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動物化するポストモダン(1)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


ちょっと前の記事にも書いたけど、今さら『動物化するポストモダン』を読みました。感想は「思ったより悪くなかったが、いささか違和感の残る内容」とでも書いておく。

この本が発売された当初、オイラの身内が読んでいたので感想も聞いていた。読んでた連中はオタクじゃなくて、いわゆるサブカル族、あるいは批評空間パラダイムに毒された人々だった。そのせいか、「オタクって思ったより最先端?」といったわけわからん感想ばかりだった。だから、期待してなかった。
それに、こういう本は出たばかりの時に読むより、今読んだほうが嘘か真か判断できるということもあって、いまさら読んだりしたわけです。

本書は2001年発行だけど、この頃はエヴァの余波もあって、サブカル縦断してオタクを論じることがブームだった、気がする。オイラはその風潮自体が嫌だったけど、今やサブカルは壊滅に等しく、今でも飽きずに続けているのは、東浩紀くらいじゃないだろうか。おかげで仕事がなくなっている気がしなくもない。つか、東浩紀は生粋のオタクだなあ。

エヴァはやっぱりどう見ても、普通のオタクアニメのそれ以上でもそれ以下でもないとオイラなんかは思っていたけど、下手にサブカルがブームを作り出したせいで、周囲のサブカル族(通称『STUDIO VOICE』族)もエヴァに総転びで、挙句劇場版については「庵野秀明のオタキモイに超禿同」とか言ってるを見てて、お前も相当痛いがな、と思ったりしたわけだった。

当時、未読だったオイラは"動物化するポストモダン"というタイトルの意味がよく分からなくて、どういう意味か訊いたところ、「"ポストモダン"はオタクを指していて、"動物化"っつーのはオタクの"パブロフの犬"現象を指している」とのことだった。
つまり、オタクは犬のごとく、萌えキャラを見ただけで、「尻尾ふってよだれをたらすワンコと同じ」という説明だったので、すごいいいよう、と思ったりしたわけです。そんなに正直に書いていいのか、という…。実際、本書には、まさにその通りのことが書かれていました。

東浩紀は、あふれる情報の中でオタクたちはポストモダン的(「大きな物語」の追求をやめ)に、シミュラークル(情報の堆積)を嗜んでいるといった論を展開してます。こうしたオタクの行動を今更「ポストモダン」と呼ぶのは違和感を覚えた。
そもそもポストモダンとは、「モダンに対するアンチ」としてあるわけですが、ここでのオタクは「無自覚なポストモダン」的集団であり、「無自覚なポストモダン」ってそもそもあるのか、といった疑問に突き当たったりしたわけです。
ポストモダン」をWikipediaから引用すると(実際の「ポストモダン」の項目は専門用語が多すぎて抽象的なので、「ポストモダン文学」の項目から引用)

ポストモダン文学は近代文学の特徴に反する特徴を持つ文学のことである。近代文学は無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性などの特徴を持つ。これに対し、ポストモダン文学は物語の矛盾を肯定的に含んだり、(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。

ポストモダン文学は近代文学へのアンチテーゼということ以外、明確な定義はない。通常○○文学という場合には、それを特徴づける形質があるが、ポストモダン文学の場合には、そのような形質には乏しく、単に近代文学の補集合という意味合いが強い。これは他のポストモダン建築、思想、芸術と同じである。


ポストモダン文学 - Wikipedia

オイラもほぼ上記と同様の解釈をしていた。小説家で言えば、高橋源一郎田中康夫小林恭二、漫画家だったら、やまだないととか、岡崎京子とか。
説明文で見る限り、ポモは反動的で革新的なイメージがあるけど、実際の作品を見ると地雷だったりイタイことが多く、「面白くない作家」の代名詞としても、皮肉で使うことのが多かったけど…。
しかし、本書ではポモは決してネガティヴなイメージではなく、むしろ最先端のように語られている。というのも、東浩紀自身がオタクだから、一応、擁護し弁護しているのだろうな。

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)


しかし、全体を通して思ったのは、『動物化するポストモダン』は大塚英志の『物語消費論』への反論のために書かれただけと言えるような気がする。
『物語消費論』は未読だが、本書から察するに大塚英志の「オタクは『物語』を消費しつづける」つー主張に対し、「いや、オタクは既に『物語』外の要素を追いかけ、『物語』を消費する時期は終わった」と抗弁している。

そっかーーーーー? という疑問点は後々書くとして、この頃の大塚英志ってしょぼすぎて読む気が起きないのです。何故って『動ポ』にあった「ビックリマン」のくだりをみてもわかるように、面白いこと言ってないみたいだし。
ビックリマンシールの例えは本当にしょぼくて、なんじゃそりゃってなった。偽札と同じようなものに等価の価値などあるかっつの。同人誌は同人誌という二次創作で元ネタから「独立」しているから面白いのであって、元ネタの延長として書かれただであれば、元ネタ作成者が書くほどに面白いものなどありえないし同人誌なんて買わないっつの。でも、オタクは二次創作を漁るわけで、それはオフィシャル外のトーシロの描いた好きキャラを見たいという欲望を語らないのはいかがなものか、っつー…。
オイラは最近こそ大塚英志を評価し始めたけれど、それ以前の印象は中島梓の『コミュニケーション不全症候群』の解説で見限っていた。

コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)

コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)


本題からそれるが、『コミュニケーション不全症候群』という本は、大塚英志しかり斎藤環ンしかり、界隈の評論家には評判がいいが、オイラからすれば単なるトンデモ本だった。なんつーか、読めば読むほどフラストレーションがたまっていくだけ。
例えば、「超○○(ex.超現実)」の「超」を「超越」という意味で用いずに、「超かっこいい」という女子高生用途で使っているし、見開きページで重複描写が2、3箇所あるし、腐女子には長女が多いが根拠はない、とか断言するし、漫画論もストーリーしか語らないし、言っていることはほぼ全部が悪名高き岸田秀の受け売りだしで、構成も編集も駄目駄目な本だった。
しかし、本書の解説で大塚英志は絶賛し、べた誉めしていた…ので、オワタ\(^o^)/と思っていたのです。で、『物語消費論』は、大塚英志DQN時代に書かれた本なので、手が出ないわけ。

で、話を戻すと、「今のオタクは萌え要素を楽しみ、大きな物語はもはや必要としていない」という東浩紀の主張は納得できないなあ。なぜなら、本書で挙げられている『エヴァンゲリオン』も『kanon』も『Air』も、果てしなく「大きな物語」を内包している作品に思えるからです。
で、実は東浩紀自身もそのことを分かっていると思う。分かっていながら物語論を知らない読者を導いている気がするのです。何故なら、この本は「大塚英志の『物語消費論』への反論のために書かれた」から。
ここで指す「物語」とは、古来からある「物語のパターン」を模倣している作品郡を指します。説明し始めると長くなるので割愛するけど、詳しく知りたければ蓮實重彦の『小説から遠く離れて』がオススメです。

小説から遠く離れて

小説から遠く離れて

「『エヴァ』はキャラ萌えで消費された」と東浩紀は言いますが、『エヴァ』を支持したほとんどの人は、キャラクラーたちの実存的問いかけや苦悩、トラウマに魅力を感じていたと思う。オイラの身内に限って言えばそうだったし、そうした要素は物語と密接にリンクされ、『エヴァ』の世界観を支えていた。

関係ないけど、オタクは昔から、トラウマを抱えたイチモツキャラに弱いね。オイラはぜんぜん萌えないけど。綾波なんか、単なる情緒障(ryにしか見えない…アスカも姦しいヒステリーにしか見えない…それに、トラウマキャラって根暗そうで嫌だ…トラウマ持ってても、そこに縛られないキャラに魅力を感じるんだよねぇ。これはトラウマ属性に限った問題じゃなく、すべての属性の拘束を受けない、属性から自由になっている「意外性」こそ、オイラにとっての「萌えツボ」なんです。

そして、『エヴァ』は「物語」に深く関わる内面世界が鍵になっているし、物語を完結させんがための劇場版の失敗もあったわけで。
同時に、『Air』や『kanon』(未プレイだけれど)の評判も、もっぱら「泣ける」「感動する」といった感想が多いし、本書によれば、泣き所はヒロインの過去語りや不治の病だそうで、それを聞いても、「物語が内面世界に通じるから好まれた」のだと思う。
ウエルメイドな物語の消費自体は、東浩紀も否定はしていないが、オタクが好む物語のほとんどが「何かしら内面世界に通じている要素を内包している」ことは案外指摘されていない気がする。といっても、オタク向作品は膨大だし、全部がそうだと一概に言えないので難しい。しかし、「内面世界に通じている要素を内包」している作品が好まれる傾向にはある。トラウマ、回想、運命宿命、「実は○○は××だった」とか。
物語が存在せず設定ありきで暴走していた超有名作品って、思いつくのは(今のところ)『うる星やつら』に通じるスラップスティックや(内面世界を一切登場させない)ドタバタしかないと思う。(でも、『うる星やつら』は『ビューティフル・ドリーマー』ではじめてラムちゃんの内面世界を見せたしなあ)それ以外は特にロボットアニメによくある主人公の成長物語然り、いつの時代も物語と内面が内包された作品を求めていたように思う。

つづく http://d.hatena.ne.jp/sutarin/20060512/1147438110