このページを読む者に永遠の呪いあれ

スマフォからコメントを書き込む場合、一度PCモードで表示してください

コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

オタクの感性の退廃

お久しぶりです。
完治したわけではないのですが、多少なりとも文章を書けるほどには回復したので、今、こうしてパソコンに向かっています。
だからと言って、以前のような更新頻度に戻るとは思われないのですが、少しづつ戻していけたらと思います。


療養の日々の中、専らアニメを見たり、ゲームをしたりして過ごしています。
こんなことしてるか、寝てるかのどちらかでダメ人間ですが。。
そんな中、友人からこんなメールが届きました。

今朝は午前中『ケロロ軍曹』と『家庭教師ヒットマンREBORN!』を見た。
このアニメ、どっちも面白くはない。だが今のフィクションのあり方を考えさせてくれると思った。


ケロロ軍曹』は大金持ちのお嬢様という設定の日本人の名前のキャラが出てきて、ケロロ軍曹が彼女の家に住んでる。彼女の母親が格闘家 (格ゲーふうの) で、軍隊や用心棒を次々倒す強い人で…という設定自体は面白くないけど、日本人の世界に非現実的なネタを必然性なく持ち込んで描くところに、もはや現実と空想のなしくずしの同居がある。この同居は現実と空想の差異を強調することの放棄から来ている。


同じことが『リボーン』にも言えて、マフィアの作ったテーマパークに遊びに行ったら、マフィアの襲撃や断崖から大渦に飛込まされる試練が待ち受けている…というやる気のない展開に、素人が適当に想像を語って素人どうしでウケているような印象を受けたけど、これまた現実と空想の差異はない。というか「みんなが共有しているマンガのパターン」だけで出来ている。そのパターンは80年代以後のお約束なわけで、もはやマンガ・アニメは江戸時代をしのぐ内輪のお約束に収まっていると思う。


ただし、それを支えているのは「もう空想と現実の差異を強調してもしょうがない」ということと、キャラの属性に新たなリアリティ (それは常にフィクションだけど) を付与することの放棄だと思う。
要するにこれらのアニメは人間性を考えていないが、同時に属性に関する思考も停止しているわけよ。もっともらしい属性を描く努力とか、そういうレベルの発想もない。これはすごい退廃だと思う。

(太字は筆者)前置きしておくと『ケロロ軍曹』と『リボーン』は見てない。
『リボーン』は1話だけ見たけど、あまりのつまらなさに10分経たずに見るのをやめてしまった。ファンの人には申し訳ないが、個人の趣味なのでどうしようもない…。


で、このメールに対してオイラなりの意見を述べてみたい。
「空想と現実の差異を強調」することは、『うる星やつら』もそうであるように、古来から面白い漫画の大切な要素だった。これは『サルまん』にも書いてあるし、これを放棄したら絶対に面白いものは生まれてこない。
だから、「空想と現実の差異を強調してもしょうがない」と、作り手側(ここでは『リボーン』や『ケロロ』の)は決して思ってはいないはずで、しかし、「空想と現実の差異」を強調しながらも、面白くないことは事実とすれば、おそらく「見せ場を作るのが下手」なのではないかと思う。


漫画やアニメに最も重要なのは「見せ場」だ。
「見せ場」と一言に言っても難しいけど、さっき例に出した『うる星やつら』は「日常に入り込んだ非日常」のパターンをうまく利用し、普段は荒唐無稽でナンセンスなドタバタだったけど、「作者と読者が一体感を共有できる場面」があった。
例えば、いつもはラムちゃんから逃げて他の女の子ばかり追いかけているあたるが、実はラムちゃんのことを心配していて、やっぱり一番大事に思っている、そういうシーンが何話かに1度は必ずあった。
高橋留美子はこういうシーンを組み込むことが実に達者で、こうしたシーンに遭遇した時、読者は「作者の思い」に共感できた。
つまり、「見せ場」とは「作者と読者が一体感を共有できる場面」=「共感・共有のカタルシス」のことである。


おそらく、オイラや友人が『リボーン』についていけない理由は、作り手の想像力・発想力に共感・共有できないのと同時に、作品における「見せ場のカタルシス」がないからではないかと思う。
それを察知し、数分で『リボーン』を見るのをやめてしまったように。


しかし、『リボーン』は今や腐女子に大うけで、相変わらず『涼宮ハルヒの憂鬱』は大人気。
友人とこの話になった時、何故、自分たちはこの2作品に入り込めないのか、という話になった。『涼宮ハルヒの憂鬱』は全話見たけれど、結論からするとやっぱり「面白くなかった」。
作画は確かに丁寧だし目を見張るものがある。
だけど、1話ごと見ると、恐ろしいほど「見せ場」がないまま構成されていることに気づかされる。
いや、全くない、というのは語弊があるので訂正するが、「見せ場に共感できなかった」、だから面白くなかった、と言った方が正しい。


といったことを友人に伝えた。

涼宮ハルヒは読んでいないけど、ヤマ場のない作品が評判で人気があるって、不思議だ。
やっぱり近年のオタクは、感性が衰退してるのかな?
『リボーン』もヤマ場はないし、オチもない。創意工夫は一切ない。ただ非常に貧しい想像力が感じられるだけだ。
でもそれがある種の人々にウケているのは、ネタや話の面白さでも絵柄の良さでもなく、キャラに今時の「普通の」中高生のイメージを感じるからかな? 考えられるのはそれぐらいだ。
もちろん、人物に魅力があるとは思えないんだけど…

例えば、「ライブアライブ」の回を取り上げると、「見せ場」はハルヒのライブステージである。
しかし、オイラはかつて一度も文化祭のステージで脚光を浴びたいなどと思ったこともないし、夢想したこともない。だから共感できない、で片付けることも可能なのだけれど、この問題はそう単純ではないのだ。
あの回を絶賛した多くが、そうした願望や妄想、欲望があった人がいくらかは含まれているにしろ、いくらなんでもそればっかではないだろう。


「共感」とは、読者の妄想や欲求を具現化することではない。
漫画やアニメがキャラクター主体で成立している以上、キャラクターの関係にスポットがあてられるべきなのだ。
先ほど例に出した『うる星やつら』のラムちゃんへのあたるの思い、はキャラクター同士の、キャラクターの関係そのものである。
それを見ているわれわれは「ドラマの観衆」にすぎない。


この位置関係は揺るぎがたいものだったはずなのに、いつの頃からか、「読者の欲望」を満たす作品こそ絶大な支持を受けるようになってしまった。(いつ頃かは実は分かっている。。多分エヴァ以降)


その点においても『涼宮ハルヒの憂鬱』は、「作者の欲望ないしは妄想」であり、それが「読者の欲望ないしは妄想」と見事に合致し、人気を博したとしか思えないのだ。
…というのも、アニメを見ていて思ったのは彼ら登場人物たちが、人間関係を深めたり相手を思いやったりする「関係のカタルシス」がほとんど登場せず(原作は知らないけど)、「ライブ・アライブ」に限らず、「あー、、こーんなことあったら面白いよな」といった読者の(あるいは視聴者の)欲望程度でしかない。


唯一面白いと思えた回が「サムディ・イン・ザ・レイン」なのは、ラストでほんの少しだけ「相手を思いやる関係」が登場したからです。
というか、そもそもオイラが『涼宮ハルヒの憂鬱』が嫌いなのは、何より主人公がどぁーーーい嫌いだからです。

たとえば、あの劣化ビバップみたいな顔の主人公の、口癖のやれやれっていうのさ。
なんか、ませたヲタク系の男子中学生が、本当は女の子のことに興味津々なのに、 等身大の自分が分からずにカッコつけたくて、童貞が必死こいて言っているって感じ。
女の子に興味あるのを悟られまいと興味ないフリして取りつくろうとしてる、 けれども本当は女の子が怖くて、アニメではその態度を「俺ってカッコイイ! いつも斜にかまえて!」と、なぜかカッコよーく「自分視点で見た場合の、自分像」を自分のために書いてる感じがひしひしと伝わってくる。


【涼宮ハルヒ】キョンを死刑にするスレ

キョンはあれだ友達がいじめられてたり、喝上げされてても見てみぬふりするタイプ
または自分の女がレイプされてても自分では助けることもできない(しようとしない)警察頼りのヘタレで、不良とかの居ないとこで吠える負け犬
そしてその弱さを受け入れず、「俺は常識人だから」と言う言葉に逃げる


【涼宮ハルヒ】キョンを死刑にするスレ

といったことを伝えたら友人からレスが返ってきた。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

谷川流涼宮ハルヒを読み出した。
まだ序盤の方だけど、長い継ぎ目のないセンテンスを書いていて、それがいかにもわざとらしい…。

オタクの妄想語りを読むのはけっこうつらいものがある。山田(仮名:友人のオタク友達)が書いたのかと思った。
結局は、語り手の男=キョンのオタク(的)妄想が『涼宮ハルヒの憂鬱』になったとしか思えない。『涼宮ハルヒの憂鬱』は作者の妄想でもあると思う。

ゼロの使い魔 (MF文庫J)

ゼロの使い魔 (MF文庫J)

< http://www.gyao.jp/sityou/catelist/pac_id/pac0004079/ >
そんな中、実はオイラとこの友人が夢中になっているのが『ゼロの使い魔』で、滅法はまっています。
友人はオイラよりラノベを読んでいるんだけど、読んだ直後に「久しぶりに面白いラノベ読んだ」と太鼓判を押しました。
オイラはアニメしか見ていないのだけれど、毎週GyaOの更新を楽しみにしています。

/   //   /   //    ______     /   //   / 
 / //   /|   r'7\ ,.ヘ‐'"´iヾ、/\ニ''ー- 、.,   /    / 
  /   / |  |::|ァ'⌒',ヽ:::ヽrヘ_,,.!-‐-'、二7-ァ'´|、__ 
`'ー-‐''"   ヽ、_'´  `| |:::::|'"       二.,_> ,.へ_ 
         /  //__// / / /      `ヽ7::/ 
 か っ も  |  / // メ,/_,,. /./ /|   i   Y   // 
 ァ  て う.  |'´/ ∠. -‐'ァ'"´'`iヽ.// メ、,_ハ  ,  |〉 
  |  約 ク  ヽ! O .|/。〈ハ、 rリ '´   ,ァ=;、`| ,ハ |、  / 
  |  束 ソ   >  o  ゜,,´ ̄   .  ト i 〉.レ'i iヽ|ヽ、.,____ 
  |  し  ス  /   ハ | u   ,.--- 、  `' ゜o O/、.,___,,..-‐'"´ 
  |  た  レ  |  /  ハ,   /    〉 "从  ヽ!  / 
  |  じ  は  |,.イ,.!-‐'-'、,ヘ. !、_   _,/ ,.イヘ. `  ヽ. 
 ッ .ゃ .立   |/     ヽ!7>rァ''7´| / ',  〉`ヽ〉 
 ! ! な  て   .',      `Y_,/、レ'ヘ/レ'  レ' 
   い  .な    ヽ、_     !:::::ハiヽ.   //   / 
   で   い   ./‐r'、.,_,.イ\/_」ヽ ',       /  / 
   す      /    `/:::::::/ /,」:::iン、 /    / 
          〈  ,,..-‐''"´ ̄ ̄77ー--、_\.,__  / 
      ,.:'⌒ヽ ´         | |  , i |ノ   `ヾr-、 


ゼロの使い魔の方が涼宮ハルヒより面白いよな part2

正直、すまんかった。


でも、理由は上記に書いた通り。
ゼロの使い魔』は主人公もヘタレじゃないし、才人はキョンに比べても、全然ツンデレの扱いに慣れてるし。
それこそ『涼宮ハルヒの憂鬱』は『うる星やつらビューティフルドリーマー』の枠組みをパクってるけど、『ゼロの使い魔』の方が『うる星やつら』の面白かった本質的な部分をしっかりと踏襲していると思う。
ルイズと才人の関係はあたるとラムのもどかしい関係に重なり、それが読者(あるいは視聴者)に続きを気にさせる展開となっている。
何より、『ゼロの使い魔』には見せ場や山場がしっかりある。


要するに、このちんたら長い文章は『ゼロの使い魔』がいかに優れていて、いかに素晴らしく、いかに萌えさせてくれているかを宣伝したかっただけなのです。


MF文庫の回し者じゃないよ、念のため。