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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

オタク・イズ・デッド

オタク

既に多くの人が書いてるし、孫々々々々くらい書かれているし、岡田斗司夫自身が「なんだよお」みたいなコメントを投下しているらしいので、既に出遅れた感はありますが、自分としては、岡田斗司夫の発言で感傷的になる日が来るとは思わなかった。

岡田氏が今まで慎重に避けてきたオタクの定義について語った。
「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力を持っている人たち」

女性オタクからの定義がないのは、女性がオタクの中心概念を持たず、ジャンルについて他人との差異ばかりに向いているから定義が出てこないという。

それからオタクの世代論。ざっと分けてヤマト・ガンダムの40代の第1世代、エヴァの30代の第2世代、ノーブームで好きなジャンルのみの20代の第3世代。


そもそも第1世代のときの「おたく」は他人から与えられた差別用語強制収容所のようなものだった。それを第2世代になって「オタク」と書き換えたときから収容所の敷居は下がり、いろんな民族が集まる合衆国になった。

第1世代は貴族であり、求道的な性格とノブレスオブリージュがあって、生まれながらにして特別なのだからなんでも知らねばならず、世間から蔑まれようと気にしなかった。
第2世代はエリートであり、自らの好きなものの良さは学べば誰にでもわかるはず、というスタンスで、アカデミズムに傾倒する。
しかし第3世代にとって、オタク文化は他人と自分を差別化するアイデンティティであり、第1・第2世代とは共通概念たりえなくなってしまっているという。本田透が女とはリージョンコードが違うというようなもの。

しかし壇上で「オタクは死にました。みなさんの言葉を広く伝える評論家もこれからはいません……」と語っているうちに、感極まって壇上で言葉を何度も詰まらせる。


「好きなものの素晴らしさを、これからは個々で発信して他の人に伝えよう」という自ら提唱するプチクリの概念を話した。

以上、すべて


オタクは死にました - kasindouの○記


さんから。とてもよくできているレポートだと思います。
適当に切り貼りしているので、正確な引用になっていません。申し訳ない。


このレポートに対するいろんな意見や反応を見たけど、オイラが感傷的になった理由を上手に指摘してくれていたのは、この記事でした。


誰に言ったの「オタク is Dead」 - 愚仮面


これを前提に自分なりの解釈を書いてみますが、ぶっちゃけ言うと、「オタクは死にました。みなさんの言葉を広く伝える評論家もこれからはいません」という言葉を、現在の文学の状況やカルチャー事情とかんがみて捉えてしまったせいで感傷的になったわけです。


評論と言えば、伊藤剛も「みなさんの言葉を広く伝える評論家」にはなりえてねーし。


テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

例えば、『テヅカ・イズ・デッド』はオタク評論じゃないし、ここで引用するには適切じゃないけど、漫画評論として滑り出しからすべっているらしい。以下は友人の意見をオイラがまとめたものです。
本は読んでいないが友人の意見に賛同する意味で書く。
本書はまえがきで「目的はマンガ表現の現在を捉えることであり、『漫画は衰退している』と理由なく断言するオヤジたちに反論して、今日の萌え漫画をも批評の対象にするための土台作り」ということらしいのですが、オヤジ批評家である呉智英らへの反論が『歴史意識が失われたとする上の世代の意見とは関係なく、子供たちは漫画を享受している』というものであり、この現状を根拠に据える時点で、批評としては失格ではないのか。


なぜなら、マンガが小説や映画と同様に批評されうるメディアだとすれば、それは漫画が社会的な根拠とは無縁に、理由なく存在し、生成しているからであり、子供むけだのオタクむけだの、そんなことを「批評が要請される理由」として持ち出すことは、漫画を俗世間的なつまらない相対的価値に置くことにならざるをえないのではないか。


小説や映画が刺激的なものであり続けてきたのは、世の中がそれらの価値を認めているからではなく、世の中で流通する価値基準とは全く無関係に作られているからである。*1


オタクが「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力を持っている人たち」という定義で考えれば、数多の情報に埋もれている傑作や名作を、世間の価値観とは無縁に評価できる人々こそがオタクステータスであった。


しかし、今のオタクはオタク文化に精通している一般人にすぎないとオイラはかねてから思っている。一般人というのは、感性や情報のあり方が一般人的だということ。
聴いている音楽はオリコンばっか、見ている映画はロードショーばっか、読んでいる本はベストセラーばっか、それに付加して一般人よりは漫画やラノベ、アニメやゲームにはやたら詳しいがそれらに対する感性が一般人と同等レベルということにおいて。


例えば、『ハルヒ』のEDソングが他のアニソンを差し置いて、傑作で素晴らしいのか、ということを説得力をもって語っている文章は(今のところ)見たことがない。あれだけ祭にするなら、それなりに説得材料がほしいのだけれど、そういうのはまったくない。ヨイショした人々は一様に「フィーリング」でしか語っていない。


これは「ハルヒ」本編についても同様で、ハルヒを知らないオイラはハルヒシリーズってどこがどう面白いのかとレビューを見るのだけれど、いまだによさが分からない。故に手も出ない。アニメは1話だけ見たけど、面白さが分からなかった。というか、アニメの癖に静止画っぽくて全然動いてないし。。
でも、このエントリでハルヒとは何たるかが分かった気がする。


バレたからもういいや - #A1FE9F


なんて書いたらぼこられるかな(笑)。


上手な批評や感想だったら、名前を知らない作品でも内容が把握できたり、魅力や欠点が分かるのだけれど、説得力のある言葉で作品の魅力を語れるオタクが減っているとは思う。だったら昔はそうだったのか、と言われるとそうじゃなかった気がするけど…。


ただ、なんつーかな、今のオタクの面白いの基準が「なんかいい感じ」「なんか好きかも」といった印象論でしか語られていないというか。唯一あるのはデータベース論で、だから何だよ、としか思えないので、退屈なんだよな。


面白い作品ってのは、既存の概念に抗い、いかに自由になっているかが魅力だと思っているし、小池一夫劇画村塾のキャラ立ち論が面白いのは、大げさな表現や極論によって「常識の型破り」を作り出すことでエンタメ性を追求していたからであって、データベース論は既存の枠にはめこんでいく作業だから、真逆を志向している意味で退屈なのです。


で、結論から言うと、(前のエントリーにも書いた通り)、今のオタクはオタク趣味をのぞけば一般人とほぼ同じ感性で動いていると思うのです。これはオタク人口の増加によってほぼ避けられない運命だったと言ってもいいのだけれど。
つまり、オタクが一般に同化した時点で、オタクは死んでいたと思います。しかし、オタクは一般に対して一方的に「同化できていない居心地の悪さ」を感じているので、(つまらなそうなので読んでいないけどいわゆる)文化系女子非モテ論争がはやるのだと思う。
でも、オイラから見れば、今のオタクは十二分に一般化しています。それは感性や価値観という意味において。岡田斗司夫の嘆きの部分はここではないかな、と。
まあ、そこまで指摘しているかはいささか怪しいところですが、オイラがセンチになった理由は間違いなくここだった。


柄谷行人が近年、近代文学の終焉を口にするのと同様に、岡田斗司夫のオタク観の終焉もこれと同じで、いまや文芸誌はシロウトに頼らずにはやってけないし、へたくそな文章を垂れ流しているだけの自称作家先生の巣窟になっているし、読者は読者でそれらに対して一様に無批判だし、もはや近代文学は(一部の老大家を除き)死んでいるわけです。


80年代にはサブカルチャーの側にハイカルチャーに対抗する意識があったけれど、今のオタクは単に娯楽として文化を消費しており、こだわりはないまま、流行を追いかけているだけであり、自分の言葉さえ持っていない。


しかし、一方で漫画は消費メディアでありながら、普遍的芸術になりうる立派な文化でもあり、水木しげるの『総員玉砕せよ!』を読めば「たかが漫画」と決して言えなくなるだろうし、アニメだって押井守がいる限りその状況は同様なのです。(オイラにとっては)


いつの時代も、本当に良いものは例外なく孤独であり、それはこの先も変わらない。


しかし、このまま言葉も知性も一般ナイズされたオタクが増えれば、「孤独な傑作」はどんどん見逃されていく状況に陥るのではないだろうかという危惧が、岡田斗司夫をセンチにさせたのではないかな、と思う。
いや、オイラは間違いなくその部分でセンチになった。


しかし、知的なオタクを認める世間がなくなっても、世間とは無関係にやればいいだけの話だとも同時に思うわけです。
理解されなくても、自分の価値基準でいいものを讃え、悪いものを批判するスタンスを忘れなければいいのでは、と、第2第3世代のハザマ世代で考えたりしました。

*1:この記事を見ても、伊藤剛の評論のつまらなさは想像できる。
Bing

評論と言うより感想かエッセイに近い。なんか、これ読んだらロッキングオンの編集者が得意とする自分語りレビューと、作り手の内面を探ることに終始する超失敬なインタビューに似ていると思った。
「『ハンター×ハンター』の主題は『いま、少年マンガを描くこと』であり、そこでの表現が「少年マンガ」というジャンル全体への言及となることで、まっすぐそれだけを見据えているのでしょうか?」
↑ ロッキングオンってこういう質問をよく外タレにぶつけていた印象があった。

この文章がつまらないのは、絵についてまったく触れられていないことです。
表現そのものに言及しないのは、漫画文化そのものを軽んじている気がする。絵にさえ触れてもらえない漫画というジャンルは不幸すぎます。