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日本に漫画批評が確立しない理由

日本に本格的な漫画批評が定着しないわけ。

<1>本当に批評すれば、批判も盛んにやらねばならない。そのためには批評の基準――漫画の文法ではなく漫画の「良し悪し」――を定めなければならない。しかしそれを公言することは幾多の人間に噛みつかれる結果を招く。*1
伊藤剛は批評の基準を確立したと言いつつ、実際にしているのは漫画の文法を見定めることだけであり、東浩紀は漫画批評は周到に避けている。上の世代の呉智英夏目房之助竹内オサムまで含めて、良し悪しの基準を明らかにしないのは「大勢の人間に噛みつかれたくないから」である。東浩紀などそれをやったら体重は力士並に増え続けるだろう。

<2>そもそも批判に価する漫画が少ないという事実がある。称賛に価する漫画は幾つもあるが、下を見たらキリがなく、奈落の底と言える。
この状況で、「悪しき漫画を斥けて良き漫画を擁護する」などと言えたものではない。映画批評や文芸批評のようにはゆかない。

<3>しかし漫画批評が出版の売れ行きに影響するとはとても思えない。*2
漫画批評の読者など、どこまでいっても少数だろう。だから出版界が批評の影響力を懸念して抑圧しているという見方はナンセンスだろうが、ここに不可思議な現実が垣間見える。
それは、漫画界の人々が本格的な「批評」の到来を無意識に恐れているように見えるという事実だ。恐れているのは漫画家や漫画編集者だけではない。さっき挙げた一群の自称漫画批評家たち自身が、誰よりも本格的な漫画批評の出現を恐れているようなのだ。
その理由は彼等が食いっぱぐれるからではあるまい。これは個々人の利益を超えた日本の問題である。要するに彼等は全員、「そっとしておいてほしい」のである。波風を立てずに、協調性とお付き合いを尊ぶ今の環境を保持していきましょう、というわけである。
この精神は日本人の心に巣食い続けている。どうにも変わることはない。

*1:数多のオタクに。

*2:例えば柄谷行人蓮實重彦が幅をきかせていた90年代に純文学はバカ売れどころか衰退の一途を辿り、村上春樹批判は一群の文芸評論家が以前からやってたが、売れ続けたように。