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ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜

ファンキー!―宇宙は見える所までしかない

ファンキー!―宇宙は見える所までしかない

最初に断っておきますが、オイラは「大人計画」の演劇を見たことはないし、良く知らない。
そもそも、演劇つながりと言えば、知り合いに東京ヴォードヴィルショーの縁者くらいしかいないし、つかこうへい劇団の人とちょっとだけ仕事をしたことがあるくらい。

そこで、松尾スズキですが「大人計画」に在籍している宮藤官九郎宮崎吐夢は普通にいいと思いますし、ペリーさんも大好きです。
しかし、だ、クドカン宮崎吐夢も「大人計画」で、オイラの嫌いな松尾スズキに同行している事実に変わりはなく、よくこの人と一緒にやっていけるわね、といったいかんともしがたい感慨を抱くというか、不思議ですね〜と思っちょるわけです。

で、今回は岸田国士戯曲賞受賞作である『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』を読むことにしました。96年作なので結構前ですが、一つだけ分かりました。
この人は当時も今もまったく作風(芸風)が変わっていない。10年近く同じネタを続ける芸人は珍しいと思います。つか、ちゃんばらトリオか。
『破壊』は漫画で、こちらは戯曲で、でも違いがまったく分からず、同じ作品に見えるのは、オイラがアホつーことでファイナルアンサー?

要するに松尾スズキの一番言いたいこと→「がんばる人は究極のアホ」というテーマが一緒という時点で、ストーリーや登場人物が違うのに、違う作品に見えないのです。
内容を書くのは正直しんどいので割愛する。というか、話はないに等しい。基本は不条理で、コントのようなやりとりが続く。会話の部分で笑いを狙っているのが透けて見えるのだが、オイラはほとんど笑わなかった。ほとんどというのは、何箇所かで笑った部分は確かにあった、というのは認めるということにおいて。しかし、それらはナンセンスなものだけでした。

この人の笑いはオイラとツボがことごとく違って、いわゆるブラックユーモア、シニカルで斜に構えた笑いなのです。ぶっちゃけ「他者を貶めて笑う」というか。
オイラは人の欠点をネタにしたり、不幸を笑ったりする時点で、ネタにする奴の性格の悪さが先行してしまい、その時点で笑えなくなる。オイラが評価するギャグは専ら「自分を貶める」か「ナンセンス」なネタであって、松尾スズキのギャグは他者を貶める分、陰湿な気がして全然笑えないわけです。
要するに、だ。松尾スズキで爆笑する人たちってのは、日常でも他人の不幸がおかしくて仕方がない人たちだと思う。はっきり言って性格悪いよ。

最近の山本直樹の「後味最悪」「暗くなる」といった点も、松尾スズキの影響だというのが納得できました。
例えば、エンヤなんていい鴨にされていて、幸いにもオイラはエンヤのファンではなかったが、ファンの人が読んだら結構不愉快になるのではないだろうか。

マツエ 繁華街のとおりに面しててね、寮が。窓から、いつも朝、酔っ払いがゲロ吐くの見えたんだ。

コイト 私たちいつも、その時、窓からラジカセでエンヤをかけてあげるの。あははは。

コイト、再びエンヤをかける。
マツエ、ゆっくりゲロを吐く真似。

コイト あはは。感動ゲロ。(拍手)マツボックリ、マツボックリー。

マツエ (とめて)……ふふ。ゲロまで感動させるなんて。おこがましい音楽だと思わない? はらたつから、おもしろエンヤにしてやるんだ。


『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』より

意図として狙っているのが見えればまだしも、そういう書き方を一切していないので、単にエンヤの悪口を言っているようにしか見えない。これで笑う人ってのは相当根性が悪いのでは。

あと参ったのは、登場人物が多い上に、個々の書き分けができていないことで、舞台で見るなら役者が演じる分、区別がつくだろうが、戯曲という字面で読むとキャラがどんどん混同されていって、ちょっと前に登場したキャラが、ブランク後に再登場した時は、どんなキャラだったかすっかり忘れてしまうこと。
おのおののキャラには属性や職業があるのに、どんどん無効化されていく。だって、ギャグの芸風も統一されているし、思考回路も統一されているし、会話のリズムも統一されているし、結論、キャラを一つしか書けないのだ、と思った。
恐るべし他者性の無さ! なんつーか、松尾スズキの独り芝居というか、独りで自問自答しているっていう印象でした。
つか、途中から「こいつ誰だっけ?」となってもいちいち確認するのを放棄して読み終えましたよ。

出来損ないのポストモダンという感じでした。それを言ったら高橋源一郎といい勝負なんだけど、それでもまだ源一郎の方が後味の悪さがないというか。
で、岸田国士戯曲賞の選評を参考にすると、選考委員で一番真っ当な選評を書いていたのは太田省吾だけだと思った。

最終的には松尾スズキ氏の『ファンキー!』の受賞に同意しました。
しかし、まだその賛成には揺れる気持ちが残っています。そこのところを書いておきたいと思います。
<略>
そして、サブタイトルにある「宇宙は見える所までしかない」という松尾氏の世界認識、それを裏打ちするような最終部でのセリフ「あなたが笑っている場所だけがボクの居場所、そこにしかボクの居場所はないんです」には」氏の宣言のようなものが感じられました。
しかし<ここにあるものしかない>という、その<ここにあるもの>をどういうものごととしてとらえるのか、つまり作品の展開部について、宣言との関係は安易な落差としか感じることができませんでした。
テレビ芸能文化を共通項として成り立っているとする氏の<ここにあるもの>の前提が、私にはひどく狭いものに思え、氏の感受している現実認識はどこまで他者と交換しうるものとしようとしているのかということに疑問を感じたということです。つまり、<ここにあるもの>の空虚がそこへの自足と思えたと言ったらよいでしょうか。


『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』<選評>より

あとは別役実も鋭いことを言っているが、後半から評価しているし、野田秀樹にいたってははべた褒め。井上ひさしは全然、分かってない感じ。
最強は『新しい劇的文体』というタイトルの選評で手放しで褒めちぎった佐藤信

松尾スズキさんの『ファンキー!』は、精密機械の歯車のように正確なせりふと画面のかみ合わせが見事だった。笑いと悪意と批評に溢れた短いショットが、まるで自動筆記のように心地よいリズムで連なっていく。そのリズム感覚が、新鮮な劇的文体の誕生を確かに予感させる。ぼくたちの周囲にある重くて日常的なテーマを、表層ではなく、現代人の身体感覚で裁いた手際にも拍手。


『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』<選評>より

とまあ、どこを指摘してそう思っているのか、意味不明な選評を書いていた。
なんつーか、岸田国士戯曲賞の選考委員は粒ぞろいでへタレだと思った。まあ、日本の演劇なんてこんなものか。ものすごい下手な小説で赤恥さらしている柳美里が受賞した賞だし。これなら、まだ文学賞の選考委員のほうが幾分か「わかっている」委員が多いと感じた。

それと「あとがき」で松尾スズキが本音を書いていて、図らずも以前からオイラが指摘していたことは正しかったのだな、と改めて確認させてもらった。

前段では本人の学生時代「登校拒否で下痢した、苦しかった、惨めでした」つー暗い過去のトラウマが吐露されている。同情を買いたいのだろうが、見せびらかしの思わせぶりなトラウマ語りに誰が同情なんてしてやるか。
自分ばかりが一番不幸といつでも被害者面する奴が大嫌いなんだよ。そういう奴は自分が加害者になっているかも、などと少しでも考えることがあるのだろうか。ないから、果てしなく図々しくふるまえるのだと思う。

作品は常に人を喜ばせもするし傷つけもする、そのリスクを、その責任を全部引き受けるつもりで書けないのであれば、やめるべきだ。
そんな当たり前のことを松尾スズキ(や柳美里なんかは「特に」)気づいていない気がする。

「被害者面すると同時に加害者になることに気づかないのが、日本人の愚かさだ」と大塚英志が『週刊金曜日』で言っていたけど、まったくその通り。
これからは松尾スズキは「被害者」と呼ぶことにします。あいにく、弟子の本谷有希子も『被害者の国』という小説を書いてるし。師弟同士でプゲラッチョ!

なんか努力ってズルしてるような。自分ががんばれないのは、がんばる能力が初めから欠けていて、だから無理してがんばるのは神様が与えてくれたもの以上を欲張っているというか。これ、凄くがんばっている人にはゴメンというしかないけれど、努力ってなんか下品。そんなふしだらなことを考えるようになって、密かにいまだに考え続けております。
<略>
必要以上にがんばっている奴見ると、腹立ちます。「おまえが世界をつらくしてるんだ」。説教してやりたくなります。「お前がんばりたくてもがんばれない人たちの面倒見れるんか」。無茶も言いたくなります。
さて、そんな私がこういう賞をいただくというのは、いよいよがんばってもどうしようもない時代に、世界が足を踏み入れ始めたとことの象徴ではないでしょうか。<略>もしかしたら、これは私の夢である「がんばれない奴ら総決起」への前祝いなのかもしれません。がんばる奴らとがんばれない奴らが、いつか広い地平で出会うその日を、わたしは無理してまでがんばらないことで祈りたいのです。<略>
それはもしかしたら世界が完璧にダメになる日かも知れません。だけどもう、ここまでがんばってダメだったんだから、トントンということで手を打とうじゃないですか。

『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』<あとがきにかえて>より

賢明な人なら読めば分かるだろうけど、要するに松尾スズキは大きな子供なのです。
松尾スズキはどうやら「がんばって成功してしまった人」に対して激しくルサンチマンがあるようだが、「がんばって成功してしまった」というのは君がそう思い込んでいるだけで、どんな人も見えない努力をしていると思うのですよ。そう思うのはオイラだけですか。そう思ってしまうオイラがアホなのでしょうか?

つかさ、「だけどもう、ここまでがんばってダメだったんだから、トントンということで手を打とうじゃないですか」と言うのであれば、戦場に行って撃たれてきてください、とか思います。
過去のトラウマだかなんだか知らんが、その反動で「がんばる人」への激しいルサンチマンと化し、人を嘲笑する作風を生み出すって、正直すごい原動力な気がするんですが、よく続くなあ。
労働組合も作らず酒場で愚痴言って憂さ晴らし、横からしたり顔で説教したり、レジスタンスに野次をとばす術だけ長けている、それって『日刊ゲンダイ』を愛読してるリーマンと変わらない。加えて、この被害者意識。

松尾くん、君は大島渚の映画に出られればよかったのに(^^)。
『御法度』撮影中に田口トモロヲがひたすら大島から
「被害者ぁ意識をぉ捨て〜ろぉぉぉぉ〜〜〜〜っ!」
と叫ばれていたらしいけど、いや、田口トモロヲは卑屈な芸風が売りの俳優ですから、それ否定したら元も子もないのですが、松尾スズキが出演したら間違いなく同じことを叫ばれただろうね。
「被害者ぁ意識をぉ捨て〜ろぉぉぉぉ〜〜〜〜っ!」
ってさ。
それはそれで面白い伝説になったのに。

イン・ザ・プール [DVD]

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つか、奥田英朗の『イン・ザ・プール』で伊良部役だったんだよね。それで奥田氏はインタビューで皮肉にもこんなこと言ってる。

わかったようなことを言われるのが一番腹立たしいから、わかったようなことは書きたくないんですよ。
“自分のことを書いている小説”というのは、作家が自分にうっとりしながら書いているような小説のこと。そういう小説が読みたいという需要もあるんでしょうけど、少なくとも僕の読者はそういう人じゃないと思っています。自分がそうじゃないから。

Yahoo!ブックス - インタビュー - 奥田英朗



<初>松尾スズキ『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』(単行本)★
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