更新期の文学/大塚英志(2)
前回<更新期の文学/大塚英志(1)>
先日は大塚英志のアプリケーションによる文体作成云々に呆れましたが、あの後の章を読んで少し感心しました。
田山花袋『蒲団』が女弟子に逃げられた作者の自己告白だったように、いまのライトノベルや『電車男』にあるのは、近代のやり直しとしか思えない「私」カミングアウトに過ぎず、それは自然主義ではないか、と大塚英志は主張します。
この主張は全く正しいと思える。
《近代の日本文学はそのものが「自意識」の存在証明のキモチ良さを与えることばとしてある以上、本人が思う以上にたいていの「文学」の根っこは日本型「自然主義」にあり、実はこてこての「近代文学」なのである。佐藤友哉なんていじましいぐらい自然主義だって。》−−−第六章 「匿名化する文学」と「公共の文学」
その上でネットを含め中途半端に近代を反復している今の日本人は、もう一度近代化を徹底すべきだと大塚は言います。
実はDramatica 等のアプリケーション云々も、文学を担う作者の特権性に疑問を投げ掛けるためにあえて挙げた例のようです。
本の後半で展開されているのは、もはやメディアは誰もが発信者になれる時期にきており、旧来のマスコミを特権視することはジャーナリストの既得権を守ろうとすることでしかない、と言うわけです。
ただ、大塚英志は、文化の民主主義を浸透させることを奨励しているわけで、その先があまりない。
メディアのハード面を変えるのはいいけど、それによって増大した大量の素人たちを批評する立場が必要になる。
その批評は大塚がいま行っているような言説ではダメです。
良し悪しをプロの観点から論じる批評家が要るのです。
もし大塚英志の考えた通りにメディアが受け手=送り手に開放された時、そこにいるのは今のライトノベルズ作家と何ら差のない低水準の作者ばかりになる公算は高い。
民主主義は芸術を滅ぼす、ということを今後は言いつのる必要があると思います。
(文責:Z)