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「欠陥」こそ美学だ!〜オタ向PCゲー表現論

今さら、東浩紀の『動物化するポストモダン』を読んでいるんだけど、それでちょっと考えたいことがあったので書いてみる。

『動ポ』でも触れられているのだけれど、まず、オタク文化とはそもそもアメリカのサブカルチャーのコピーであり、それのまたコピーが現在のオタク文化であり、オタものの多くが日本的なモチーフを取り入れていったのは、オリジナルであるといった擬態故の「コピーのコピー」たる所以である証拠、というこの説を受けて、テレビアニメを考えた場合、予算の都合上コマ数が少ない技法が採用されていった必要悪が、現在では歓迎された様式となっていることを前提に、PCゲームについて考えてみることにした。

例えば、オイラはいっつも押井のこと書くけど、押井の作品は「(あらかじめ)抜け落ちた穴」がない。作品はそこで始まり終わっている。
これは、脳内補完の余地がないことを意味する。オイラは押井守のどの作品を見ても、大概その世界観の全てで満足してしまうし、その後の妄想とかしないわけだ。
攻殻機動隊」でも『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』や原作ネタで同人誌を作る気持ちは分かるが、『イノセンス』で同人誌作る奴っているのか? と思うように『うる星やつら』でも『ビューティフル・ドリーマー』で同人誌を作る奴っていないでしょ、といった風に。

これは何故か。
隙がなく、完成していることが一般向作品である所以で、そこで始まりそこで終わるように作品が作られていることが一般向作品には非常に多い。じゃない作品は、失敗しているヘタレ認定でよしとなる。

ここで勘違いしてほしくないのだが、オイラは「欠陥」というのを世界観で論じていない。あくまで「表現論」として論じているので、悪しからず。さらに一般というのは「一般人」ではなく、「普遍的」という意味で用いております。
上記の一般向ヘタレというのは世界観が欠陥していることなので、オタク的にいいわけではないし、オタク的欠陥は一般的にヘタレとも言ってはいない。

ということは、オタク向作品は表言論上、元ネタとなる作品が完成していないほうがよりいいということになる。
この大前提がなければ、オタク文化は芸術的普遍性を備えた傑作だらけの市場になってしまう。アングラサブカル文化には決してならなかったはずなのだ。欠陥が故にサブカルチャーと呼ばれることを忘れてはならない。だから、オイラの論に照らせば押井守はまったくサブカルチャーではない。それを期待することが野暮なほど、彼のベクトルは一般に向かっている。

つまり、オタクに受ける漫画やアニメやゲームや小説は、いずれも、必ずと言っていいほど表現上の欠陥がある。漫画だったら、池上遼一のように独自の様式美をもっていてはならないし、アニメもディズニーのような繊細な動きであってはならないし、小説だったら河野多恵子のようであってはならない、といった風に。
つまり、優秀なオタク作品は表現上、一般評価で「形式と内容」が一致していてはならない。であるから、量産型に見合った消費物的作品が好まれることになる。
そして、押井の作品はまさに「形式と内容」が一致した作品であるが故に完璧なのだ。しかし、オタク的美学に照らし合わせた時、これは非常に不満の多いものとなってしまう。

オタクの間では元ネタ作品にある、こうした「欠陥」こそが、もっとも尊重され愛される。故に「消費物」でしかないものにもしている。
ところが、「欠陥作品」であり「消費物」となってしまうことは、オタク的見地で見ると、むしろいいことであり、決して悪いことにはならない。
オイラは押井の完璧さを、オタク作品に求めたことはないし、求めているものを評価しない。大塚英志西尾維新を「必要」以上に評価するな、と言ったのは、これと同じだ。西尾維新は限りなく消費文化的産物で、(小説が上手くない)島田雅彦ノーベル賞受賞の確立を1%は持っていても、西尾維新ノーベル賞を受賞することは、未来永劫ないように。それは彼の文体や世界観が先天的に背負った宿命である。
逆に島田の作品は消費物的に劣り、西尾維新は消費物として優れている。一般的に見れば島田の方が有利だ。しかし、オタク的に見れば西尾維新の方が優れていることになる。

つまり、フィールドが違う作品を別のフィールドで評価するとややこしくなるからやめろ、というぶっちゃけオタク的作品はオタク的美学に沿って作られたものこそ良質であり、そこに一般評価を付与することは無意味だし無駄だ、という話。その点で、東浩紀社会学的に論じたオタク論には盛大に異論がある。これはいつか書く。

話を戻すと、テレビアニメが「コマ数の少なさが採用されていかざるをえなかった『必要悪』が、逆にフラット感を与え、二次元に近づいたことによってオタクたちに歓迎されていった」経緯から見ても明らかなように、こうした現象がオタク文化の全体を成していったと言ってもいい。

では、この論を前提にしてオタク向の最たるものとして筆頭に上げられるPCゲーとは何なのか。
ここでのPCゲーは、エロゲ雑誌に紹介されるゲーム、LeafやKey、TYPE-MOONアリスソフト、ニトロといったレーベルの、オタク向ゲーをPCゲームとし、論じさせていただく。

PCゲームは表現形式から「欠陥」だらけである。そもそもPCゲーが誕生しのは、アニメでは人材、予算もかかるため、低予算でアニメ的世界を構築でき、さらに漫画的要素や小説的要素やシュミレート要素を備えた複合型文化表現として発明された経緯があるように思う。

まず、これらPCゲームの基本画面は背景と常に(ほぼ変わらないと言っていい)立ち絵、そして下部にテキストが表示されるといった構成になっている。その他アニメ的要素はキャラのセリフに声優のアテレコが入り、BGMや効果が追加されてはいる。
これは一見、今までのサブカル文化の複合集合体に見えるが、視覚的には極端に<見える部分>が制限されており、全然総合芸術的ではない。
例えば、キャラクターたちの会話は、テキストで主にやりとりをされ、その間、視覚的には立ち絵や顔グラがちょっとずつ変わるといった風だが、これらは補完的役割しか担えない。
エロシーンにも同等のことが言える。

じゃあ、こうした<制限された見えない部分>について、プレイヤーはどう対応しているのか。
「想像する」しかないのだ。

この作業こそ、妄想をこよなく愛するオタクの十八番作業であり、これをしない人々を一般人と呼んでいいと思っている。
妄想、それこそが欲望の主軸。
欲望こそが同人!

つまりここで、「想像の余地を与える世界観を持っている作品ほどいい」という結論がでてくる。

こうした表現上、PCゲームはプレイヤー(視聴者)に対して常に受動的である。そして、プレイヤー(視聴者)は常に能動的にならざるをえない。
この関係性こそが、オタク文化の真骨頂であり、ゲームというインタラクティヴ性を、PCゲームはここでこそ補っているといえるのだ。
言い換えれば、PCゲーム進化論の上で「アニメは人材、予算もかかるため、低予算でアニメ的世界を構築できる」といった「必要悪」な縮小再生産から誕生し、表現を削ぎ落とした結果、視聴者に補完行為を自然強いてしまった。それは一般論的に見れば、多大なる「欠陥」であり、作品の持つ世界観そのものの「形式と内容」の不一致を生んだ。
ところが、オタクたちはその欠点こそ、逆手にとってその表現を歓迎したのだ。
「妄想の宝庫ですわ」うはうは。
「妄想の宝庫」であることは要するに「脳内補完がしやすい作品」と呼べる。脳内補完、見えなかった部分を想像することの楽しみがある作品ほど、同人人気にも拍車をかける。
となると、元ネタ提供側(ソフトハウス)は、妄想しやすいネタを(例えばそれは回想シーンなどが含まれる)10出すのではなく、7くらいにとどめて差し出した方がいい、ということになる。(これは制作者側の匙加減、いい塩梅といったセンスの問題なので定義はできない)
よって、エロシーンが全部アニメで、腰まで動かされた日には、オイラは逆に萌えない。
「…畜生、オイラの妄想の邪魔をしやがってぇぇぇぇ!」となる。
…ならんのかな。オイラはなるけどな。

という理論から、より優れたPCゲーの定義は何かと言えば、先ほどに述べた「欠陥」を利用した「形式」こそが、相応しい世界観をもつ作品−−「内容的」にも「欠陥」的表現に適した「オタク的ベタ」な世界で、尚且つ10ださないで7くらいにとどめてみました−−となる。
つまり、こうなってくると、欠陥表現に相応しい欠陥作品となって、「形式と内容」が一致することになる。

先ほど一般作品で優れた作品は「形式と内容」が一致しているものこそ素晴らしく、しかし、オタク的にはしてはならない、と述べたが、オタク的作品においては逆の逆で同じことが言えることになる。

そして、補完を必要とさえする、こうした表現上の欠陥を愛する習性は、オタクを論じる時に必ず取りざたされる、「精神的発達の未熟性」と必ずしも無関係ではない、と言えるのではないか。

さて、オイラ的に「形式と内容が一致しており、素晴らしいオタク作品」と分析し評価した作品が、必ずしもヒット作にならない(というかむしろプチヒットで終了)することが多いのを考えると、まあ、あれです。よそのオタクたちはあまりこういう分析をしないということになる。

じゃあ、オイラの評価に反してヒットしている作品のその理由は何だ、となる。その「邪魔する何か」をオイラは「萌え」と呼んだりしてます。

つまり、「設定萌え」「キャラ萌え」「属性萌え」。
「萌え」は時にオイラの評価の邪魔をする。
「萌え」は時にオイラの評価を阻害する。
「萌え」はオタクにとってのラスボスである。

くそ、「萌え」の奴め!

つーことで、最後にオイラが今、最も注目し、期待しているゲームはPULLTOPの「PRINCESS WALTZ」と言っておく。早く発売しないかな。ワクテカして待ってるよ。
ちなみにオイラはイーリス萌えで買うのだが、静姉の人気に押されて影が薄い。静姉さんってどう見ても『うる星』のさくらさんに被るんだよ…。うーん…微妙なんだよ。
やっぱイーリスのパンツ! 真っ白パンツに、キタコレになりますた。

今日の格言。
「『萌え』は時にオイラの萌え評価の邪魔をする」

ということでどっとはらい