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才能の無さに「絶望」した/『ぜつぼう』本谷有希子

ぜつぼう

ぜつぼう

今さらだけど、オイラがアンチ松尾を標榜していることはいうまでもなく、その弟子にあたる本谷有希子も相当イタイと以前に書いた。
ところが当時、彼女の小説は読んでいなかった。ので、読んでみた。
筆者3冊目となる本作は、『群像』に掲載された長編だが、驚いた。

3冊目にしては「下手すぎる」!!!!!

ロックンロールミシン』というしょぼい小説でデビューした鈴木清剛でさえ、最近はやっと「普通につまらない小説」のレベルになったと聞いていたが、書けばそれなりに地味にも派手にも上達するのが小説の世界、しかしそれは本谷有希子には当てはまらない。

理由はおそらく彼女が、小説を読んでいないままに書いていることにある。読めばそれが、一目瞭然で分かる。
例えば、本作は3人称の神視点で書かれているにも関わらず、「描写」と呼ばれるに値する部分が、芝居の脚本のト書きレベル。
彼女の個人的体験を照らし合わせたものになっている。

  • 昔何かのホラー映画に出ていた子役の顔が渋すぎて、人生の苦労がにじみ出すぎていて「その歳で何があったんだ、お前」と驚いたことがあった。
  • 顔立ちはNHKで見たことのある浄瑠璃人形にどことなく似ていた。

「いつか見た〇〇に似ている」なんて言われても、作者の個人的記憶であり、読者は関知しません知りません。何だこのお子様作家は。勘弁してくれ。やめてくれ。

さて、伊達に長い読書人生送ってきたわけではないオイラ。
いろいろ読んでまいりましたが、外国文学日本文学ふくめ、書籍の形態をとっている数多の小説に、たった一つだけ共通点がありました。それは…
「いかなる作家であれ、多少は本を読んでいることを感じさせる文体を獲得している」
という大前提だった。

以前のエントリーで本谷の文章は、山田悠介レベルじゃないだろうか、ということを書いたが、山田悠介は「小説なんて読みません」と公言しているので、買った人には同情の余地はないと思っていたが、こうした推理、「本谷有希子山田悠介に勝るとも劣らない」という予感は見事に的中しました。さすがです。

ぶっちゃけ本作における小説テクニックは文芸同人誌以下です。絶対に真似してはいけない。下手な小説のいいお手本です。
そもそも小説を読まずに書いてる本谷に、一枚5000円の原稿料を支払っているバカでアホな編集者、恥ずかしげもなく芥川賞候補にノミネートした編集者は、辞職するに値する。

大塚英志が「文芸誌の編集者に若い編集者はいらない」と言っていたが、本谷を評価している編集者は、きっと若い奴ばかりだろうし、碌に本も読んでいなくて、前歴が『FRIDAY』『週刊新潮』の編集をしていたといった程度の、小説なんて分かっていない、ズブの素人と断言していい。
「本谷さんは既存の文学に果敢に挑んでいるんです! なんて斬新で新鮮で個性的な表現や文章の数々!」なんて抜かす、アホんだらなメンヘラは、全員、目玉がビー玉で脳みそは豆腐くらいに思っていい。

本作には普通の小説に登場しない比喩や表現が頻出し、本読みを奈落の底へ、今までの読書経験を一気に瓦解させるほどの破壊力はあるが、それだけ。そんな思いをしたい人には勧めます。

正直、ここまで評価以前の作家だとは思わなかったので、批判するだけバカらしい。[これはひどい]タグを使いたくて仕方がないくらいに。

だから、ここではその一端を受賞形式でご紹介します。

<作者はお腹が空いていたので賞>

  • この村の民家の隣には決まって小さな畑がまるでごはんにとってのみそ汁、といった具合に存在している。
  • 落ち着けと自分に言い聞かせたが、心臓は取れたての魚のように勢いよく跳ね上がり続けていた。

<普通の小説にはない表現で賞>

  • シズミの足元へコツコツと苗箱を積み上げ、黄金期には最高で11枚ものアドバンテージを獲得することができた。

<何を伝えたいのかわからないで賞>

  • 数年来の知り合いであるかのような気安さでありつつ、その渋い声と無表情に近い顔の印象で親しみやすさは無いに等しいという珍しい第一印象。
  • そういった視線が何を意味するのかさっぱり少しも微塵もあいにく残念ながらからっきしまるで分からない

描写が社会時事になっているで賞>

  • そこは、法律によって無理やり設置されたことが一目で分かる申し訳程度の憩いの場だった。

<ありえない比喩で賞>

  • 威嚇するような音を鋭く放ちながら、踏み切りの遮断機が目の前をゆっくりと下りていく。
  • 男は、突如現れた子供の落書きから飛び出してきたような戸越と

<作者の感想はいらないで賞>

  • シズミは、手動のレバーで前回にした窓から大胆に風を受け、乱れた黒髪に顔をすべて覆われるという気味の悪い様子でのんきに鼻歌を歌っていた。子供が見たら絶対に泣く、と戸越は思った。

森茉莉賞(あるいは、言い訳するなら削除しま賞)>

  • ほとんど便宜上、水に浸けるだけという官僚の天下り的な、そういった比喩が正しいかどうかもこの際どうでもよいという−−つまりこれ以上ないほどのやっつけ仕事ぶりを発揮し始めた。

ここに列挙したのはほんの一部であり、「おかしい」といったら全編が「おかしい」。
こうした描写とも呼びがたい描写が延々とつづく。
当然、映像センスもからっきしないので、恐ろしいほど像を結ばないし、このような描写なら通常は削除修正させるのが妥当であることを考えると、長さも1/3はカットできる。
編集者は一体、何をしているのか。これでOKを出すということは、単なる給料泥棒だ。
ついでに、本作最大の見せ場、いわゆる「カタルシス」と呼ばれる−−作者的には呼ばせたい−−場面だが、あまりに貧困な描写力に腰が砕けそうになったので紹介しておく。

じっと自分の一挙手一投足を見つめている女に向かって渾身の踊りをささげた。魂のどじょうすくいだった。魂の宴会芸だった。

魂のルフランだった、とくれば完璧だったのだが(笑)

他にも「緊張感もへったくれもない音」とか、「なかなかにどうしていいかわからない」とか、小説を読んでいることをすっかり忘れさせてくださる表現が登場しまくる。
文脈の矛盾も相当なもので、「何を言っているのか分からなかった」と書いた直後で、分からなかった部分について会話がはじまったり、ヤリチンだったと書いた直後に「若い女は苦手だ」と書いたり、あげればきりがない。

あらすじは、まんま『電波少年』の猿岩石とかドロンズをネタにしている。モチーフというより「ネタ」。
要するに、一発屋で終わって落ちぶれた若手芸人を主人公に据えている。不眠症に悩まされる主人公・戸越は、ふとしたことから浮浪者の男性に田舎の住居を譲り受け、そこに移り住むというのが主な内容。

昔に売れなくなった猿岩石が、久しぶりにテレビにでて「最近ではちっとも売れなくて、仕事も干されて悲しいですよ」と嘆いたら、YOUが「じゃあ、死ね!」って叫んでたけど、本谷有希子はこの番組見てたのかもしれない。それで、売れなくなった猿岩石を絶望している主人公のモデルにした。

確かに、猿岩石は売れなくなって悲しがったとは思うが、「絶望」決定する時点で、失礼じゃないかと思うのです。猿岩石や一発屋をバカにしすぎじゃありませんか。
あの連中を擁護する気も無いが、こんな形で勝手に小説のモデルにされて、貶めるようなこと書かれて、「絶望」をつぶやかせるまでに落ちぶれてはいないのではないですか。
というか、「一発屋って絶望的」なんて考えるのは、本谷有希子くらいじゃないのか。ほんっっっとに、自意識過剰なねーちゃんだな! 
実際、こういう奴はまず人の話なんて聞かない。自分のことしか言わない。
自意識過剰さが冒頭から押し付けがましくて、うんざりする。本谷の独我論独壇場。もう少し他人のことを考えろと説教すらしたくなる。

それでですよ、小説読んでいないことがあからさまにわかる文章力で、小説などちっとも好きでもなんでもない奴に、小説を書かせて100万以上の金を支払っている編集者や、それに甘んじる不勉強ながらに無知の代名詞・本谷有希子を考えると腹が立ってきます。はらわた煮えくり返ります。

そもそも「ぜつぼう」という思わせぶりなタイトルといい、絶望という気負ったテーマをこの文章力で書いてしまう厚顔無恥ぶりといい、「絶望」という言葉を文中で100回以上は使っていることもあわせて、殊更に主人公の「絶望」を強調するあたりなど、小説のテクニックとしてはゼロ以下です。
作家が強調すればするほど、言葉が空回りしていることにちっとも気づいていない。
無頓着なオウムのように繰り返すところを見ると、本当に小説を読んでいないんですね!

そんなこと、読書家の皆さんは誰でも気付いていますよね!
でも「はてな」でレビューされている多くの方が「面白い」と感想を書いていたのを見て…オイラは……
絶望した!
引用の例を見てもらえばいいが、これを評価する人は残念ながら、「目玉はビー玉、脳みそ豆腐」認定です。ごめん。

そもそも

「今が最悪の状態」と言える間は、まだ最悪の状態ではない

というシェイクスピアの有名な言葉を本谷有希子は知ってるのだろうか。
常識ある演劇人だったら、この言葉を思い出し、とどまると思います。知ってて書いてしまうのであれば、同業者から笑われることを自ら選ぶというか、相当な羞恥プレイ好きではないかと思われる。

つーか…知らないだけなんだろうなあ。
シェイクスピアなんて過去の遺物ですか。そうですか。すごい業界ですね!

死に至る病 (岩波文庫)
それに主人公の「絶望」って本当に絶望かなあ。
「俺は絶望しているがゆえに俺なのだ」「絶望は証明された」なんて平気で書いているけど、キルケゴールの言葉では「人が永遠的な自己を持っているという事についての絶望的な無知」を「死に至る病」と定義しているし、「絶望とは死に至る病である」って言ってて、「死に至らない絶望」とか「アイデンティティーとしての絶望」なんて、絶望じゃないんじゃないですかぁ。
その辺のイロハというか、言葉に対する鈍感さにしても、そんなんで作家になれるってすごいですよねえ。

なんか、こんな風に書くと、本作の「絶望」の意味が絶望先生の「絶望した!」と寸分違わないと思われそうだけど、実際そうです。でも、作者的には違うようです。大真面目に「絶望」を論じているんだなぁ。

この無知無能っぷりに「絶望した!」。

しかし自分には復讐の相手がいなかった。強いてあげるならブームに浮かれた世間、日本国民全員だ。数が多すぎる。そう思った途端何もかも見放された気分になり、
「畜生………!」
と叫んだ戸越は砂場へ走りこんで、そこにできあがっていた小山を滅茶苦茶に蹴り崩した。乾いた砂粒が周囲へ見境なしに飛び散っていく。<略>
「こんなことになるならブームになんかなりたくなかった……! なんで俺だったんだッ? 終わっている人間になるくらいなら何も始まらない方がよっぽどマシだった! 畜生、なんで俺だったんだよッ?!」

「こんなことになるならブームになんかなりたくなかった……!」と恥ずかしすぎるセリフを叫ばせた時点で、主人公の絶望の浅さは垣間見れるのですが、「ブームが去って絶望した」とほざいたら、毎年3万人以上でている自殺者や遺族たちに総がかりで恨まれると思いますし、絶望を叫びながら死ぬ気はまったく無い主人公の「絶望!」が登場するたび、ユーモアの欠片もなく大真面目な筆者の筆致を見るにつけ、滑稽感さえ漂ってくるのですが、反面、本気で「鬱だ死のう」と追い詰められている人を軽んじているのではないだろうかといった気分にすらなってくる。(長文)

だからこそ、賢い作家ほど「絶望」などモチーフにしないわけだが、その辺の判断すらできない時点で、たかが知れている。

そもそも、落ちぶれた芸人の主人公に対する冷酷な社会の仕打ちが、あまりにも牽強付会で不愉快だ。
われわれを取り巻く社会は、情に溢れてもいないが、逆にここまで冷酷ではない。もっとも冷酷な日本社会を描くのであれば、犯罪者の家族にむける視線に他ならない。
たかが、売れなくなった芸人に対して、日本人はここまで冷淡にはならないはずだ。それは小説の世界でも同じことで、小説が社会を映し出す鏡だとは決して言わないが、だからといって、一辺倒で薄っぺらくてもいいという口実にはならない。

最後に装丁について言わせてもらうが、表紙絵は黒田硫黄
黒田硫黄の株は地につきました。いくら仕事とはいえ、こんな小説の表紙をひきうけるなんて、スニーカー文庫の挿絵ならいくらでもやるけど、本谷だけは勘弁してほしいと、オイラだったら沽券にかけて思いますね。

つーか、本谷有希子の才能って要するに、文才はからっきしゼロだけど、文壇政治っつーの? 業界操作というか、出版社の寄生虫みたいなもので、それだけがうまい人なだけじゃないですか。

小説自体は単なる下手糞な素人小説にしか過ぎないし、それ以上の感想なんて抱けない。正直。でも、これで金もらっている本谷有希子のステイタスを考えると何だか、腹の底から怒りが湧いてきます。

文芸誌で受賞しても1作しか掲載されずに消えていった作家、本をだしても作家として食えずにサラリーマンになった元・作家はたくさんいます。
そうした作家たちの中には、『ぜつぼう』の主人公のように絶望するどころか、小説を「諦めきれない」で悩んでいる人も多いだろう。
選んだ道を愛していればこそ、「絶望」などできない。「絶望」できないからこそ、悩むのだ。
こうした表現者なら誰もが持っている「情熱」や「熱意」すら理解できない、描けない本谷有希子こそ本当の意味で「終わっている」のではないか。

こうした作家たちに比べて、本谷有希子が持ちえているものがあるとすれば、「文壇的コネを利用した政治の上手さ」しかなく、大体、本谷有希子のレベルでは文芸誌の新人賞に応募したって、1次審査すら通過しないことはすぐに分かる。
なのに、どうしてこいつが本を出せるのかと言えば、松尾スズキの弟子にあたる劇団人であり、似非タレントな七光りで、若い女で、文壇政治が殊更にうまいだけの、こざかしい才能に長けているだけじゃないのか。

何度もいうが、この責任を負っているのは、昨今の文芸誌編集者だ。
早稲田文学の作家だった知り合いは『早稲田文学』が休刊したことで、『新潮』に持ちこんだが、門前払いされた。
早稲文の作家を掲載しないくせに、本谷有希子の下手糞な小説は掲載しつづける『新潮』の編集者は死ねばいいのにって思います。

蛇足だが、本谷有希子が「文化系女子」の代表として扱われているけど、本読んでいないのが分かる時点で、ぜんぜん「映画や文学に造詣が深い女子」じゃないと思いますね。若い頃の松浦理英子が「文化系女子」言われても分かるけどさ。
仮に、彼女が代表であるとすればだ、「文化系女子」は「自意識過剰なねーちゃん」という認識にさせていただこう。

ついでに書くけど、本作の直後にエリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』を少しだけ読んだら、すっげー上手いよ何コレってなるほどに鈍った小説の勘を返してほしいと思った。



<初>本谷有希子『ぜつぼう』(単行本)  −★★★★★ マイナス150点