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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

動物化するポストモダン(2)

前回エントリーの続き
http://d.hatena.ne.jp/sutarin/20060511/1147419006
他にも、「データベース消費−−オタクは萌え要素を分解する」といった指摘は間違っていないけど、「萌え要素」の一形態が新しい概念・発見のように論じられるのは違和感がある。
萌え要素」って、単なる「好み」じゃないか、と思ったり。それが多様化しているだけで、これは別にオタクが発明したものでもないし、分類化や細分化は風俗業界から来ているような気がするし。オタクの場合は二次元のキャラに及ぶだけのことではないかな。

それにオタ好きされるキャラは外見ばかりじゃなく、性格や過去といった内面要素で人気が左右されることが多い。外見は萌え要素搭載しているばかりでは人気出ないしな。綾波にそっくりのキャラがいても、彼女と通じる内面的問題を抱えていなければ人気はでないと思う。
で、内面要素=目に見えない部分は物語と密接に関わってくる。さっきの「物語消費」にあてはめると、今も昔も物語なしでオタクはキャラを愛することってないんじゃないかな。

話は逸れるけど、前回書いた『PRINCESS WALTZ 初回版』の設定集に、スタッフの座談会が載っていて、何度か「萌えの記号を入れたor排除した」という会話が登場していた。
キャラクターを描くのが上手なクリエイターは、キャラの立場で物事を考えることができるし、キャラが作者から完全に独立している。例えば、大島渚とか、押井守のキャラはそう見える。
しかし、そうしたキャラを作り出せるクリエイターははオタ業界に極めて少ないように感じる。常に作者と一心同体というか。お人形的な嘘臭さが纏いついているというか。
で、プリワルのスタッフの意見は、まるでキャラクターを記号でしか捉えていなくて、それでは面白い話も作れないんじゃないだろうかなあ、と思った。

そうすると、近年のキャラ設定だけだった、例えばデジ子とかはどう説明するのかといった問題になる。これはもう、ぶっちゃけ、sanxのキャラとかサンリオのキャラと同じです。それだけです。以上。

で、実は、オイラが本書で最も物足りなかった部分は、オタクコミュニティーについてほとんど触れられていないこと。最後のほうにちらっと宮台真司のコギャル&オタク論が登場するけど、オタクの形成しているコミュニティー自体には触れられていない。オタクの生態を知らない人が本書を読んだら、オタクは単体で孤立し、行動しているように見えてしまうんじゃないだろうか。
しかし、オタクほど集団に依存し、かつそこを拠点に行動する人種はいないのです。だからコミケは拡大していったわけです。かくゆうオイラもオタクの一人だから書くけど、カースト制度ともいえるオタクヒエラルキーの中では日夜、階級闘争かつ優劣抗争、神だの信者だのでひしめいているわけです。大げさに言えば。
オタクはこうした人間関係を一般社会以上に重んじる風潮がある。それにオタ入りしたきっかけは? とオタクに聞けば「友達に洗脳されて」という人は結構多いし、腐女子は結婚や恋人であっさりとオタクから足を洗たいるすところからもいかに人間関係によってのみ、オタクである人も多いかうかがい知れると思う。
例え「オタ友いない」という人がいても、オタ界隈の情報を収集するし、それはいったい誰のためかと言えば、やはりオタクコミュニティーのためであるのだ。「オタク世間」と呼んでもいい。要するに、「オタク世間」とつながりを保つためにオタクは黙々と情報を収集する。

だけど、こうした傾向はむしろ近年であって、オタク第一世代と呼ばれるオタク系文化人にはあてはまらないと思う。彼らはアニメや漫画だけでなく、いろいろな文化を吸収している。現在では、マニアという呼び方のほうが相応しいだろう。
しかし、最近の若いオタクは本当にアニメや漫画の話しかできないし、読む本はラノベやミステリー、映画はハリウッドばっか、ゴダールなんてシラネーヨという人が多い。アニメや漫画といったオタ趣味をのぞけば、ごくごくフツーの一般人だ。
だから、作品についてもどれだけ祭にできるかがポイントになりつつあって、最初から本命などなさそーな人が増えている気がする。
アイディンティティーがないというか、「自分」や「個」がない。意見もない。こだわりもない。執着もない。批判精神もない。自発的欲望がない。内的必然性がない。好きか嫌いかしか言えない。そういうオタク。そういうのが「動物化」です。

…とまではさすがに書いてないが、端的に言えばそういう結論になっていくと思う。

最後に、スーパーフラットについて。
本書でも解説がされているが、いわく「オタクはさまざまな要素を平行して楽しめる」とのことで、オイラの解釈とはずいぶん違っていた。
オイラはオタク作品にある「内面世界を描きながら世界観に奥行きがない。表面的でぺったんこな世界」をさしているのだと思っていた。
絵についても、今のアキバ系萌え絵はほとんどがとても平面的である。空間感がない。立体感がない。質感がない。エロゲの場合はそれらを塗りでごまかしているけど、線画にしたらぺったんこ。

おそらく、欧米人が日本のオタク文化を面白がる理由はここにある。西洋絵画は、空間と立体に重点が置かれる。二次元の世界に、いかにして三次元の世界を造りだすか−−みたいな。でも、日本のアニメ絵は、あらかじめそれを放棄している。追求もしない。こうした平面的に捉える感性が珍しがられているのではないか。
その意味において、オタク産業=浮世絵全盛の江戸文化に通じるものがあるかもしれない。しかし、明治時代の日本は、西洋に追随するべく江戸文化を捨て去り、近代化の道を歩み始めた。しかし、結局、失敗した。失敗したのは国民性だ。そしてそのまま、文明だけが発達し「ポストモダン」な国になった。

でも、それは「いつまでも成熟できない子供みたいな大人の集まりの国」ってだけじゃん。駄目じゃないのか、という、誉めているようで実は決して誉めていないのが本書の真髄ではなかろうか。



<複>東浩紀動物化するポストモダン』(文庫) ★★★