このページを読む者に永遠の呪いあれ

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鬼頭莫宏への違和感とその回答

ここ数日、前々回のエントリー< 角川グループの陰謀 - このページを読む者に永遠の呪いあれ >のせいで、鬼頭莫宏で来る人が多いのですが、前回のエントリーでid:BigHopeClasic氏にブクマコメントに対する質問をしたところ、昨日、質問に対するお返事がありました。正直、こんなに丁寧かつ明晰に回答していただけるとは思っていませんでしたし、コメントすらもらえると思っていなかったので、氏に心から敬意を表したいと思います。


『ぼくらの』に対する疑問を分かりやすく回答・解説してくださった名文だったので、ここに改めて転載させていただきながら、コメントへのレスをさせていただければと思います。

>「作者の」とあるので
スリードというのは「誤った方向へ導く」ということですから、作者が先のエントリでご指摘のあったようなチズ編に関する誤読を読者に生じさせるような仕掛けをした、という意味です。


次に、鬼頭がチズを許していない根拠に移りますが、作中で端的に示されているのがモジ編でしょう。モジはチズの復讐が貫徹できなかったことを非常に冷ややかに見ているし、同じ事を考えていた自分は「罰を受けた」と言っている。チズのなした行為に対する否定的な価値観は、作中に示されているわけです。
また、コモ編では、ジアースの「唯一の」パイロットとして身元を明かしたコモの家が、ジアースによる犠牲者の遺族によって焼き討ちにあっている。その犠牲者が誰の戦闘の時に生じたかはこの際問題ではなく、この物語によって生じたあらゆる「罪」に対する、「罰」の一つのかたちがそこに現れているといっていいでしょう。


鬼頭において表現が拙いというご指摘には同意できるところとそうでないところがあるのですが、こと倫理に関しては、むしろ逆であると私は考えています。
鬼頭は倫理に欠けているのではなく、倫理に対して肯定的であるが故に倫理を疑っているのではないでしょうか。否定する方向ではなく、肯定する方向へ疑う。それをデカルト的と言えば言いすぎになるかも知れませんが。
ご指摘のチズ編にしても、チズの罪をイメージ的に薄めるような過去話を描いたかと思えば、一方で後に畑飼には、保守派の論客が語るような教育倫理を語らせてもみる。
倫理について肯定的であるが故に、倫理に関して自らの中にゆらぎ、ゆらめきを持っている。そしてその事に答を出していない。それを表現として表しているが故に、鬼頭の作品に一定の説得力が生まれていると私は感じましたので、その意味においてブクマで違和感を申し上げた次第です。

>鬼頭は倫理に欠けているのではなく、倫理に対して肯定的であるが故に倫理を疑っているのではないでしょうか。否定する方向ではなく、肯定する方向へ疑う。

この部分を読んで、自分の中の鬼頭莫宏に対する違和感が説明された気がしました。言い換えれば指摘されているとおり「鬼頭莫宏の『倫理』に対する『ゆらぎ』」のように映ったからです。ただ、

>それをデカルト的と言えば言いすぎになるかも知れませんが。

の部分ですが、デカルトは世界中を旅し、旅の経験から、ある国で常識と思われていることが別の国ではそうではなく、価値観も道徳観も異なる事実を力説しました。
デカルトの探究は、特定の国(例えばフランス)で通用している道徳や価値観がほかの国の価値観より優越していることをたしかめるためではなく、あくまでも道徳や価値観を超越した「普遍的な価値観を探ろうとした」わけです。
デカルト懐疑主義は普遍性を疑うことではなく、むしろ“自国内で当たり前と思われている価値観を疑う”ことであり、それは殺すなかれ・盗むなかれ等のタブーを疑うことではないと思うのです。
蛇足ですが自分は(専門的に勉強したわけではありませんが)、カントを支持しており、いわばカントはデカルトの発展形です。

その上で、チズが起こした行動(一般市民を殺戮したあげく、仇討ちの対象であった元恋人の教師が実姉の恋人だったことで殺せなかったこと)は、身内を殺せなかった=共同体の道徳を否定しきれなかったわけで、ここに作者のミスリードが仕掛けられていると考えることは妥当だと思います。
ただ、チズ編だけを読むとそうなっているだけですから、他の操縦者たちの物語を読んでいない自分は、これ以上、踏み込んだことはいえません。
よって『ぼくらの』のチズ編では、「共同体の道徳」の枠内に留まっているように読めてしまい、先の文章を書くに至りました。

付言すると、であるが故に、昨年9月28日のエントリにある「暗くない」という評価には全く賛成です。倫理に対する疑いがその存在の肯定的な方向へ振れている限りは、そこまで強烈な表現を叩きつける必要もない。
ただし、そうであってもなお鬼頭の表現がぬるいものであることは、最近出版された小説版との比較で明らかになったと思います。小説版ではモジの代わりにモジの幼馴染みの一人、ツバサがパイロットになります。ツバサを巡るモジとナギの関係は漫画版と変わりませんが、小説版では漫画版ではパイロットであるがためにできなかった、ジアースというシチュエーションを利用したモジのナギ殺しが行われます。当然ツバサはパイロットとして死にますから、モジは結局何も得ることがないまま、廃人同様になって退場してしまう。


多分、これを読んだ鬼頭は、「負けたな」と思っただろうと推測しています。モジという、恐らくは読者の好感度の高いだろうキャラクターを、こういう方向性で使えない辺りに、鬼頭の表現力の拙さの一端があるのでしょうし、小説版を読んだ直後にこちらの一連の鬼頭論を読んだものですから、いろいろと考えさせられるところが大きく、コメントした次第です。

小説版があることは知りませんでした。教えてくださり、ありがとうございます。

ぼくらの~alternative 1 (1) (ガガガ文庫)

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最も、自分は『ぼくらの』を通巻では読んでいない立場なので、作品に対して踏み込んだ言及は控えるべきだったのかもしれません。


では、今後読むのかと問われれば、答えは否です。一度目を通した時点で、ひっかかってくるものがなかったことと、先に申しあげたような違和感を覚えた時点で、鬼頭莫宏の筆による作品を改めて再読しようという気にはなれないのです。

ただ、知人の鬼頭莫宏ファンは、そこまで読み込んでいない印象を受けました。むしろ、「書かれていない部分に魅力を感じる」そうなので、自分とは全く考えが逆なのだなあと感じたことを蛇足ながら付け足しておきます。
端的に言ってしまえば、趣味嗜好の問題かもしれませんが、コメントを読んでノベライズは読んでみたいと思いました。

エヴァンゲリオンの新劇場版は私も楽しみにしています。初号機や零号機のカラーリングを見る限り、「企画段階の形へ回帰する」というメッセージはあるのでしょう(山下いくとが最初に指定した色に酷似しています)。ただ、それがベタということなのかははっきりしませんが。
大月俊倫プロデューサーの、シリーズ化への布石も、というコメントもありますけれど。

これは全くの私見ですが、今回の『エヴァ劇場版』の発表を受けた時に感じたことは、エヴァ以降に蔓延した「セカイ系」に対し、庵野自身が終止符を打つのではないかな、と感じたことです。
それが「ベタ」な表現へ向かうことになるとは限りませんが、同じことを二度やるために制作することはないでしょうから、逆の方向へと道を探る気がするのです。
とすると、エンターティメントに徹した作風になるのではないかな、という予想で「ベタ」という言葉を使いました。

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例えが飛躍しますが、中国の映画監督・陳凱歌(チェン・カイコー)が90年代の『さらば、わが愛/覇王別姫』から02年の『北京ヴァイオリン』では、ベタな演出を取り込んだことに非常に驚いた記憶があり、こうした変化を期待している意味で「ベタを期待」していると書いた次第です。