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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

真性のマゾは凡人には理解できない/『聖母』マゾッホ

読書

聖母

聖母

マゾッホは、マゾの語源になった有名な作家です。
知名度はあるけど読まれていない作家な気がします。


本当は『毛皮を着たヴィーナス』を読みたかったのだけれど、生憎手に入らず。ドゥルーズが誉めている『聖母』でも読んでみようとという軽い気持ちで取り掛かりました。


ぶっちゃけ、いろいろ予想外だった。


ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが歌っているくらいだから、もっとアヴァンギャルドかと思ってましたが、文学としては驚くほど古典的。
古典的というのは「むかしむかしあるところに〜」といった始まり方をする、物語的な作品を指す時に使っています。


あらすじは、主人公の青年サバディルがある日、森の中でとてつもない美女マルドナに出会い、一目ぼれしてしまったサバディルは、彼女が土着宗教の女教祖であることを知りますが、入信してしまいます。
しかし、マルドナの行う信者へのリンチや、彼女から一人の男としての愛を注いでもらえないことがサバディルを悩ませ、彼は逃れるようにマルドナの信者の一人である少女と恋に落ちます。
しかし、それがマルドナにばれ、嫉妬に逆上したマルドナはサバディルを処刑します……。

読了直後、まともな感想を抱けませんでした。
とにかく何から何まで分からないことだらけだったのです。
分からない、というのは小説の要素ではなく、マゾッホという作家の思考回路そのものが理解できないと言えばいいのか。
いや、破綻しているわけじゃないんだけど、どうにも腑に落ちないと思ったわけですよ。


例えば、マルドナが嫉妬のあまりサバディルを処刑するけど、その際のサバディルの全てを受け入れる姿が不気味だとか、マルドナは何食わぬ顔で彼をぬっ殺し、だけど最後の最後で泣き崩れたり、とか、とにかく後半部分の展開が消化不良な理不尽さ・不条理な気がして仕方がなかったわけです。


何かが壊れている気がするけど、その「何か」がわからない。
単に「分からない」「破綻している」だったら駄作で済ませられるのですが、本能的に分かるのは、決して駄作ではないし、むしろ重要な作品であることで、故に潜んでいる作者の暗号が読み取れずに、理解に苦しんだわけです。
どんな小説でも、読めばそれなりに作者の意図を汲み取れるものですが、マゾッホには一切それができなかった。


「あの小説は一体なんなのだ」と数日、考えました。
訳者の後書きを読んでも結局、答えが出ないので、ドゥルーズマゾッホについて何を書いているかちょっくら教えてくれと友人に頼んだところ、やっとこの小説の謎が分かってきました。


訳者は本書あとがきで「マゾッホをいい加減、マゾヒスト文学として位置づけるのはやめたらどうか」と書いていますが、そこで引用されたベンヤミンの「物語作者」についてのくだりは、図らずも逆にそれを証明し補強しているように思いました。


マゾッホとサド (晶文社クラシックス)

マゾッホとサド (晶文社クラシックス)

今から書くドゥルーズマゾッホに対する言及は又聞きであり、『マゾッホとサド』についても未読の為、正確な記述にはならないでしょうが、ドゥルーズいわくマゾッホこそ、「真のマゾヒスト」であると断言しています。


要するにマゾヒストは、「徹底したプラトニスト」である。
プラトニストってのは、プラトンが語源であるプラトニックとは別の意味です。


例えばここに「ゲーム」があるとする。
ゲームには必ずルールがあり、破壊しようとする時、単純にぶち壊すことを考える。しかし、マゾヒストは自らを犠牲にすることでゲームを終わらせようとする。
それは苦痛を伴うはずだが、彼らにとっては快楽になってしまう。それは今までの規範になかった「もう一つの現実」である。
よって、ゲーム自体が崩壊してしまう。


要するに、マゾヒストはゲームの外側を創造することにより、「もう一つの現実」の観念を獲得する。
だから、マゾッホこそ芸術家なのだ、とドゥルーズは言っているそうです。


マゾヒストが獲得する「もう一つの現実」の観念は、世の中のルールの外側に存在してます。
世の中のルールとは「倫理」とは別の「道徳」のことであり、「倫理」こそ、世の中のルールの外側に存在しています。


例えば、「道徳」は基本的にコミュニティーに存在しますが、マゾヒストはそれら外側を考えることによって、現実だと思われている以外の、それを超えた高地の次元を獲得します。
恐らくドゥルーズとしては、キリスト(の贖罪による磔刑)などはマゾヒストの典型に入ると言いたいのだろうし、最近のイーストウッドの映画の「倫理」のあり方は非常にこれに近いものを感じます。


さて、こうしたドゥルーズの言葉によれば、谷崎潤一郎マゾヒズムなどマゾの範疇には入るが、程度はマゾッホに比べればまだ甘いことが判明しました。
何より、谷崎文学は一般人に許容・理解・共感できる作品を書いているし。別に「もう一つの現実」ってほどでないし。


さすがドゥルーズ先生。
マゾッホに対して抱いた理不尽さや不可解さの根源はこれだったのか。


要するにマゾの感性など常人には理解できない。
言われれば、確かにマゾッホを読んだ時のオイラは
「( ゚д゚)……ポカーン」
とし、続いて
「(゚Д゚)ハァ?」
となりました。
これこそが真のマゾヒストに接した時の凡人の反応! 


ついでだから圧倒的マジョリティーを占めるサドについても少し書きます。
ドゥルーズによると、サドはスピノザ主義者だそうで、端的に言えば「論理を徹底してつきつめる」。これだけで、多いのは理解できます。
ちなみにオイラもサドでしょう。あなたもあなたも、おそらくこのブログを見ている人は全員サドになります。


で…「bmp_69」さんのところにあった過去記事を見ていて思ったんですけど。
http://bmp69.net/mt/archives/2006/05/post_381.html
それこそbmp_69さんは『マゾッホとサド』を引用されているので、読んでいらっさる筈だけども、論のまとめで「泣きゲーオタはマゾが多い」というのは間違っていらっさるのではないかと思うのですよ…。


ドゥルーズによれば、マゾはプラトニストで、世界の外側から新しいルールを創造できるような人なわけで、それは常軌を逸しているわけですよ。
泣きゲーオタの人口を考えても、そんなに多いのはおかしいはずなんです。
ていうか、泣きゲーオタが世界をルールの外側から見ているようにはとても思えんのです。


あと泣きゲーは、ルールが崩壊することはないのでは。むしろ「理論を突き詰めている」=サド的であるから、プレイした人は感動できるし、感動できるってことは世界が保持され、論理が貫かれているから共感できるのであります。
間違っても、マゾッホを読んだオイラみたいな感想を抱く人はいないと思うのですよ。


ですから、いささか牽強付会な気がしまして。俗っぽい意味で彼らをマゾと呼ぶのは別に構わない気もしますが、ドゥルーズのそれとは切り離した方がいいと思います。こちらも自信はないのですが。…その程度で。


それとエロ漫画業界広しと言えど、オイラが個人的にコイツは真性のサドだなあと思っている人がいます。


マゾッホもそうだけど、マゾやサドってのは、書かれるモチーフに依拠しない。つまり、書かれている内容が残虐であればサドで、自己嗜虐的なものがマゾであるという単純な図式ではなく、ドゥルーズ的な観点から見た場合です。


そうした時に真っ先に思い浮かんだのが、山本直樹でした。
マゾの逆であるようにサドはスピノザ主義者で「論理を徹底して突き詰める」派となり、まさに(最近の)山本作品からビシビシ感じるんだな、これを。
達成度が高いが故に、すげえサド…と思うわけですよ。(特に『破壊』とか)


分かる人にしかわからないかもしれないけど、自分が極端なサドではないせいか、彼の描く世界観についていけないと思ったり、気後れを感じたりするのは、多分、そのせい。
だから、極端なマゾや極端なサドの作る作品は、受けいれがたいある種の拒絶感を植えつけるのではないかな。



<初>マゾッホ『聖母』(単行本)★★★