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コメントを書きこむ前に、こちらの記事に必ず目を通してください 「処刑宣告

絞死刑/大島渚

絞死刑 [DVD]

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前回のエントリーを参照のこと
http://d.hatena.ne.jp/sutarin/20060404/1144124090

さて、やっとこ大本命の大島渚です。何度も言うけど、一番好きな監督です。
奇しくも『血と骨』という映画は北野武主演・崔洋一監督で、この2人は現映画界きっての、大島渚チルドレンと言うか、リスペクター(造語)の双璧だと思います。北野作品の度重なる大島渚へのオマージュなどについては、いつか書こうと思っていますが。
どーでもいいことだが、大島渚の全盛期を支えた脚本家・佐々木守先生のかつての教え子でした。(と書いた矢先、亡くなっていたことを今知った…。最近じゃねーか…泣ける…うそだろぉ、、、オイラ先生のこと一生忘れねーよ…大好きだったよ…)
佐々木先生はすげぇ人のいいおじさんで、いつも顔が笑ってた。つか、そういう顔だっ! テレビのプロデューサークラスって空威張りする陰険なジジイとか多いけど、佐々木先生は絶対に怒らないでいつもニコニコ太陽みたいな先生だった。遅刻しても「だめだよお」ニコニコ。
ちなみに『装甲騎兵ボトムズ』の高橋良輔監督もいつもニコニコしてて、同じにおいがした。すごい人なのに、尊敬されまくっているのに、絶対に威張らないのだ。
やっぱ、作品には人柄が出てるよ。いや〜な感じの作品書く奴は絶対に性格悪いだろーし。
生でこの2人と接したことのある自分は断言しますよ。
そんな佐々木先生が脚本を書き、(おそらく)崔洋一を狂喜させたであろう『絞死刑』。

日本の大島渚の評価は概ね「社会派監督」「マイナーでマニアック」「よくわからん」だろうけど、果たしてこれは正しいのか? 仮に、純粋な社会派監督でしかなかったら、アンゲロプロスベルトルッチをはじめ海外の多くの監督に影響を与えるだろうか? 海外の監督たちを熱狂させられたか? 

彼が「映画監督の中の映画監督」のようにリスペクトされる所以は、「絶対的普遍性」があるからではないのか。

『絞死刑』は前回エントリーにも書いたとおり、実録ものですが、舞台は死刑場。日時は死刑執行当日。
出演者は死刑囚である主人公、検事、神父、医師、看守など役人揃い踏み。原則室内劇。途中、事件再現のために、いったん外に出るが全体の3分の2は室内で撮影。舞台的雰囲気。
あらすじ。死刑囚Rは在日朝鮮人で20代前半の青年。成績優秀だったが貧しかったため進学できず夜間高校に通いながら働いていた。しかし、2人の日本人女性を強姦し殺害し、死刑を命じられる。で、その当日。
予定通りに刑は執行されたが、Rは死なず、目覚めた時には、記憶をすっかり失っていた。検察官たちはパニックに陥り、Rに犯罪と罪の意識を思い出させようと再現劇を開始する。
って感じ。

記憶喪失による一連の再現劇は滑稽でドタバタ。けど、後半にしたがって深刻で重く、難解なテーマを背負って映画はその全貌を現す。

劇中では朝鮮人差別が多々登場する。「もっと朝鮮人っぽくしゃべれ!」とか「朝鮮と日本は違う」といった風に。
パッチギ!』はある意味「逆」差別映画だったが、『絞死刑』にはそういった感想を抱かない。
主人公Rは死刑囚でも朝鮮人でもなく、われわれが理解できる範疇の人物−−身近にいておかしくない等身大の「人」として描かれる。仕組みは、冒頭で彼が記憶を失うことにより、われわれと同じ地平に彼が立つことから始まるのだから当然といえば当然だ。
再現劇がはじまることによって、観衆はRとともに彼の犯罪を、過去を追想していくことになる。そして、気が付くとRに感情移入している。

こうした仕掛けもさることながら、それらを十全に補う理由は他にもある。登場人物たちがみな平等に公平に描かれている。ぶっちゃけキャラがたっている。
日本の役人どもをうすっぺらく描いてないし、個性的で、それぞれに主義主張を持っていて、独立している。あからさまな製作者の分身と呼べるような人物−−主観に偏ったキャラ−−は一切登場しない。

話はそれるけど、オイラはこうした人物の描き方をする作家を総じて「リアリスト」と呼んでいる。「ドストエフスキー」タイプと言うか。「製作者」の分身みたいな奴がいなくて、全員が全員、別々のことを考えていそうで、事象に際して申し合わせや合意が存在していない、というかそういう風にキャラを動かせる作家。現実がそうであるように、われわれは自分以外の他者を関知しえない。だから「リアリスト」と呼んでいる。
以前に押井守のことを書いた時、押井を「リアリスト」と呼んだ理由も同じである。
…と、話がそれたので軌道修正します。

だから、『絞死刑』は恣意的に意図的に政治的に捻じ曲げられた差別映画に堕さない。
で、ちょっとここでまた話をずらすと、オイラにとって大島映画の最大の魅力は、社会的な題材を扱っても、「普遍的倫理」が突如姿を現すところで、例えば、『戦場のメリークリスマス』で言えば、弟に慈悲を与えられなかったことを後悔し続けているジャック少佐はヨノイに「慈悲」を与えることで自分を救おうとする、それを理解したヨノイは形見分けにジャック少佐の髪を持ち帰る。この一連のシーンは最大の白眉だったわけだが、このシーンを簡単に説明すると、ジャック少佐は「汝よ、隣人を愛せ」を全うした人物であり、ヨノイはそれを理解しただけということになる。
だから、大島渚がこの映画について「伝わった時のうれしさ、伝わらないことの悲しみ、それがこの映画のテーマです」って言ってたけど、まさにその通りなわけです。
つーか、隣人を愛せたら戦争も起こらないわけで、その点でも立派な反戦映画になっていると思うし、戦闘シーンを一切出さずにそれを表現した大島はやっぱり天才だと思うよ。
だけど公開当時、吉本隆明が「何を言いたいのかさっぱり分からん」とけなしていて、このおっさんは映画見る目ないなと思った。

話を戻すと『絞死刑』にも『戦メリ』同様、こういった普遍的倫理が登場する。

実際の李死刑囚自身がそうだったように、主人公Rは読者家でドストエフスキーを愛するような文学青年だった。そのせいか、妄想癖も強かった。犯行前に何度も殺人を頭の中でシュミレートしていたそうな。それを実際に行動に移したら妄想どおりに犯行を行えた。あまりに想像と一緒でめまいさえ覚えた。
故に、彼は殺害した被害者たちを、自分が作り上げた想像上の人物、ヴェールに包まれた存在のようにしか思えなかった。

端的に言えば、Rは極限的な「独我論者」だった。(つか殺人者っておおむねこうした「独我論者」しかいないと思います。他者に対する認識が甘いというか、他者を自己に内在できるというか、長崎のNEVADAとか明らかにそうだし)

しかし事件後、獄中で姉を愛しはじめたRは、姉のことを思ったり、心配したりするうちに、被害者たちについて同じ気持ちを抱くようになっていく。

「好きな人の死を考えた時、僕ははじめて、殺してしまった人たちを現実として感じることができた」と。
つまり、「私は私で、あなたがあなたで、私はそれを認め、私が私を思うことと同じくらい、あなたの存在を尊重する」−−といった風に思考を転回していくわけです。

「愛とは何か」という繰り返されつづけた命題の答えがここにある。
ヴォネガットも「私が誰かを大切に扱い、そして相手もわたしを大切に扱ってくれた」ことを「愛」と呼んでいるように、つまり、相手を大切に思うことこそが「愛」なのだ。

だから、極限的な独我論者であったRが他者の存在を認めていく過程は、実に感動的である。
実際の事件でも李被告は、獄中で反省し、文才もあったため、文化人・知識人を中心に彼に対して減刑を要求する運動が起こった。しかし、あっという間に李死刑囚は処刑され、それに憤りを感じた大島渚は、この映画を撮った。このへんは永山則夫と事情が似てますな。

とにかく、オイラにとって衝撃だったのは、ここまで分かりやすく明確な独我論批判をしている作品は、はじめてだったってことかな。
独我論について考えたこともなく、何が悪いか分かっていない人も多いから、そういう人にとっては「はぁ?」な映画にしかならんだろうが。

つか、そもそも日本は独我論天国で、独我論的作風がもてはやされたり、無自覚なままに評価されたりする風土がある。
だから、『絞死刑』見たときは、分かりやすいようで最も分かりにくいテーマを、実際の事件に絡めて、はっきりくっきり答えを出している時点でやっぱり大島は天才だ、と思った。

ぶっちゃけ独我論を巡っては、極論で話をするのでややこしくなることが多い。しかし、現実には、われわれが誰でも知っているような有名作家が独我論全開の大御所だったりするわけで(例えば村上春樹とかな)、そうした風土を考えると、この映画は燦然と輝いて見える。

で、独我論の説明と批判については、親切で良質な哲学ホムペを見つけたので、引用させていただいた。

そうとするなら、ロボットでしかない者を殺害したらどうなるのでしょうか。その者はあくまで宇宙中でたった一人しかいない私という奇蹟性を取り巻き、またその奇蹟性を隠蔽する者として私の周囲に存在します。そして、そのためだけに存在します。そのようなそもそも私と同じでない仮の人間を殺害したとしてそれがどんな罪になるというのでしょうか。それは結局、隣の飼い犬を殺したのと同じレベルでしか語れないのではないでしょうか。隣の花瓶を壊してしまったのと同じ地平において捉えられるべきものとなるのではないでしょうか。


第3章 パースペクティブにおける構造性「第7節  極限的独我論の意味」より

このような極限的独我論は否定できません。しかし、それにしてもこの論の最大の欠点は倫理性に対して考えられるような糸口を持たないというところです。自分の回りの人間など、どうせ仮の人間なのだから、殺そうとも、本質的に私は無罪だ、もし罪が要求されるとするなら、それはマネキンを壊してしまった程度の器物損壊でしかないと考えることが可能になるでしょう。人生ドラマにおいては、それによって死刑を宣告されようとも。

私たちが
「人生、いかに生きるべきか」
と悩むとき、それは倫理性において問われています。結局、極限的独我論においては哲学的問題として重要な位置を占めるはずの、人生、いかに生きるべきかという設問に対して答えられるべき何物も持ち得ないということです。そのような考えが、現実を生きる私たちにとって本当に意義あり、実りある哲学となり得るでしょうか。このような極限的独我論を決して否定できないにしても、積極的に推すには相当に迂回的な思考法が必要になることは必至でしょう。


第3章 パースペクティブにおける構造性「第8節 極限的独我論が持ち得ない倫理性」より

ですが、私はまさにそのとき、考え込み、頭を抱えていたのでした。どうしても哲学書の中へと体ごとのめり込んでいけないのです。何かが私を抑え込みます。哲学書へと警戒のまなざしを向けてしまうのです。何がそうさせるのでしょう。何が私を引き留めるというのでしょうか。それこそが他者でした。

「ここには確かに私が書かれているように見える。だが、そうとするなら、どうしてここには私と同じぐらい大切な”あの人”が描写されていないのだろう?」

と思ってしまったのです。
哲学書には”私”のことはうんざりするぐらい、書かれているのに、私が愛するあの人の面影が哲学書の中にほの見えてこなかったのです。どうして哲学書は「あの人」のことについて思い巡らせてくれないのだろうか。どうして、”私”をこんなにも重要に扱いながら「あの人」のことについては無視してしまうのだろうか、それは差別ではないか、このような差別的な扱いが哲学において行われていいのか、そんなふうに思われてならなかったのです。

第3章 パースペクティブにおける構造性「第9節 哲学史的私に無視されたあの人」より

この方の文章はとてもよいので、全部読むことをオススメする。
つか、この文章の流れで『絞死刑』の主人公の心の流れは説明つく気が。

まあ、大半の哲学サイトって一般人にはぜんぜん理解できない、アカデミックな哲学用語を駆使して、パラダイムに毒された論争を広げていますけど、あれらは何とかならんのか、といつも思っているので、この引用もとのサイト主さんのような哲学への態度には感動した。こういう人が哲学語るといいよなー…、みたいな。