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このページを読む者に永遠の呪いあれ

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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

漫画表現は…ジェンダー

漫画 オタク

素直になれないオタクたち - このページを読む者に永遠の呪いあれ*1
この文章に対し自分なりのアンサー文章を書きました。

さて、少女漫画の「コード・様式」は絵柄に宿らないことは書いたとおり。
専ら「表現のしかた」や「表現の特徴」、独特の「画面づくり」にあります。

ありがちな少女漫画コード

  • 背景が白い。
  • つーか、画面全体が白。
  • 大ゴマのごちゃっとした街並や風景「どーん」を描きたがらない。
  • 要するに背景は小さいコマに追いやられる。
  • (必然性なき)大ゴマに入るのは大概キャラのバストショット。
  • 効果系トーンが好き。
  • 花とか「自然」モチーフが好き。
  • 画面ぶちぬき、変形コマ多様。
  • 外界と内面の境界がうすい。画面上ではほぼ一体化している。
  • モノローグが多い。大ゴマで背景などは描かれないことが多い。
  • 雰囲気や心理描写で話を作る傾向がある
  • ネーム主体でストーリーが進行するので、セリフを読まずに絵だけ見ても理解できない
  • コマ単位で絵を構成せず、ページ単位見開き単位で構成する。
  • 意識的に読者を立ち止まらせる不連続性を排し、流れるように展開する
  • (必然性なき)顔面どアップが多い。
  • どアップすぎて切れていることがある。
  • たまに顔半分のもある。
  • 以外はバストショットが多い。
  • フルショットになると、全身のバランスが崩れていることが多い。
  • いわゆる身体性に乏しい。
  • アクションシーンが音だけ
  • アクションコマは極力はしょる傾向にある…
  • 8頭身キャラが(必然性なく)ちまっとしたデフォルメキャラになる。

<おまけ・イラスト編>

  • 全身を描くことがあまりない。
  • バストショットが多い。もしくは寄り添って「明星」。
  • 全員集合。手前のキャラほど小さく、奥にいるキャラほど大きくなる。
  • それぞれに統一感がないポーズをとり、宙に浮いたりしている。(パロディー系でよく見る)

まとめると少女漫画は「絵」に頼らず「感じる」ことを読者にゆだねる。
青年・少年漫画がこれと真逆に視覚を頼りに画面作りを指向していることを考えると、これら無意識に表出する表現の差異は、生物学的に見た「男」「女」の感性の違いともいうべき<性差>に深く関わっている気がしてならない。

(以下に述べる内容は下手するとフェミニストの論客に攻撃される可能性があるので、あらかじめ断っておくが、オイラはジェンダー論者ではないし、燃料投下するつもりもない。単に浮かび上がってきた客観的事実で考察したことを<仮説>的に論じている。あらゆる女性作家、男性作家がこれら枠組に必ずしもあてはまることもなく、あくまで推測として語りたい)

要は、男性作家が視覚にこだわるのは世界観を作ってから物語る傾向にあるからで、女性作家の場合は逆に「あらかじめ用意された」世界観から物語る傾向にあるからだと思う。
では何故、男性作家が世界観を「自ら」作り出すのかといえば、歴史認識の違いだと思われる。男性は大概、「歴史」と「社会」が頭の片隅にあるが、女性の場合、そのような観念自体、先天的に持ちえていない。故に女性作家のほとんどが世界観から作り出し、語る発想がない。だから、背景を書き込むことも少ない。

そして、男性は空間把握を気にする傾向にある。例えば男性の場合、漫画に描かれた窓の位置がコマ単位で変わったりすれば、すぐに気づくだろうが、少女漫画では日常的な光景だ。
男性は確かな世界観を提示されることを望むが、女性のより深い興味は「あらかじめ用意された世界」と「自分との関係」である。
「世界観」とはヴィジュアルだが、「関係性」とはインディヴィジュアルなのである。
少女漫画にある「どアップの多様」は表情の機微で「関係」を示しているのであり、そこにはヴィジュアル的な「世界観」は、特に必要とされず、少女漫画が追究してきたのは、専ら「不可視な内面」である。

似たことは少女漫画における「身体性の欠落」にも言える。
男性の場合は、常に身体感覚をもって生活しているが、女性は通常、身体の存在を忘れている。

(通常は忘れていることが多いということであり、意識することもある。女性向作品の多くが精神性を指向し、「身体」が「精神」に拮抗していない描写から推し量ることが可能だ。
「精神」を優位におくことは少女漫画の内面描写<モノローグ>からも垣間見れる。これを大塚英志は「少女漫画における内面性の獲得」として以前に評価していたが、「獲得」したのは男性作家であって、女性作家はそもそも「身体性」が備わっていないのだから、「当然の結果論」としての「そうならざるを得なかった」のではなかろうか)
であるから、例えば新條まゆの漫画は、内容自体は非常にセクシャルであるにも関わらず、身体性が皆無に等しい。「肉体のリアリズム」といった概念そのものがすっこ抜けている。

こうした肉体感覚と歴史感覚が「ない」ことは、実は<現実>と<フィクション>の境界をあやふやにしている。
男性作家は常にフィクション(虚構)側に立つ「自分」と現実における「自分」の位置や距離を確認するが、女性作家の場合、フィクションと現実を同一線の延長線上でとらえている。
例えば、カップリング論争が起こったり、腐女子社会が一様に閉鎖的なのは「自分と世界との関係」が重要視される傾向にあるためで、これはフィクションと現実の境が極端に薄いと考えることができる。

要するにこうした様々な「無意識」が表出した結果、少女漫画コードという独特の表現を作り出した。
あらかじめ「常備されえない身体感覚や世界観の構築」に対し、「無意識」になった表現が少女漫画であり、それに対し、意識的になればいくらでも表現を変えることは可能だろう。(でなければ、男性向女性漫画家が存在しなくなってしまう)

しかし、少女漫画に感動する男性の多くが、「無意識ゆえの表現」=「常備されえない身体感覚や世界観の構築の欠落」に、新鮮さを覚えていることは事実だろう。

*1:想定外にも何となく書いた雑文がエントリーされまくったので、不十分なところを補強しなおしたりしました。