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妖術記/河野多恵子

妖術記 (角川ホラー文庫)

妖術記 (角川ホラー文庫)

現役・芥川賞選考委員にして、愛して止まない河野多恵子先生を久しぶりに読みました。
本作を昔に石原慎太郎が誉めていて、何でも河野多恵子のファンなんだそうだ。

石原と同じ趣味だったことにへこまされたわけだが、大方の河野多恵子の読者が学者・教授・作家だというのは知っていたので、いいんだ…別に。
むしろ、同世代で好きな人に出会ったことがない方が問題なのだ。
今の若者は舞城王太郎西尾維新は読むのに、何故、河野多恵子は読まぬのか。河野多恵子のがずっと危険で刺激的な文学なんだけど。

最初に断っておくと、本書は河野多恵子の中では「並」程度。(ということはこれよりいい小説は他にあるっつーことだ)
書かれたのは70年代後半。
今回は<魔女奇譚>になっている。一貫した「サド・マゾ」「少年」のモチーフは基本的に変わっていない。

それで何でか、この本だけ角川ホラー文庫。ホラー文庫はこれだけ。つーか、河野多恵子ってホラーか? 確かに怖いと言えば怖いが…どう考えてもセレクトミスな気がする。
河野多恵子をホラー文庫にいれるなら、古井由吉の『櫛の火 (新潮文庫)』、『聖;栖 (新潮文庫)』、『杳子』のが優先されるべきでは。
杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)古井の小説は女が壊れていく話が多くて、これより怖い小説って読んだことないんだが。

それも半端な自我崩壊というレベルではなく、正真正銘の電波。
まともだった主人公も感化されて、どんどんおかしくなってく。刺すか刺されるかといった極限状況に追い詰めあいながら、風呂にも入らない電波女とやったりして、一緒に電波ゆんゆんな行動して、ぶっ壊れていく様はすげえ不気味なんだけど。
それを空気まで分かるような粘着文体で(これが恐ろしいほど名文)、じっとりと描写するわけだ。
ほらー、ホラーだ。ホラー文庫。

それに比べれば本作は怖くない。
河野多恵子の文体は、綺麗に積み上げられたモザイクタイルのような印象があって、静謐かつ洗練されており、一文足りと無駄も隙もない。感情に流されず淡々と流麗に、知的な文体で狂気がつづられる。

あらすじは、作家志望の30代の女性がある日、ふとしたことから超能力を手に入れ、念じるだけで人を殺せるようになっていくという話。主人公視点で、手記の形をとっている。

解説は奥泉光。奥泉のいう「西洋文化に影響を受けて書かれた日本版魔女譚」といった解釈はほぼ的を得ている。

なので、奥泉光の言葉を借りて、紹介するけど、本作で繰り返されるのは、「悪」とは何かという問いであり、主人公の犯す悪行は自堕落とは無縁にある。主人公は能力を物欲にも復讐にも結びつかせず、禁欲的な生活を送りながら殺人を重ねる。
それはただ純粋な「悪」への鍛錬であり、彼女はそれを「仕事」と呼ぶ。そこで、彼女は自問する。
「自分にとって何故悪に魅力があり、善には魅力がないか、多少なりともうなづけるような答えはないものだろうか」と。
至った結論は「わたしにとっては、背き甲斐のあるほど絶対力を感じさせるものは、もともとないのである」と考える。

つまり、西洋のように宗教的な超越存在がない世界における悪は可能か。
可能であれば、それは「生命」そのものへの反抗ではないのか。
そこに悪の根拠を発見する。これが主題である。

全体解説をすればこうなるが、この部分は面白さとは無縁かな。
この小説の面白いところはやはり、河野多恵子特有の相変わらずの少年に対する偏執描写だ。

例えば、こういう場面。
小学生くらいの少年が新聞配達人のおばさんを転ばせようといたずらを仕掛けている場面に主人公が遭遇する。
現場を目撃した主人公は、少年をつかまえて折檻するんだけど、なんつーか、やばい。

わたしは掴んだ手の前髪をねじって、もう片方の手で少年の頬を平手打ちした。<略>
「あなたは行けば?」
前髪を捉えられたまま両の拳を振り回し始めた少年に神経と体力を集中させながら、わたしは近くへ来ているのが女新聞配達人らしい気配に、「−−私の知っている子なのだから」と実は知らない少年のことを、そう言った。

この後、主人公は一旦少年を解放して、二人で並んで歩き始めるのだけれどまた「おかしい」方向にいくんだ、これが。

少年のほうへ一瞬身体の向きを変えかけて、変えずに真横から左手で少年の肩を抱きしめ覗き込むと、わたしは右手をその咽喉へ当てた。これほど掴みたい、緊めあげたいものがあるか、とその掴みたい緊めあげたいものが−−その掴んでいる緊めあげているものが、素早く問い、右手の掌と五本の指のどこかをせわしい動きで掠めた。少年の瞳が疑惑の恐怖で変わった。わたしはそのすべてを懸命な瞬間の笑いでおおった。

この場面まで主人公に少年嗜虐的な部分の言及は一切なかった。
それが突然、偶然遭遇した少年をつかまえて、恐ろしく冷静なまま折檻し、首を絞めることが、ナチュラルに描写される。
というか、ここのくだりが殺人のシーンより怖かった。

河野多恵子の描く主人公で、特に若い女性の場合、倫理的で知的で堅そうなのに、そのほとんどが、恋人の男性に対しては「わたしを殴って! もっと強く」と懇願するし、逆に少年に対しては、嗜虐的かつ偏執的になって、苛めたり、後をつけたりする。
「男性にはマゾになり、少年に対してはサディスティックになる女」ばかりを登場させるわけで、それが特殊でも異常でもなく「普通のこと」のように描かれる。これが河野多恵子の特徴で、実はそれこそが女性の「欲望の在り方」を見事に描き出している気がするのだ。

というか、こういう性癖を持つ女主人公が魅力的でたまらないのだが…変かなあ。

話はそれるけど、女性の持つ「少年なるものへの欲望の典型」と言えば、ボーイズラブがあるわけだが、オイラが今まで読んだボーイズラブで「おっさん受」にしろ「リーマン受」にしろ、属性こそ「成人男性」だが、描かれる「おっさん」は「リアルおっさん」から程遠く、例えばギャランドゥーがなかったり(笑)、おっさん特有の描写がなかったりする。
登場するのは常に「美しいおっさん・おじさま」ばかりで、肉体的には「美少年が衰えず年を取ったかんじ」であって、実に非現実的なのだ。

例え男臭いおっさんキャラが登場しても、誰もが少年的な風情を漂わせているし、「美しい筋肉」云々という描写に遭遇することも多いし、肉体的には精悍な少年の印象があり、精神的には少年っぽさや未熟な感じが残っている。

で、腐女子はこれらを「801はファンタジーですから」といった方便で済ますわけで、「それ書いたらサブになっちゃうじゃん」って言うけど、本当にそれだけかなあ。本当は「おっさん」的なものには欲望を微塵も抱けないからじゃないかなあ。
「少年的なるもの」にしか欲望を抱けないだけではないかなあ。
と言っても、ボーイズラブに詳しくないので、間違っていたら申し訳ない。

仮にこの説が正しいとすれば、河野多恵子が描いているのは、まさにこうした女性の「欲望のあり方」ではないだろうか。
女性は受動的だと思われがちだが、それは嘘で、能動的かつ動物的な欲望しか持っていないのだ。
それが少年への征服欲であり、少年がやがて男性になることを踏まえると、倒錯的ではあるのだが。
そして男性になった少年に肉体的に征服されながらも、精神的に支配するマゾヒズムを望むという「転倒」こそ、河野文学の真髄なのだ。
(と言っても、最近はこの頃と変わってきていて、身体損傷のある女性と男のマゾヒズムばかり書いているわけだが)
*1

小説の後半、主人公は(やはり幼さが残る)若い青年と関係を持つ。つか、主人公がそれまで処女だったことも明かされて、びびったんですけど。
そして彼女は、かつて自分の住んでいた部屋に彼を住まわせ、離れた場所から殺そう、と考えたりする。
親指Pの修業時代 下 (河出文庫)
親指Pの修業時代 上 (河出文庫)
しかーし、本当の最後に阿部和重なみの仕掛けがあるんだな、これ。
つか、メタ・フィクションだった。
その後に、これとまったく同じ仕掛けを松浦理英子の『親指Pの修業時代』が冒頭で踏襲していることを思い出したので、恐らくこの小説が『親指P』の元ネタでしょう。
<以下ネタバレのため反転>
突如、作者の河野多恵子が登場し、「実はこの話は〜」と語り始めたりする。面白かったのは主人公の書いた小説として登場する作中作を「あれは泉鏡花谷崎潤一郎の亜流ですから」って自己評価しているんだけど、いや、亜流でもすごいでしょう、と。

確かに河野多恵子谷崎潤一郎の純然たる申し子で、正当な後継者なのだが、それでもやはり河野多恵子河野多恵子として、立派に天才的な作家ですよ、と言いたくなるのだった。



<複>河野多恵子『妖術記』(文庫)★★★1/2

*1:「男性にマゾになり、少年に対してはサディスティックになる」ことと最近の「SMを通じた男女の関係」という主題は、単に「契約の形」を男女関係に置き換えているだけではなかろうか。
SMは「契約」を主として結ばれる。そう考えると河野多恵子の追いかける主題は一貫して変わっていない。