このページを読む者に永遠の呪いあれ

スマフォからコメントを書き込む場合、一度PCモードで表示してください

コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

村上春樹と内田樹

ブログの批評を見てていつも思うのは、批評が面白い人、面白くない人の差って、ひとえに「認識論」ではないかと。
筆者がいかに世界を認識しているか−−。思想じゃなくて、「認識」。これがある人ない人とでは、すごく差が出ると思う。
例えば、オイラは内田樹先生のブログが大変退屈です。哲学者と思えないほど、思考や認識が浅くて、こじつけが得意だからなんだけど。
それと春樹文学に対する認識があまりに杜撰で甘くはないかと。これだったら、大塚英志の『サブカルチャー文学論』の春樹の章のが幾分マシです。(この章は全体の締めが弱いけど、前半はとてもよくできている)

大塚英志は春樹を「アメリカかぶれした現在の川端康成」として捕らえていて、海外での評価は専ら「ジョポニズム・オリエンタリズム」で解釈されているとしています。この評価は間違っていないと思う。例えば、春樹の海外翻訳小説の表紙の図柄のセンスが明らかに「間違った日本観」だったりするし。確かロシア版の『羊をめぐる冒険』の表紙が、漫画ちっくな羊と意味不明な寿司の細巻きのイラストだったし。何そのセンス。

それで、内田樹先生のブログにあった「村上文学の世界性について」。
春樹文学は父の不在によって成立しているという箇所。

「父」はさまざまな様態を取る。
「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。
世界中の社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。
「父」はそれらの集団内部にいる人間にとって「大気圧」のようなもの、「その家に固有の臭気」のようなものである。
それは成員には主題的には感知されないけれども、「違う家」の人間にははっきり有徴的な臭気として感知される。
「父」は世界のどこにもおり、どこでも同じ機能を果たしているが、それぞれの場所ごとに「違う形」を取り、「違う臭気」を発している。
ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。


村上文学の世界性について

言っていることは正しいと思う。だからこそ、欧米で春樹はジャポニズム解釈されているのではないか…。
とはならないのが、内田先生。

「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
これが村上文学に伏流する「問い」である。
「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。
「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。
それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。
けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。



村上文学の世界性について

というくくりには… 正直( ゚д゚)ポカーン となった。

いや、オイラは常々、日本は無宗教国家で、それを存分に利用し、その恩恵に最もあずかり大成功を収めた作家こそ、春樹だと思っているんです。春樹の世界観はひとことでいえば「散りゆく桜の美しさ」。「もののあはれ」で日本人好きされる感性に満ち満ちていると思うんですよ。
それをオサレで都会的なアメリカンセンスのオブラートにくるみ、「洋物文化に浸かりながら、割ってみたら純和風文学」という事実を隠蔽し差し出すことによって、読者を魅了してきた。

加えて内田先生の言葉を借りれば、父の不在=神の不在、それによる教条的倫理の欠落が日本人にめちゃんこ(死語)フィーリング!

オイラにとって村上春樹は「教条的倫理の欠落」故の「独我論者の典型」文学(僕僕僕の連呼で分かるだろうけど)であり、これは無法地帯とも違って、言ってしまえば「誰にも咎められないぬるま湯的快楽の文学」だなあと思う。
そういう世界観が好きな人には大変居心地がいいだろうけど、それで世界を知った気になってしまう読者はいかがなものか。

例えば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にサリンジャーが春樹にあとがきを書くことを許さなければ、「サリンジャー性格悪しwwww」とか書いていたし。おいおい。じゃあ、何で野崎孝にはあとがき許したんだよとツッコミどころ満載だ。
安原顕の原稿流出事件についても、「春樹の人気に嫉妬したんだろ。嫉妬醜しww」としか書かない。
だったら、春樹批判するやつはみんな嫉妬と言い切るのか。
というか、オイラは春樹の安原顕に対する文章は、政治的な扇りっつーか、「オイラを批判する奴みんな嫉妬ですから!」という誘導めいたプロパガンダしか感じなかった。
やらしーなーというか、倫理ないなあと改めて感じた。こんな風に世間と結託しなければならない作家は悲しいし、それを見抜けない読者にもがっかりするし、残念なことだ。

彼が群像新人賞で受賞した時、吉行淳之介が「彼の文学は明日、世界が滅びようと決して動じないだろう」と評していたけど、今では皮肉な意味であたっていると思う。
世間から切り離された孤高の作家として当時は評価されたわけだけど、年を追うごとに春樹の行動は読者に擦り寄り、世間のレベルと歩調を合せているように思う。
「世界が滅びようと決して動じない」ことの意味が、個人主義的なものではなく、世間との結託によってなされていくであろうという意味に摩り替わっていった。つまり、世間にだけ足並みをそろえて、なしくずしに滅び行く作家として。
だけど、春樹の文学はデビュー当時から、倫理的な観点からは、一度たりとも個人主義だったことはなかったと思う。

つまり、宗教による拘束が故の個人主義の確立した海外から見たら、超越存在不在の春樹文学は「ストレンジワールド」に映るのではないかなと普通に思う。
海外での春樹の需要は、「共感」ではなく、「好奇心」や「興味」でしかないように思えてならない。例えば、オイラが海外文学を読む動機が決して「共感」したいからではなく、「知的探究」という好奇心でしかないように。

だから、「日本人のみなさんの感性って特殊でーす!」みたいな感想が実際は多いと思う。
川端康成はそれでノーベル賞をもらったんだし、『萌の朱雀』の受賞理由もこれと同じだったように。

萌の朱雀 [VHS]

萌の朱雀 [VHS]

欧米人の根底には今でも日本に対するコロニアリズムというか、蔑視風潮はあって、だから、オリエンタリズムでしかもてはやしてもらえないのだ。
それを分かっていない日本人は同等に評価されていると錯覚しているだけではないだろうか。

だから、内田先生いわくの村上春樹ノーベル賞受賞の確率についても、川端康成の線でだったらありうる、と明記するべきじゃないかなあ。

それと、内田先生の文章にある最後の数行
−−けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。

これは、春樹に共感している日本人にあてはまりこそすれ、世界中の春樹読者がそう思っているというのは短絡的というか、単純というか、単細胞というか…
「文化は軽く国境を越え、世界を一つにする!」とか言ってしまいそうな勢いです。
そんなに簡単に国境を越えたり、共感できたりしないよなあ。しないから、争いごとが起こるのではないだろうか。
むしろ、「もののあはれ」で済ませることができる日本人は、感情をあらわにせずに、おとなしいのだ、とか…思わないのかなあ。

それと、哲学者には超越思想を否定する人が結構いる。代表的なのはニーチェとか。でも、オイラはニーチェツンデレ哲学だと思っているんで。あれだけ否定するっつーのは、愛ゆえにだろう。どう見ても。
昔に永井均酒鬼薔薇事件のとき、大江健三郎vs柳美里が起こした「何故人を殺してはいけないのか?」論争で、大江に野次を飛ばしていたので、内田樹という人も、世間と足並みをそろえたがる事なかれ主義哲学者じゃないだろうか、と思った。