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『エヴァ新劇場版』に対する期待と押井守について


< まにあっくすdeep! >より

必ずしも似通ってはいない2つのアニメ、『エヴァンゲリオン』と押井守の『イノセンス』を比較した時、押井守はもしかしたら前者のモチーフに触発されて自作を作ったのかもしれないと思う。


もちろん押井守は「エヴァンゲリオンは1話か2話しか見ていない」と公言しているけど、彼の周囲の人からエヴァンゲリオンがどんな内容のアニメなのかは聞いている筈だし*1、1話か2話でも見ればなんとなくイメージは掴める。エヴァ綾波が人造人間であるという設定は古くさいもので、特に新味もない。だけど押井守はキャラを機械として設定するというやり方に、一応の興味は覚えたのではないか?


イノセンス』のやり方はロボットやサイボーグという設定をダシにして人間を語ることだ。
押井守の関心は生きた人間にだけあり、人造人間や機械への関心は二次的なものにすぎない。言い換えると、『イノセンス』は機械の身体や肉体の消滅を平然と晒しているキャラたちが、にもかかわらず人間であるという作品なのだ。


これとは反対に『エヴァンゲリオン』は人間の姿をした人間ならざる存在の話ということになるだろう。


押井守は画面に映ったものをそのまま現実として認識させる。つまり表現行為自体が面白いタイプではない。押井守の面白さは、飽くまで表現内容そのものだと思う。


だが、庵野秀明は表現行為自体を通じて訴えるタイプであって、表現をしかるべき記号にすることで我々の思考を表象すると思う。
これはゴダールなどと質は違うが同じタイプだし、実はマティスもそうだ。
彼らは表現行為自体をメタレベルに置く。


エヴァでの庵野の自意識の表明は、メタレベルをはき違えた滑稽な試行錯誤にすぎない。彼は単に記号としての表現を作っていけばよい。その表現のあり方自体が面白さになるだろう。

*1:『THE END OF EVANGERION』はProduction I.Gが噛んでいるし