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ミリオンダラー・ベイビー<容赦ないネタバレ感想>

ミリオンダラー・ベイビー [DVD]

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蓮實重彦が昨年の映画ベスト10で、『ミリオンダラー・ベイビー』を入れていなかったらしい。だのに、『宇宙戦争』と青山真治はベスト10入り。ほぼ中原昌也阿部和重におもねる結果。

終わっている。

このじいさんから学ぶことなど何もない。表層批評は使えるけど、この人は昔からリアリストを評価してこなかった。
リアリストな映画監督(イーストウッド大島渚など)について言及する場合、どうしても映画に描かれる社会的な部分に言及することを避けて通れないが、それを拒否するといって『ミリオンダラー・ベイビー』が『宇宙戦争』より劣ることは決して無い。
そうした表明を避け、中原やアベカズと同調する時点で映画評論家として終わってると言いたいのです。

さて、今作は公開当初から賛否両論まっぷたつに分かれた。誰もが「すごい」と認めながらも「重すぎる」といった口実で、絶賛することへの言及を避けたといった方が正しいか。

町山智浩氏も

この映画は、去年亡くなったハリウッド俳優の長年にわたる死闘を無にするような主張だとも考えられるので、ハリウッドの人たちは投票しにくいだろう。


「ミリオンダラー・ベイビー」がアカデミー賞を取りにくい理由 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

町山氏は「映画業界人は評価しにくい」としているが業界人に限った話ではなく、イーストウッドはフランキーの決断の是非をすべての観衆に投げかけている。
その問いのイエス・ノーは観衆を大きく試すことになるだろう。

なるほど、フランキーの決断を肯定することは保守的な人には多大な勇気を要することかもしれない。肯定は同時に「世の社会制度や規範を決して正しいとは思っておらず、人間を不自由にするシステムだと疑っている」ことも暗に表明することになるからだ。それは社会的に危険思想だと見なされる可能性がある。
そのために『ミリオンダラー・ベイビー』は絶賛されにくい作品となった。

しかし、描かれているのは「一途な女性ボクサーが、その不遇な人生において一時だけ脚光を浴び成功を収めるも不慮の事故によって障害者となり自らの死を望んだ」というものでしかない。
マギーにとってボクシングこそ生きがいそのものだった。人生の全てだった。闘うことが生きている証だった。それを失ったマギーは「死んでいるように生きているだけ」でしかない。
「生きがい」を根こそぎ奪われたマギーの失ったものの甚大さは、彼女を自然と死の選択に導いていく。

罪のないマギーに突如襲いかかった悲劇と残酷な運命に、見ている誰もが「何故だ」「どうして」というやりきれない思いを抱くだろう。そして、その結末を受け入れようとしながらも同時に逃げ出したくなるほどの重い問いかけに固く口を閉ざすだろう。

イーストウッドは以前から現代アメリカ批判の立場で映画を撮っていた。いや、決定打となったのは前作の『ミスティック・リバー』だが、『許されざる者』ではまだ「善悪」を描いていたのに、『ミスティック・リバー』では英雄などいないと断言し「殺人はいかなる理由があろうと肯定されるべきでは決してない」という姿勢を表明した。
ミリオンダラー・ベイビー』は「自殺幇助」というキリスト教圏最大の禁忌を、フランキーに犯させる。そして彼の決断を観衆に投げかけたまま幕を閉じる。

作中フランキーは敬虔なキリスト教徒として描かれており、さんざん苦悩した末にマギーの望みを叶えることを選ぶ。しかし、それは本当にキリストへの裏切り行為だったのか。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

これは『マタイ伝』の有名なキリストの言葉だ。
「絶対的超越存在=神」の真実をみごとに言い当てていると思う。また宗教が争いを引き起こす引き金になることも予見している。
神とは「癒し」の存在ではなく、争いをもたらすものであり、自分自身すらそうだとキリストは断言する。

「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」

フランキーが裏切ったのは彼を支えた周囲の人々、教会や神父、そしてアメリカ社会そのものだった。
それらを裏切ることで、分身のように愛していたマギーの願いを叶える。フランキーがマギーに与えてやれる全てはマギーの望みを叶えること。それが神から与えられた己の使命だとフランキーは信じた。

「神」とは言い換えれば「自身の正義をつかさどるもの」だ。フランキーは神=自身の正義にのっとって禁忌を犯した。
そして、それと引き換えに彼は全てを失った。だからマギーを殺した後の、彼のゆくえを知る者は誰もいない。

フランキーの決断は、キリストの言葉のとおり「信じることは裏切ること」に通じはしないか。
そして今作は全編モーガン・フリーマン扮するフランキーの友人・スクラップの語りではじまり終わるせいか、フランキーは現代の聖人伝説のように思えてくる。

その上で町山氏の予想を裏切り『ミリオンダラー・ベイビー』がアカデミー賞を受賞したことは素晴らしいことだし、受賞を決めた審査員の英断には敬服せざるをえない。