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鬼頭莫宏は暗くないです

なるたる』はアニメのみ全話見ました。『ぼくらの』は3、4巻だけ読みました。
どうしてそれだけで語るのだ、といわれるとファンに対して申し訳ない気持ちになるが、端的に言えば「とりあえずこれで鬼頭莫宏の作風は理解できた」ということです。

細かい理由は後に書きますけど、そういう立場の人がのたまうことを前提にして、読んでほしい。

そもそも鬼頭莫宏についてはセカイ系の系譜で知った作家であり、Wikiや前評判で興味をもったわけです。以下、その資料になったもの。

そして表紙絵等に見られるファンシーな雰囲気は後になるにつれて姿を見せなくなり、性に対する作者のエゴとも取れる描写も多分に見受けられるようになる。 一方で性の陰湿さや暴力性、単純な快楽として描く反面、生を授ける為の営み、愛情の確認行為としても描かれる等、性=生という図式を命あるものの死と合わせて描いていく作品である。それは12巻での作者の巻末カバーのコメントに見ることが出来る。


なるたる - Wikipedia

しかし、その一方でAmazonのレビューは賞賛の声が多いものの意見が割れていて、批判派はボロクソに叩いている。

なるたる(1) (アフタヌーンKC (186))

なるたる(1) (アフタヌーンKC (186))

なるたる』1巻のレビューより。

<読書家の行き着いた先に>
最終巻までを読んだ上で評価します。
主人公のシイナは少女です。そのひとりの少女が、様々な出会いや出来事を経験し、最終的にひとつの答えを出すまでが「なるたる」という物語です。
従来、ひとりの少女にスポットを当てられた「成長物語」のような物はありました。多くはダメで不幸な少女が主人公。その主人公がいつしか希望を抱き、別れなどを経験して一歩オトナに近づくというものが挙げられます。
シイナは違います。家庭は母親がいないとはいえ、充実した毎日で、毎日笑顔で日々を過ごしています。要するに、既に希望を抱いているのです。なら、物語は真逆へ向かうことでしか「物語」にならないのです。
多くの人が挙げるように、「なるたる」には過激な描写が多々あります。そこには絶望しかなく、元あった希望がみるみる崩されていきます。
この作品は、読む人の年齢は問いません。ただ、いくつもの本を読んできた人に読んで欲しい。絶望的な内容を笑いとして取るのも楽しみ方でしょう。おもしろいよ、最期は笑っちゃった


<悪趣味>
友人に薦められて全巻読んだ。
率直な感想として、読まなくても良かった作品だと思った。
少なくとも人に薦めるような内容ではない。
強いメッセージを感じるが、その根源が作者の歪んだ先入観から来ているような気がして気持ちが悪い。

可愛い絵柄に騙されてはいけない。


<…読むと鬱になるマンガ>
…全巻持ってたときを思い出して考えてみるに。著者に「俺はこれを言いたいんだ!」とか「人間とはこうでこうでこうなんだ!」とか「人間の本質とは俺はこう思うのだ」とかそういう作品創作姿勢の主体性とか強固な信念がまったく無いのね。この漫画。ふわふわふわふわして。それが読者に恐怖とか不安として伝わるのです。無論私も含めた多くの人に。…それは多分、この著者もネクロフィリアシンドロームだからでしょう。「中学生に死の香りを感じる」とか何巻かで言ってるし。こういう言動やシーン極めて多いです。この漫画。客観的に考えて極めて異常で不快なマンガ。結局「多くの人の観てもらって感動してもらう」という芸術の本質を確信的に放棄しているのでしょう。著者の著しく歪んで暗い考えを「ただ機械的に発する手段としての為だけ」の媒介。それがこの著者にとってのマンガ。
こういう人はそもそも漫画家として相応しくないですよね。
ただの自己満足自己陶酔人間なら同人誌ででもやるべきで。
商業漫画家として極めて不適当です。

この一巻から終わりまで読むのならストレスや不安やに強い人。精神力に自信がある人。それ以外の人は読まない方が良いでしょう。
経験者は語る。

なるたる(12) (アフタヌーンKC)

なるたる(12) (アフタヌーンKC)

なるたる』12巻のカスタマーレビューより。

<なんなんだこれは>
最悪。
いや、性格的に受け付けないところもあるかもしれないけどとにかく最悪。中盤まではまぁまぁ良かったけれどナンダコレ
エヴァよりも不可解だよ。ていうか巻末に作者の言葉が書いてあるけど内容と関係あるようで全然関係が無い。
作中も自衛隊が出てきたりなんかしたりしてきて、思わせぶりな台詞や専門用語が飛び出しますけどよく考えてみると「だから何だよ?」というものが多い気がする。
でもまぁ、全体的につまらないわけでもないので全面的な批判も出来ないからなんというか中途半端でこの作品は難しい。
読み終えると「はぁ…」とうつになる作品だが、そういう作品を書けるのも貴重な才能なので本当に…これは中途半端だ。
だがこの人には「微妙な何か」が致命的なまでにかけている。だから全面的に賛成は絶対に出来ないが否定も出来ない。ゆえにこの作品は最悪なのだ。


<…もう彼の漫画を読むことは二度と無いでしょう。>

…なんなんだよこの終わり方は。…多くの人が見ること前提で売っている商業誌でこういう終わり方を許して良いんですかね。「自分の著作なんだから何をやってもどう終わらしても良いのだ」と考えているのならその時点でもう商業漫画作家として終わりのような気がします。
…なんか著者の読者を巻き添えにした自爆テロに遭ったような印象…描きたかった途中と経過を全部すっ飛ばして(恐らくこのテーマでやるのが飽きたかどうでもよくなったと予想)突然あのラストにワープする。全く予想してなかったので読んだ後すこし呆然。「未来へのメルヘン」と書いてありますがぶっ壊して作り続ける事を繰り返す「営みの何処に」真実のの未来がありますが。しかもメルヘンなら希望を与えねばならない。この終わり方で希望を持てて明るく楽しい気分になった人っているんでしょうか。「新しくメルヘンを『再構築した』」訳ではなく勝手にメルヘンだと思ってるだけです。編集部と著者が。

もう著者の著しく歪んだ思想と創作スタイルに当てられて辟易。内的に閉じられた世界観と思想でごく少数のファンの為に書くカルト作家として自分で会社作って自主発行ででもやったらどうですか。自分の著者に対して無責任過ぎますあまりにも。こういう終わり方にせざるを得なかった説得力のある必然性が果たして存在するんでしょうか。

私はとても許す気になりません。
読者にファンに対する最大限の裏切りだと思ってます。

なるたる』はアニメのみで知識も浅いですし、ラストを読んでいないので、つっこんだことは書きません。
しかし、『なるたる』を見たあとも、『ぼくらの』読んだあとでも、こうしたwikiの解説やAmazonのカスタマー・レビューで肩透かしを食らった気持ちになったのはどうしてだろう。(『なるたる』がアニメとして評価が低く、またそれを確かめた上でアニメとして質の低いものであったことを認めたとして、「内容」だけを見て思ったことにしても)

例えば、Wikiにある
>一方で性の陰湿さや暴力性、単純な快楽として描く反面、生を授ける為の営み、愛情の確認行為としても描かれる等、性=生という図式を命あるものの死と合わせて描いていく作品である。

ということだけ聞くと、面白そうでみたくなる。
しかし実は、以前から(オイラの)周囲の評判は最悪だった。

ある人は「残酷描写が耐え難い」と言い、ある人は「gdgd…」と言った。だけど、『なるたる』『ぼくらの』の殺戮シーンはグロくないし、残酷だと思わなかった。
>もう著者の著しく歪んだ思想と創作スタイルに当てられて辟易。
>強いメッセージを感じるが、その根源が作者の歪んだ先入観から来ているような気がして気持ちが悪い。

作者自身の思想が歪んでいるというか、側面的な思考の持ち主のようには感じるが、騒ぐほど酷いものではない。

実際、オイラは『なるたる』『ぼくらの』は、残酷シーンよりキャラたちのほのぼのとした日常の方が印象に残ってしまって、話題になった残酷描写はそれらを上回る印象を残さなかった。

いじめ、リスカ、レイプなどなど、それらしい要素は十分に盛り込まれているのに、表現が思ったより芸がなく、凡庸だった。『ぼくらの』で言えば、そうしたシーンがモノローグで語られていたのが主因かもしれない。

そうしたネームも言われているほどいいとは思わなかった。というか、可もなく不可もなく普通のレベル。
第一、ネームだけで感動したりしないし。ストーリーがしょうもないがネームだけよかったということはありえない。その上で、彼の作品が他より凝っているのは確認できたが、抜きん出てるとは思わなかった。
簡単に言えば、エロシーンが下手なエロ漫画とでも言えばいいのか。

不愉快にさせたり気を滅入らせたりすることは、何はなくとも技術が必要なのだと思ったりしたくらいで。

ぼくらの 3 (IKKI COMIX)

ぼくらの 3 (IKKI COMIX)

あー、待った。
この漫画、一箇所。
やっちゃいけねえ嘘ついてると思った。
それは嘘だ。 インチキだ。 インチキだと思いたい。

巨大ロボに乗って街踏み潰して数千人殺すのはまだいい、いいというか、わかる。
現実にだって、そうやって人を殺してきたんだから。ドレスデンとか東京とか長崎とか広島でさ。
「距離」さえあれば、人間は人間に対してなんだってできるんだから。

でも、それはやっちゃいけねえだろう。「ピッ」じゃねえよ。それで済むものかよ。
それはもっと、凄惨で惨めでかっこ悪くて最悪最低なものであるべきだろう!
とか思ったけど。わかんない。フィクションを間に受けすぎているだけかもしれない。

ただ嘘だ、インチキだ、と思った。
インチキだと思いたいと思った。


鬼頭莫宏『ぼくらの』3巻

>それはもっと、凄惨で惨めでかっこ悪くて最悪最低なものであるべきだろう!
という意見に激しく同意するが、実際のシーンは予想以上の肩透かしだったというか…。

鬼頭莫宏はエロ漫画の読みすぎなんじゃなかろうか? エロ漫画的展開しか頭に浮かばないエロ漫画脳?

初恋の相手が学校の先生だったけれど、その先生というのが変態ペド野郎で、ペド仲間に売られて陵辱されたのをビデオに撮られて脅迫されるって、そういう話をこの漫画でやる必要が何処にあるんだろうか? 前作の「なるたる」もそうだけど、こういう状況を描くことがシリアスであったり、センセーショナルであったり、ラディカルであったりと思ってる節があって、それが作品の底を物凄く浅くしていることにとっとと気付いて欲しい。こういう設定を持ち出す度に登場人物たちが薄っぺらになっていく。


http://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/07/3_1339.html

>作品の底を物凄く浅くしていることにとっとと気付いて欲しい。こういう設定を持ち出す度に登場人物たちが薄っぺらになっていく。

この手のことは文芸批評では繰り返されているので、漫画でもこの意見は正しいと思う。でも、『ぼくらの』3巻を読んで、ここまで思うこともなかった。

「ペド仲間に売られて陵辱されたのをビデオに撮られて脅迫される」という、言葉で見ると非常に過激だが、実際は淡々と進行して「はぁそうですか」という気分になってしまった。
ていうか、これより過激で不愉快な漫画なんて腐るほど読んだしなあ。
後期の岡崎京子作品の方が自分的には気が滅入るし、つのだじろうの方が怖いよ。(比較が変だが)もっと言えば、新井英樹の『ワールド・イズ・マイン』の方がインパクトがあった。
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)

余談だけど鬼頭莫宏には過剰に狂信的な信者がいて、Amazonのレビューにしてもブログにしても工作員っぽい奴が降臨していて嫌だ。
ていうか…ここにも降臨しそうだなあ。
他の漫画家でここまで擁護する読者って見かけないし、(押井守に粘着がいるのは理解できるが)鬼頭莫宏の知名度的に考えると逆に不自然だ。だって、さっきのブログの記事に対するコメントがこれだよ。

エロを切り捨てても、独特の世界観、味があると思います。
何度も読み返したい、心に残る作品を描ける作家だと思います。
エロエピソードのさじ加減もストーリーの中で必然で、破綻ない展開だと思う、いい意味で後味の悪さ、ストーリーのリアリティに華をそえてると思う。

名前: みぎゃえもん | 2005/08/06 15:23:45


「単に少女が陵辱されるお話」が読みたいんなら町田ひらくでも読んでなさいよ。ストーリーに何が必要で何が不必要か決めるのはあなたじゃなくて鬼頭莫宏だ。あなたがこの作品を気に入らなくて批判するのは結構だが、作家が自分の気に入るような作品を書いてくれないことに対して腹を立てるのはやめなさい。それはただのナルシシズムだ。大衆に迎合しなくてはいけないときもあるのかもしれないが、鬼頭莫宏宮崎駿じゃない。読みたくなければ読むな。

名前: あー | 2006/09/02 10:23:24

>作家が自分の気に入るような作品を書いてくれないことに対して腹を立てるのはやめなさい。それはただのナルシシズムだ

ていうか、鬼頭の漫画より、このコメントの方がぜんぜん不愉快で気持ち悪いんですが。
Amazonにも同じことをいっている奴がいたなあ。

このラスト以外にも、作中に登場人物に作者が託した山のようなメッセージは一人一人が考え直す価値は十分にあります。これを作者のエゴとして切り捨てるのはそれこそ読者のエゴ。
その意味でこの作品は間違いなく名作です。


Amazon.co.jp: なるたる(12) (アフタヌーンKC): 鬼頭 莫宏: 本

同じ奴かもしれないな。
で、閑話休題

なるたる』『ぼくらの』における欝展開は、作家によっては本当に救いようのない描き方が出来ると思う。

でも、鬼頭莫宏の描く鬱展開が「ぬるい」の一言で終わってしまうのは、一重に「描き方」=「表現」が大したことないせいだと思う。オイラの想像を凌駕する「表現」を獲得できていないというか。「もっと絶望させてくれ!」と思ってしまったわけです。

ですから、「作者でてこい! 説教してやる!!」って気分には到底ならない。
この作品で一喜一憂できる読者は、「内容」しか見ていないのではなかろうか。
「ストーリー=字面」どおりの「内容」で、鬱にもなれるしハッピーにもなれる。
しかし、「字面」が過激な「内容」であっても、それを上回る「表現」がなければ、感動しないと思うのだが。

ていうか、例えば『なるたる』に登場するいじめのシーンももっと陰惨に描けるだろうし、『ぼくらの』にある先生に裏切られるシーンだって、もっともっと残虐に描けるはずだ。
青年誌という枠の中で過激な性描写ができない、という制限があるのかもしれないが、感情をゆさぶるカタルシスもないし、有害図書的な危うさや毒もない。

つか、この人、鬼才とか異才とか言われているけど、オイラからするとごくごく凡庸な漫画家だ。特殊でもなんでもない、暗めの話が好きで、『エヴァ』が好きで、みたいな。普通の感性すぎて、それは退屈なほどだ。
もしかして、こうした残酷なネタを淡々と描くことができるから鬼才と呼ばれるのだろうか? でもそれって普通「ヘタレ」と呼ばれはしないか…

大体、本当に特殊な作家は簡単に言葉で語られたりしない。
池上遼一松本大洋より真面目に論じられたことがあるか、くらもちふさこ岡崎京子以上に論じられたことがあるのか。
彼らの作品を読めば、普通じゃないことは誰の目にも明らかだし、キャリア的にも大巨匠であるのに、未だにまともに論じられてすらいない。
逆に鬼頭莫宏(やサブカル系漫画家)は語られすぎというか語りやすい分、(オイラから見て)凡百に見えるのだ。

BLUE (OHTA COMICS)

暗い作品と言えば、オイラは山本直樹の『BLUE』の方がぜんぜん暗い。読んだ直後は「鬱だ死のう  orz」 ってなった。
『BLUE』はあらすじだけ書けば、『ぼくらの』3巻に比べると、なんてことない話だ。

主人公の灰野はひょんなことから肉体関係を持った女子高生・九谷とやりまくる日々を送っている。
しかし、九谷には灰野と関係を持つ以前から、高校のOBであり双子の大学生と関係があった。灰野はそのことを知っていながら関係を持ち続ける。

他にはブルーというドラッグが出てきたり、主人公が自殺のフラッシュバックに襲われたりする。こうした要素は要素でしかないので、大枠だけを抜書きすると、概ねこういう話になる。
しかし、「状況を何も変えずに見ているだけの主人公」は、気が狂いそうに歯がゆく映る。
本当に愛しているのなら、他の男と平然と寝る彼女の行為を何故咎めない? 何故、主人公は自殺の幻影に悩まされたり、そんなことで日々を費やしているのだ?
確かに一度、彼は彼女に駆け落ち話をもちかけた。しかし、彼女は「冗談だろう」という。主人公は「冗談だよ」と答える。
そして、関係だけがずるずると続いていく。

どん底に暗いと思った。

それは主人公が本当に彼女を愛し、彼女も主人公を愛しているのか、確かなものが一切存在しない、「愛してる」という言葉さえ空虚に響くセックスの日々。
この気持ち悪さは、セックスが男女における「愛の確認的営み」という社会通念上の解釈が前提としてある場合、『BLUE』で描かれる男女の性関係はそれとは対極な−−もう一つのセックスの側面−−感情の含まれない「動物的なセックス」が、「思春期の少年少女の通じ合えない関係」という名のオブラートにくるまれ、さもそれが(=売買春なセックス)「別の意味が内在している」かのように差し出されているからだ。

しかし、今書いたようにオブラートにくるまれているから、「あっけない回答」が(まるで村上春樹の小説の如く謎が謎のまま)不可視に進行し、読む者を不安にさせたり鬱にさせる。
(この頃から山本直樹は今に至るまでまったく変わっていないと思います。今の作風は既に『BLUE』で確立されていたわけで、『BLUE』が名作で、今の作品は「違う」という意見は甚だ賛同しかねる。完璧につながっています)

要するに、これら全てを「表現」で見せることこそ「芸」なわけで、山本直樹はその技術に長けている。
だけど、作者的には無自覚でやってるんだろうなあ。

無自覚故に、オイラのような読者は鬱になる。確信犯であればまだよかったのに、彼らは「これこそが真実だ」といわんばかりにクソ真面目に語る。

エヴァ』もその例で、あれは庵野秀明の自意識によって構築された「世界のネガ的作品」でしかないのだけれど、故に彼の口調はガチだ。
で、庵野はそうした「自意識の投影」を「表現」から考えることができた。
だから『エヴァ』は本気で欝になったり全力でガチンコ衝突できた。
じゃあ鬼頭莫宏はと言えば、彼の口調が彼ら同様クソ真面目なことは変わらない。しかし、内容面でしか語っていないため、オイラには届かない。

つまり、どん底を描きたいのであれば、「表現」を工夫しないとダメだという話なわけです。

少年 [DVD]
例えば大島渚の『少年』は、当たり屋の少年の物語で、性描写や殺戮シーンもまったくなく、はたまた村上春樹的な隠蔽の小細工もなく、ただただリアリズムを追究しただけだが、驚くほど暗く、孤独で残酷な作品として有名だ。
父親に当たり屋になることを強制された主人公の少年が、高台から何度も落ちる練習をした後、誰もいない道端で「父ちゃん、できたよ」と独り言を言いながら泣いたり、雪の中を兄の名を呼びながら追いかけてくる幼い弟とか、主人公が「僕は正義の味方になりたかった」と雪だるまを壊すシーンとか、そういった「当たり屋の物語=内容」と切り離された場面に、逃れられない運命の残酷さが集約されている。

しかし鬼頭作品からは、こうした皮膚感覚の「痛み」「苦しみ」「絶望」が伝わってこない。

ところで『COMIC新現実』5号、みなもと太郎「トーク版お楽しみはこれもなのじゃ」(インタビュアーは大塚英志)を読むと、大塚が、鬼頭莫宏の『なるたる』の「壊れ」について語っている。その「壊れ」は、ストーリーのレベルはもちろん、絵のレベルにも関連しており、そのせいで『なるたる』は「しっくりこない」と。しかし、どうなんだろう。そのことについては、大塚自身がうまく言語化していないので、なんとなくで推し量るしかないのだけれども、僕なんかの感覚だと『なるたる』というか鬼頭の作画は、壊れているようには見えず、むしろスムーズに読みやすいし、しっくりくる。


『ぼくらの』第3巻 鬼頭莫宏: Lエルトセヴン7 第2ステージ

>「壊れ」は、ストーリーのレベルはもちろん、絵のレベルにも関連しており、そのせいで『なるたる』は「しっくりこない」と。
大塚英志は、「表現」と「内容」の不一致が「しっくりこない」と思っているのではないだろうか。
(件の大塚英志の文章を読んでいないので、詳しいことはわからないが)

というか、鬼頭作品が暗くない最大の理由は、「悪人を描けない」ことにあると思う。

しかし、鬼頭作品に動揺したり感動したりする読者が予想以上に多いことを考えると、ぶっちゃけヤバイと思う。

作品を「内容」でしか理解できず「表現」に目がいかないというのは、作品を「情報」としてしか見ていない証だ。
作品がバーコードのような「情報」でしかなければ、表現や記号、絵の上手さ、見せ方、演出などまったく問われなくなっていくのだから。
読者が「表現」を見つめなければ、漫画家は何のために「絵」で物語を「表現」することに砕身するのか。「情報」でしかなければ「絵」は必要ないのではないか。
−−という問題にぶちあたりませんか。

「表現論なんてつまらん、蓮實重彦の受け売りはもう古い」と言う人がいるけど、表現について論じることは、「何故作者はそのときそのように表現したのか」を問うことであり、翻って言えば作者の立場から論じることであって、つまらないとか面白いとかいう次元じゃないと思います。
作者の「真実」を汲み取ることが、作品に対する思いやりであるから、表現から語るのです。例えば漫画家が誉められて一番嬉しいことが常に「絵」にあるように、です。