解はきわめて日本的な現象で、おそらくその性質は「引用」に関わるだろうということだ。引用が方法論として重視されたのは1980年代であって、現在は大して取り沙汰されていない。
だがオタクのコンテンツ産業というのは遅れていて、多分いまごろになってもやや変化した形でポストモダン的な引用をやっている。しかも、それが新しいかのようなイメージがある。その新しさの理由は、かつての引用が形式自体に関する自己言及だったのに対し、最近のキャラ=引用は形式に自己言及しないということではないかと思う。


つまり歴史が忘却されている。時間的順序としての歴史が忘れられている。80年代のポストモダン的引用は、結局、歴史を参照するための方法だった。最近のオタクコンテンツは歴史を意識しないし、むしろなるべく忘れようとしている。
これは20世紀後半の反動かもしれない。
近い過去のことまでアッサリ忘れられるから、エヴァンゲリオンのパクリが後を絶たなくても疑問を持たれないのである。