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橋本治の発言

小説トリッパー』に橋本治のインタビューが載っていて、ざっと目を通した。
「いま、誰が文学を読んでいるか」というお題。

橋本治は日本では「純文学」=文学と見なされてきた、と語る。しかし自分は純文学の世界の人ではないから、純文学とは何かは語らないと橋本治は言う。
大衆小説も昔はひどい出来だった。「鞍馬天狗」なんかを読むと、映画化したやつの方が数倍良い。それが多少質的に向上したのは、映画を意識するようになってきた頃からで、それは映画がどこまでも表現ありきのメディアだから、小説も表現を考えて書こうという作家が現れた、と。だが大半の大衆小説はやっぱりひどいままだから、何も変わってない。

山田風太郎はれっきとした文学者であって、彼の忍法小説・時代小説は「人間はいかに生きるべきか?」という問いかけがある、と橋本治は言う。そう人生論めいた文脈で風太郎を語られても困るが、まあ風太郎を文学者と位置づけていることに異論はない。

最近の日本の文化風潮について、「日本は会社社会だから、会社がダメになると全部ダメになる」と語る。そしてインターネットの普及等による昨今の文化は「インディーズの巨大化」だと。
インディーズというか素人化、文化の民主主義化だと思うが、橋本治もどうやらプロフェッショナリズムの欠乏を危惧している。*1

*1:日本ほど素人天国な土壌はない。
歌が下手でも歌手になれる、文章が下手でも作家になれる、漫画が下手でも漫画家になれる。さらに今は、それらを無批判に取り上げるブログ世論がある。

インターネットがない時代も素人が幅を利かせる国だったが、ネットのせいでより助長された気がしてならない。この国はもともと馴れ合い天国だ。そこでは抜きん出た天才やプロより、「自分」に近くシンパシーを感じ同情もできる「身近な」素人が受けるのだ。
日本の(特に今の)オタク文化が海外で受ける理由には、そうした「プロフェッショナル不在の文化」が面白がられている側面があると思う。