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パッチギ!/井筒和幸


お次が『パッチギ!』。
周囲の評判もよく、各レビューサイトでも軒並み好評。各映画賞も受賞の超話題作。知り合いの映画関係者も絶賛。
そのせいか、期待が大きすぎたかもしれない。否、そうじゃなくても、はっきりと言う。これは駄作だ。よく言って凡作。
これをいいと思った人は正直、映画を見る目がないと思う。感動どころが分からないまま見終わってしまった。これを絶賛する人はいったいどこに惚れたのか。ストーリーか、映像か? どっちもひどいと思うのだが。

忌憚なく言わせてもらうと、井筒和幸監督に映画の才能はない。「こちトラ自腹じゃ」などの映画批評では、面白いこと言うし、ご意見番としては評価するが、映画製作者としてはどうでもいい存在だ。映画界のおすぎなんだ、結局。
つっても、「自腹感想」の言っていることすべてに同意しているわけじゃないけど。
例えば、イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』では、「イーストウッドはあらゆる意味で映画を超越した。神の領域だ」と絶賛しており、それには同意するけど、一方で深作の『バトル・ロワイアル』を「子供同士が殺し合いする映画っつーだけで胸糞悪い」とけなしていた。
バトロワ』批判で分かるが、要するにこの人は内容で映画を考えている人だと思う。だから、『バトロワ』を一蹴し、『ミリオンダラー・ベイビー』を持ち上げるのだ。故に絵づくりが杜撰で凡庸、テレビ並なのだ。

例えば、最初のバスを押し倒すシーンとか、撮りようによってはいい絵になりうるだろうに、普通に撮りすぎて面白くも何ともない。でもって、全編こういった凡庸な絵の羅列がつづく。
これはテレビドラマのレベルだ。映画である必要はないと思う。Vシネで十分だ。つか、井筒監督は山田洋次みたいな監督なのだ。だから、評価されるんだよね。ふん、ツマンネ

内容についても文句はある。まず、日本vs在日の描き方が漫画的過ぎる。勧善懲悪が好きなのだろうが、ここまでやられるとあざとくて鼻白む。日本の不良どもを「悪」にしたいからって、いまどきラーメンマンみたいな不良像とか、スト2キャラみたいな奴ってどーよ。さらに朝鮮学校の連中はこぞってイケメンだし。
もっと言えば、ここまで漫画的なら徹底して漫画的にやるべきなのだが、中途半端にリアリズムを追求している。例えば、朝鮮戦争など社会問題が絡んでくる。しかし、元からある漫画的要素のせいで相殺され、その逆も然り。だから、全体茶番に見える。とっちらかった印象を与える。

後、ケンカのシーンが無駄に多い。映画そのものに機能してない。失敗していればまだよかったのだけれど、この人ケンカ映画の人だから、これは人並みに上手い。だから、つまらない。
テレビで言えばCMみたいなものになってしまっていて、始まると「またか」とうんざりする。
比べて『血と骨』の暴力シーンは迫力と生々しさと狂気があった。暴力シーンが映画の世界を決定付けていた。『バトロワ』も然り。これでよく批判できたなあ、と思う。

そんな風に、始終しらけた気分で見ていたが、終盤に向けて、映画はどんどんやばい方向に向かっていき、ラスト10分で遂に爆発。我慢できず大口あけて涙流して大爆笑した。いや〜久しぶりにバカ映画を見せてもらいました! この荒唐無稽さは『みんな〜やってるか!』に通じるよ。
先にこの映画を見たオイラの知人が「ラスト泣けるよー」って言ってたけど、ははははは、確かに泣くほど笑いました。いや違うが。つか、オイラにとって映画のラスト10分は完全にコントでした。喜劇でした。突っ込みどころありすぎです。

もちろん、ラストだけでなく途中も何度か、失笑した。例えば、康介がキョンジャ一家の宴会場で「イムジン河」を歌うシーン。感動させたい意図は分かるんだけど、見事に滑っててて、その失敗の仕方が面白くて笑わせてもらった。井筒監督は怒るだろうけど。仕方ないよ、だって滑稽に見えるんだから。

で大爆笑のラスト10分だけど、ネタバレで書かせてもらう。()がオイラの突っ込みです。
まず、康介がキョンジャ一家に日本人であることで拒絶される→康介、傷心のままギターを抱え家を出る→康介、泣き叫びながら「こんなもの、こーしてやるっ! ギターなんてやめてやるーーーー」っと橋の上でギターを叩き壊し川に捨てる→しかし、その足で以前スカウトされたラジオ局に向かう→生放送で「イムジン河」を熱唱する(ギター捨てた意味はどこに…)→康介の出演しているラジオ放送に気付いたキョンジャは家族に聴かせる→家族、キャンジャ感動して泣く!(こんな単細胞に描いていいのかよ…)→一方、アンソンたちは日本の不良グループとの決闘場へ車で向かう→その横を一台のバスが通る→バスにはアンソンの元恋人でアンソンの子を身ごもった臨月の桃子が乗ってるし(すげー偶然)→桃子、陣痛に襲われ「生まれる〜!」(予定どおりじゃなくて予定調和すぎ)→何も知らないアンソンは河原で決闘開始(『さらば 青春の光』のモッズとパンクの決闘のよう…つかビーバップハイスクール?)→出産直前の桃子が運ばれてきた病院に勤める看護婦のガンジャは病院を飛び出し、アンソンたちの決闘場に向かう(何で知ってるんだか)→ケンカ中のアンソンにガンジャ叫ぶ「子ども生まれるのよ!」→アンソン「なんじゃと!」→アンソン、ケンカを途中で放棄し病院に向かう(死闘だったはずでは…)→一方、康介のいるラジオ局に自転車で向かうキョンジャ→番組終了と同時にビルからでてくる康介をまちぶせ、2人再会、抱き合う→アンソンは病院に到着、桃子は無事出産。一同集合「よかったよかったマンセーマンセー」→アンソン「俺もパパじゃあ!桃子、幸せにしてやるけん!」(……)
といった大ラスト・大団円といった内容だった。記憶に頼って書いているので、必ずしも正確な記述ではないけど。
劇中にあった「いろいろ大事なこと」を中途半端にしたまま(監督の都合で)終わったこの映画の罪は重い。
つーか、最大の突っ込みどころは
「一晩に、これだけの出来事が、同時多発的に偶発的に起こり、超ご都合主義的展開で終焉」
といった強引さであり、これは下手な少女漫画もびっくりだと思う。
普通の作り手だったら、いくらなんでもやりすぎだなあ、都合よすぎるよなぁ、とかちっとは考えると思うんだけどね。
まったく考えないで撮っているあたり…何も考えていないのだろうなあ!

さらに各々の演出も限りなく寒かった。
役者たちは、「偶発的事象」をあらかじめ知っていたかのように、打ち合わせしていたように、「ぴったり」呼吸があっており。いや、あわせなくていいから…。
感動作とか言われていますけど、出鱈目っすね。これに感動している人々のオツムのおめでたさが正直羨ましいです。通年、桜が咲いていそうです。
この映画は「荒唐無稽なB級コメディー」以上でも以下でもない。この映画に賞をあげてしまった審査員たちは恥を知ったほうがいい。つか、日本映画の賞なんて前からこんなもんだったが。
オイラはもう二度と映画を分かってない一般人のオススメを一切信じない。頭の構造が違う。オイラの頭は桜咲いてねーもん。
暇で暇でこんなに暇ならいっそ死のうかと考えるくらい暇な時だけ見ればいいよ、そうじゃない時に見ると2時間無駄にする、と友達に言っておいた。
そんな感じ。

で、次にやっと『絞死刑』について書きます。