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グロエロ暗黒文学の傑作/『眼球譚』バタイユ

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

ジョルジュ・バタイユ年譜
バタイユってのはフランス語で「戦争」という意味らしい。名前にふさわしいとうか、爆弾みたいな作品を書いていらっしゃった。


自分の中では名前だけはやたら有名で、読んでいる奴も周囲にいたし、やたらいろんなところで見かけたんだけど、なかなかどうして今まで読んでこなかった。
というのは、バタイユを哲学者だと思い込んでいたもんで、小説なんて書いていると思わなかったんだ。
だから、著作も全部思想書だと思い込んでいた。ジャック・デリダとかジル・ドゥルーズ系譜の難しくて、理解するのに倍の時間がかかる類の現代思想でも至極難解な部類の思想家の一人だと思い込んでいた。


概ね外れてはいないんだけど、実際はジャン・コクトーみたいに「何でも屋」というか、何でも書いている人だったらしい。日本で言えば、寺山修司? そんなスタンスを、つい最近知ったのです。


だけどバタイユ自身は地味な人生を送っていて、フランスの一公務員(国立図書館の職員)で生涯を終えており、作家としては別PNで執筆活動を続けてた。本書もそうした匿名で出版された。初版100部とかで、まるで同人誌。
その世界では有名だったため、ピエール・クロソウスキーとかジャック・デリダとかミシェル・フーコーとか交流は広かったようだけど、本人は文壇への野望がなく、実生活では公務員としての職務を全うしたそうです。
フランツ・カフカのような人なんかな、と思ったら友達に言わせるとカフカ宮沢賢治的いい人伝説の人なので違うと言われた。


本書を読んでみて思ったけど、この系譜って別に目新しいものではなく、マルキ・ド・サドの系列だと思うんだ。
こうした欧州の暗黒文学って、やっぱキリスト教があってこそだと思う。ていうか、キリスト教の戒律とタブーなしにこれらは存在できないし、また語れない内容にもなっている。
だけど、そこを見落とすと、村上ドラゴンの『トパーズ』とか『コインロッカー・ベイビーズ』とか篠原一とか金原ひとみみたいに読まれてしまう危険性もある。


日本には、誤解する読者がいても不思議ではないけど、根底が全然違う。
本作もエロティック小説の部類に属するけれど、『ニーチェ論』で彼自身が

窓が中庭に向かって開くように、私の狂おしい愛は死に向かって開いている

という言葉が示すとおり、「エロ」のパトスが強烈な「死の臭い」を放っており、このネガティブさは、日本の作家は持ち合わせていない。(それを仄めかすものがあっても、バタイユのガチさには到底及んでいない)


オイラは無宗教者でキリスト教の戒律をほとんど知らないが、本作におけるタブーの数々は、宗教から切り離しても尚、人の本能や生理感覚に訴えてくる禁忌ばかりだ。


眼球譚』は一人称小説で、シモーヌというガールフレンドとともにタブーの限りを尽くすわけだが、このガールフレンドが基地外で、おとなしそうで善良な人々を「おぞましいサディズム」に巻き込み、自死させたり殺したりする。
後半にいくに従って、内容がどんどんグロくなって、ラストは神への大冒涜で幕を閉じる。
サディスト小説の極北を見たっていう感じ。
脱帽しました。すごいよ。おかしいよ。バタイユ大丈夫? みたいな。


この部分を紹介したら、読む価値がほぼなくなる作品でもあるので、気になったらぜひ読んでほしい。
短いし、おそらく1日で読めてしまうでしょう。漫画でも読むような軽い気持ちで取り掛かれる小説です。
ていうか、パラ読みした時点で目に入ってくる単語のやばさに内容も大体理解できる。
ただし読み始めると、思った以上にキッツイ内容で、頭がぐらぐらしてくる。


絶対に視覚化できないされない、したらこの小説にある世界観がぶち壊しになるほど、まさに「五感で感じてくれ」としかいえない。それゆえに維持される世界だと思います。
描写は観念的ですが難解ということもなく、文章はいたって分かりやすい。
例えば、主人公が夜、シモーヌを自転車の後部座席に乗せて、帰路を急ぐシーン。

ますますせわしい勢いで彼女は座席(サドル)の上で自慰をつづけるのだった。私と同様、彼女もまた自分の裸体によって呼びさまされた嵐を鎮めきっていなかったのだ。彼女のかすれた呻き声が聞こえた。文字どおり歓喜によって引きむしられ、砂利の上を引きずる鋼鉄の響きとともに、彼女の裸体は道路の脇に投げ出された。
彼女はぐったりと力なく、頭を垂れていた。唇のすみから血が細いすじを引いている。片腕を持ち上げてみると、すぐまた垂れてしまった。

こんな感じ。


小説好きを自称するなら一度は読んでおくべきです。好き嫌いはあるでしょうが(いや、好きになったらやばいと思う)、こういう小説もある、ということを知っておく分には、一知識として読んでおいて決して後悔する内容ではないでしょう。
ていうか、読んどけ。


ラストの章だけは少々ネタバレで書くけど、これさえなければもっとよかったと実は思ったりした。
最終章が作者のあとがきになっていて、どうしてこんな小説を書いたのか、という理由を述べているんだが、章として書くのではなくて「あとがき」として独立させて欲しかった。
目くじら立てるほどでもないのだが、最終章で作者が突然登場し、「この物語はフィクションです」って言われると、突然、本文内容ともにメタっぽくなってしまって、なんつーか、興ざめしてしまった感があるのは否めないわけですよ。


あと、この本には「マダム・エドワルダ」という短編も収録されていて、エロものだけど『眼球譚』ほどグロくなく、より観念的ではあるが、三島由紀夫の文章とあわせて読むと理解できる。


三島は審美眼にすぐれていたというか批評眼のある人なのだが、「美しくも切なく、危ういもの」にかけては、先見の目がある人なので、バタイユはやっぱり超好きなご様子。
三島も、神の存在を無視して語れないとバタイユを論じていて、概ねオイラの読みと一致していて、安心した。


で、三島が「バタイユのエロは上品だ。上品と言うのは一本筋が通っている、姿勢のよさのことである」と言っていて、なるほどと思った。(同時に日本では野坂昭如の小説がそうだ、と言っている)


バタイユの小説自体はエロ小説で、書いていることは下品で滅茶苦茶なのだけど、通俗的なエロ小説とは格が違う。


それは神に対峙する為、こうした小説を書いたといった動機が、図らずも彼の中にあった神の存在が、小説を決して下劣に堕しはさせなかったのだろう。
バタイユ自身、10代まで熱心なキリスト教信者で、20才前後で信仰を捨てているけど、彼の中で神の存在が消えたわけではなかったのです。


ていうか、西洋文化って要はキリスト教、絶対的超越存在なくては発展してこなかったのだな、と改めて思いました。



<初>『眼球譚ジョルジュ・バタイユ(文庫)★★★★